五秒間の魔法 何の通知も知らせないスマホが、なんだか自分の物じゃないようで落ち着かない。それもこれも、夏休みの後半は休みなく、毎晩決まった時間に冬弥と通話をしていたせいだ。
きっかけは、八月に入ってもオレの宿題が初日にちょっと触った程度から一切進んでいないということを冬弥が知ったところからだ。だって、夏休みだぞ。朝から晩まで集中して練習できるし、バイトだって稼ぎ時だしで、下手したら普通に学校に行っているときよりも忙しい。初日に少しでも触っただけ褒めて欲しいくらいだった。
しかし、その裏で優秀な相棒様は毎日コツコツと宿題を進め、八月中旬には終わる目処まで立っていた。そんなにさっさと宿題をやっつけなくてもいいだろ、って言ってみたけど、宿題の他にも個人で夏休み明けのテスト対策をするらしい。うへえ。
信じらんねえってのが顔に出ていたのか、「そんなことをしているとまた補習になるぞ」なんて、勉強のことになるといつも穏やかな冬弥がウソみたいに厳しい人格が顔を出す。手を挙げて降参の意思を示したオレに、冬弥が提案をしてきたんだ。そんなことなら、毎晩通話しようって。
オレは一人だと宿題を放り出してやりたいことを優先させてしまうから、毎日三十分だけでも通話を繋ぎ、その間は勉強をする。そんな取り決め。正直、そこまで冬弥に付き合わせるのは悪いなって気持ちがあったけど、数日試してみたらこれが案外良くて、結局最終日に宿題を終わらせるまで続いた。
通話を始めたら、まずその日のコンディションや科目の得意不得意を加味して自分で勉強する時間と目標を冬弥へ宣言する。この、冬弥が聞いているってのがオレには効果ばつぐんだった。集中が途切れそうになったときでも、一度冬弥にやると言ったことはどんなことでもやり遂げたい。という気持ちがオレをノートと参考書に向かわせた。
それに、分からないところが出てきても、冬弥に聞けば解説をしてくれる。そんで、きちんと範囲が終われば「頑張ったな」と優しい声で褒めてくれるというご褒美が待っているのだ。やる気にならないわけがない。お互いが喋らないいわゆる作業通話みたいなのは、今までオレには良さがわからなかった。でも、通話の向こうで紙が擦れ合ったり何かを書き留めているような音がすると、冬弥も通話の向こうで頑張ってんだと思えて頑張るための燃料になった。
ただ、良いことでもあり、悪いことでもあったことがひとつある。いくら存在を感じることができても、通話じゃ冬弥に触れられないし顔も見られないことだ。
多分同じ部屋で勉強してたら、オレはノートとかよりも冬弥を見ちまうし構っちまう。だから、勉強に集中するって意味ではこれ以上なく最適手だった。でも、その日の範囲を終えたオレを褒めるときの冬弥の声からすると、きっとこれ以上なく優しい顔をしているはずなのだ。それを見逃しているなんて、すごく勿体無い。端的に言えば、欲求不満が積もり積もっている。だって、毎日会ってるっていったって互いの家に両親がいたり、練習だったり、ビビバスメンバーで集まっていろんな経験をするって名目で遊びに行ったりで恋人らしいことができているかと言えば全然だった。
そんななかで、毎日続いていた通話って繋がりすら無くなってしまった。夏休みの終わりと共に。
冬弥が足りない。冬弥の声が聞きたい。別に、通話するほどの用事が無くたって電話を嫌がるような奴じゃないことくらい分かっている。でも、最近は通話するのが当たり前になっていたから、こんなときにどうやって誘えばいいのか分からない。スマホはいつも通話を始めていた時刻よりも遅い時間を示してもなお、黙ったままだ。
「……ばか」
かけてこない冬弥が悪いわけじゃない。そんなこと分かっている。それでも、かけたいと思っているのに踏み出せずにいる自分自身への罵倒を呟かずにいられなかっただけだ。
そんな呟きを怒ったかのように、スマホがてんてこと軽快な着信音を鳴らす。発信者には見慣れた相棒の名前。
「おわ、わ、……っ、もしもし?」
滑り落としそうになった手の中で震える携帯をお手玉して、なんとか通話に切り替える。
「すまない、彰人。風呂が遅れて、かけるのも遅くなってしまった」
通話口から聞こえる冬弥の声は珍しく分かりやすいくらいに焦っていて、思わず吹き出してしまった。ちくちくささくれていた気持ちがたった五秒で魔法のように凪いでいく。どうやら、オレがうじうじ心配しなくても冬弥はこのルーティンを守るつもりでいたらしい。
「そんな慌てんなって。ちゃんと髪乾かしたか?」
「いや。でも髪が長いわけでもないから、そのうち乾く」
「痛むから横着せずに乾かしてこい。オレもその間に、あー……適当に飲み物とか取ってくるし」
「そうか?」
「おう。……久しぶりに勉強抜きでゆっくりお前と話したい」
「そうだな。じゃあ、俺もコーヒーを淹れてこよう」
「ん。じゃあ、準備してもう一回かけ直す」
「ああ。また後で」
ぷつり、とあっけなく通話が途切れる。そのままカレンダーアプリを立ち上げて、青く印をつけた来週末の日付をチェックした。両親が家を空ける日を狙って有名店のパンケーキで絵名を買収してまで確保した、家に家族が誰もいない翌日が完全に休みの日。夏休みは終わるけど、浴衣で花火でも水着で海でもない最後の夏の思い出を作るチャンスがこの手にあった。
らしくなく緊張で乾く喉を潤すためのカフェオレを準備しようと、オレは深呼吸をひとつしてキッチンへ足を向けた。