まず最初に思ったのは闘うのに支障はないということだった。
そしてその次に、これからどう動くかということ。
そしてその次に過ったのは、あいつはどう思うんだろうということだった。
今夜はこのトンチキ魔境新横浜にしては珍しくまともに、というと語弊がある気もするが普段の変態催眠でバカ騒ぎとは違う。その凶悪さと能力で人を襲い街を壊す危険度A級オーバーの吸血鬼との闘いだった。
吸対からの情報によるとやはりと言うか他の街から流れてきた吸血鬼らしいが、その街の退治人に手傷を負わされ逃げた先がここだったらしい。なんとも良い迷惑だ。
そいつは手負いの身を早急に回復しようとしたのか、ここシンヨコで吸血通り魔の事件が頻繁に起こるようになった。
由々しき事態となったそれを、いつかのように吸対との合同捜査の末に正体と居場所を突き止めとめたのは最初と思わしき被害から半月経った頃だった。そしてその頃にはもう随分と血を吸ったらしい吸血鬼は余裕の顔をして俺たちを迎えたのだった。
相対した吸血鬼はすっかり回復をしたのか長々とした口上はもう忘れてしまったが、やけに自信満々といった風情はそれなりに裏打ちされたものらしく久し振りの本格的な戦闘が始まった。
しかしいくら普段は変態たちばかりを相手にしているとは言え、ここにいるのは優秀な吸血鬼退治人たちばかりだ。
徐々に劣勢へと傾いている自分に気づいたらしい吸血鬼はもはや破れかぶれとばかりに辺り一帯を無差別に攻撃をし始めた。だがやけくその大雑把な攻撃など、素人ならいざ知らず退治人たちにそうそう当たりなどしない。
しかしそれは闘い慣れている退治人に限ってのことであり、俺はふと見えた姿に危ない、と言うよりも思うよりも早く身体が走り出していた。
そこには好奇心からか、先ほど避難させた筈だった子どもがこちらを眺めていたのが見えたのだ。
咄嗟に動いた身体は攻撃を避ける為のそれではないので、身体の端々が鋭い刃のようなもので切り裂かれるのが解った。
しかし致命傷にならなければ問題はないと、構わずに走り続ける。ざしゅ、と肉の切り裂かれる音がやけに近く聞こえたと思えば頬の辺りが熱くなったのが解ったけれど問題はない。どうやらかなり深く切られたようだが、顔くらいなら安いものだ。
幸いなことに俺が辿り着くまで子どもに怪我はないようで、どうやら恐ろしさに足がすくんでいたらしく、俺がもう大丈夫だと声を掛けると声を上げて泣き始めた。
子どもを宥めながら自分の身体を確かめる。細かい傷は多いが腕や足は充分に動くのを確認し、これならすぐに戻れると判断してその子を吸対へと預ければ、あとはもう簡単な仕事だった。なんせ俺が少し離脱している間に殆どのカタはついていたのだから。解ってはいたが流石は優秀な退治人たちだ。
追い詰められた吸血鬼は最後の抵抗とばかりのけたたましい咆哮を上げる姿を見ながら、俺は銃口を真っ直ぐと構える。
切られたのが頬で良かった。頭からなら血が邪魔になって狙いが定まらなくなってしまう。
渇いた発砲音が鳴り響くのと同時に、禍々しい咆哮は消えた。そしてすぐに肉が地面にぶつかる濁った音がする。それを最後に辺り一帯には一瞬の静寂を経て、代わりに仲間たちの歓声が上がった。
それを聞いてふと息を吐けば、地面にぽたぽたと黒い染みが幾つも出来るのが見えて、それが自分の頬からの血だと気付いてそういえば怪我をしていたのだと思い出す。
──ああ、やっぱり結構ざっくりいかれちまったか。……コレ見たら、あいつはどう思うかなぁ。
傷ついた証である不揃いな染みが出来ていくのをぼんやりと眺める。
退治中にも思った通り、顔くらいなら安いものなのは間違いはない。けれど、心の奥の中でほんの少しだけ悲しさに良く似ているけれど違う、なんとも心地の悪い気持ちが生まれてしまったのが情けないと思う。
今度は意識しての自嘲を含んだ溜め息を吐けば、まるでそれに相槌を打つようにまた流れ落ちた血が地面を叩いた。
あいつ、というのはあいつだ。俺の事務所に居座る迷惑な同居人というか備品というか、それでまあ恋人というものにもなってしまったドラルクとかいう吸血鬼のことである。
実は未だに俺とあいつが恋人だというのに実感が持てないでいる。
だって俺は、俺が好きなだけで良かったのだからそれ以下はあっても以上なんて望める筈もないと解っていた。
それなのにあいつが、ドラルクが、俺のことを好きだなんて言うから。恋人になってくれと言われた時に驚きのあまりに真っ白になった頭が気がついたら勝手に頷いていたのだ。
ただ恐らく、というかこれはほぼ確信であるのだがあいつが好きなのは俺の容姿だ。
ドラルクはなにかにつけ俺に“かわいい”と言う。勿論そんな訳は無い。自分で言うのも何だが退治人業の為に鍛えた身体はかわいいとは掛け離れいる。
しかしならば顔かと言っても、かわいいと言われるような部類でもないだろう。けれどかわいいと言われる時には大抵、俺の顔を見て言うことが多いのでやはり顔なのだろう。
恐らくは奴の特殊な嗜好に俺の顔がちょうど合っていたとか、そういうのだと思うがそれに思い至った時には生まれて初めてこの顔で良かったなどと思った。
だから今、こうやって顔に傷を作ってしまった俺をあいつがどう思うのだろうかと考えると、きっとがっかりするのだろう。なんなら傷のある顔なんてもう恋人にしたくはないと思うかもしれない。
その予測にぞく、と悪寒のようなものが走る。それはきっと、あり得ることだ。
──こんな顔、あいつだって見たくねぇよな。
ならそうだ、見せなければ良いのだ。
俺はこの顔の傷が癒えるまでの間は事務所には帰らず、あいつにも会わないでおこうということをやけに綺麗に見えた朝焼けの中で決意したのだった。