『事務所を作るんだけど、一緒に来ないか?』
何気ない振りを装って、差し出された震える手。この日、この一瞬を忘れることはないだろう。そう確信しながら、俺はその手を握り返した。
「はーっ 一時はどうなるかと思いましたよ」
ドサリと大袈裟な音を立てて、俺はソファへと沈み込む。それに苦笑を返して、うりゅさんは備付けの小さな冷蔵庫を開いた。
「まあ、上手くいって良かったよ」
「うリュさんの懐的にも?」
「違いない」
カランと軽やかな音ともに、グラスに氷が注がれる。それをもう一度繰り返し、酒瓶を取って彼は隣に腰をおろした。
「ささやかだけど」
「ホントにね」
互いのグラスに酒を注いで、カチンと軽くぶつけあう。二人だけの祝杯だ。
「でもまさか、こんな収まり方をするとは思いませんでしたよ」
「俺も。予想外にエイトがいい働きをしてくれた」
「おい、言い出しっぺ」
「お前だって共犯者じゃないか」
軽口を叩きながら酒を煽る。何度飲んでも、この喉が焼けるような感覚は慣れないものだ。
「もう、何年になるかな」
「何が?」
「お前と出会って」
「なんすか? 急に」
「いや、出会った頃はまだ学生だったのになって」
お互い、顔を見合うことなく会話を続ける。どうせ脳裏に描いている光景は同じものだ。
「懐かしいっすね。幼気な俺に手を出した変態」
「勝手に捏造するな。お前に手を出したのはちゃんと成人してからだろ」
「でもあの頃からオカズにはしてたんでしょ?」
「……ノーコメント」
「ほら見たことか」
この人出会ったのは学生時代、とある動画サイトがきっかけだった。俺の作曲した音楽に動画をつけたいと声をかけて来たのが始まりだ。当時の俺はまだ世間知らずで、そう言われたことに舞い上がった二つ返事で了承してしまったのだ。
「まさかあれが人生を狂わすとは……」
「成功の第一歩だろ」
「ものは言いようっすね」
狂ったきっかけでもあり、成功の第一歩。この人がいなければ俺はここにはいないのだろう。普通に就職して、普通に家庭を築いて、そんな世間一般で言う平凡な幸せが手に入ったのかもしれない。
「後悔してる?」
ここにきて、初めて目が合った。酒で赤らみうるんだ目が、俺だけを見つめる。その問いに応えるように、俺は彼の手をぎゅっと握った。
「あの日、この手を取った時から、とうに覚悟は決めてますよ」
どんな人生を歩もうとも、この手を取ったことを後悔しない。そうして、今の俺があるのだ。
「必要でしょ? 作曲家兼副社長兼秘書兼恋人」
彼に負けない量の肩書きを並べてやれば、飲み込むように瞬きをした後、ぷっと吹き出した。
「ふっ、そうだね。必要だ」
「じゃ、仕方ないから付き合ってあげますよ」
あんたが飽きるまで、そして俺が飽きるまで。俺たちは共犯者なのだから。