人食い燕は歌わない2「よお、先生」
パタン、と帳面を閉じ、ユーリスはひょいと瓦礫の山から立ち上がる。先日までそこにあった豪奢な椅子は片づけられていた。アビスの中は日々様変わりしており、どこからか怪しげな木箱や樽が大量に運び込まれたり、一夜にして忽然と無くなっていたりする。やはりあの椅子も商品だったのだな、と、ベレトは納得して、しげしげとユーリスを見た。
「この間は助かった、礼を言っとく。あんたのおかげで命を拾ったやつもいる。……信頼、とまではいかないが、恩は返すよ」
「では、今日も歌を教えてくれるのか?」
「ははっ……そんなんでいいのか? いや、歌を教える対価はもう貰ってあるしな……この借りは別で、ちゃんと返させてもらうよ」
随分と律儀な生徒だ。ベレトは先日のやりとりを思い出し、緩く頷いた。ユーリスの仲間たちと敵対している組織には、危険な匂いを感じた。降りかかる火の粉はきっちりと払ったが、きっと彼は今後もあの組織とやり合い続けなくてはならないだろう。もしもの時は、手を貸したい。彼が仲間を守り、他者を救うように、自分も彼に何かしてやりたい。できれば、彼の方から助けを求めてくれたらいい。
(放ってはおけない)
彼を守り、導くのは自分の務めだと強く感じていた。それが、教師と生徒という関係がそうさせるのかどうかは、今はまだ分からなかった。
「そういや、昨日うちの奴らが調子に乗って、酒場であんたに一杯奢ったって言ってたが」
「ああ、偶然出くわして、引っ張り込まれた」
「つくづく人がいいな、あんた。いや、俺の部下が悪かったよ。アビスの酒はどうだった?」
「懐かしい味がしたよ」
ベレトの言葉に、ユーリスは「そっか、あんた傭兵だったな」と曖昧に笑う。どうやら言いたいことは別にあるらしい。
「みんな、あんたが酒もイケるし歌も上手いって褒めてたぜ。……本当は、歌、歌えんの?」
「歌……」
讃美歌は、今ユーリスに稽古をつけて貰っている最中だ。ベレトは手元の楽譜に目を落とし、ほんの少しだけ戸惑ったように目を泳がせた。
「上手くはないだろう。きみに教えてもらうまで、音に名前があることも知らなかった」
「ふうん? なら、奴らと何を歌ったんだ?」
「多分、あれだ。大酒飲みの傭兵の歌」
「大酒飲みの? はっは、そうか!」
ベレトの静かな口調でその単語が紡ぎ出されたことが、なんだか意外でおかしくて、ユーリスは声を上げて笑った。
「よし、じゃあ今日の最初は傭兵の歌にしようぜ。歌って見せてくれよ」
「……」
もの言いたげなベレトに、ユーリスはニヤニヤ笑いを隠そうともしない。
「灰色の悪魔、って、あんたのことだろ。……こないだの戦闘、鮮やかだったぜ。先生、あんた……面白いよ。傭兵あがりの教師なんて、さ」
賊あがりの士官学校生も、似たようなもんかな。ユーリスは心中でそう呟くと、ベレトをじっと見つめた。なんとなく、『おねだり』を聞いて欲しかった。自分以外の人間の前で、先生がどんな風に歌っているのか、想像もつかなかった。できれば俺も一緒に酒を飲んでみたかったなんて、そんなこと、どうして言えよう? その場にいたかった、なんて。
上目遣いには自信がある。案の定、ベレトはちょっと迷った後に溜息をひとつ吐くと、一度グッと唇を引き結んだ。
「大声は苦手なんだ」
「おう」
「だから、上手くはない」
そう、しつこく前置きして、やっとベレトは大きく息を吸い、口を開いた。
金が欲しけりゃ戦えよ
何を守るもお前の自由
誰の前にも膝折らず
誰の頬にも接吻しない
傭兵稼業は泥臭え
酒を浴びりゃあ解決だ
ユーリスは、眼を二、三度瞬かせて、表情を変えずに歌い続けるベレトを見た。気まずげな、少し恥ずかしそうな視線は、ユーリスをじっと見返している。
その歌は、歌うというより、酒を飲んで出鱈目に怒鳴り、がなり立てるのが正しい作法だ。しかし、ここにはテーブルに叩きつけて拍を取る杯も、足を踏み鳴らす仲間もいない。そんな中で、ベレトはその透明で静かな声色を精一杯に響かせて、ユーリスの前で歌う。随分きれいに、音を整えて歌っているのは、ユーリスとの練習が効いたせいだろうか。
何が欲しいか言ってみな
紋章、報酬、自由、酒
何が欲しくとも最後には
待っているのは女神様
大酒飲んでひっくり返って
女神の星を見上げて祈れ
自然、ユーリスは口を開いて、笑い声の代わりに歌を紡いでいた。人前で歌うのなんてまっぴら御免だが――これは歌じゃない。だから平気だった。ベレトの声に声を乗せ、二人分の歌がアビスの小部屋に響いた。すると、憎らしいことにベレトが声量を上げてユーリスの声の上を行こうとするから、こちらも負けじと張り上げる。
今日の仲間が明日はかたき
俺が戻らにゃ馬は鳴き
あの娘は他所へ行っちまう
誰かが待ってる家もなく
無事を祈る人もなし
傭兵稼業はひとりきり
傭兵稼業はひとりきり!
「……!」
「あっはは! いいねえ、先生! やるじゃねえか!」
歌い終わるや否や、ユーリスはサッと風琴の前に座ると、その調子のまま讃美歌の前奏を器用に奏で始めた。驚いたような顔をしているベレトを見て、ユーリスはほんの少しだけ頬に血を上らせる。
「あんたの声、好きだぜ。そのまま、ほら、今日はこの曲から!」
「あ……」
言いたいことが沢山あった。誰かと二人で、こんな風に歌を歌ったのは初めてだった。ありがとうと、伝えたかった。ユーリスの歌声を褒めたかった。けれども、きっとそれは今、相応しくない。ベレトはユーリスの奏でる風琴の音にのって、讃美歌の続きを口ずさみ始めた。
せめてこれが歌い終わったら、先ほど眺めていた帳面についてだけ、尋ねても良いだろうか。そんなことを、考えながら。
◇
俺のため墓穴掘って
浴びせてくれよ俺の酒……
「……お頭、……すまねえ……」
「怪我人は黙ってろ」
ユーリスは背負っている仲間の重みを揺すり上げ、奥歯を噛み締めた。血が流れすぎている。早く街に戻って、手当てをしてやらなければならない。ここのところ、魔獣が街道をうろついていると聞いてやむを得ず討伐に向かったが……ユーリスの息がかかった隊商の馬車は無残に破壊され、仲間の血肉と一緒に散らばっていた。なんとか助け出した数人を連れて、安全な場所まで戻る途中、懐かしい歌が蘇る。
稼いだ銭で樽一杯
あの世で飲んでひとりきり
「なあ、……噂じゃ、ガルグ=マク大修道院の跡地に、幽霊が出るらしいぜ」
「おっかねえな、例の化け物じゃねえのか」
「そういや、もうすぐ千年祭か……」
女神の星を見上げても
傭兵稼業はひとりきり
「あんなことになって、もう五年とは早いねえ」
「おい、もうちょいで宿に着く、頑張れよ……」
何が欲しいか言ってみな
紋章、報酬、自由、酒
何が欲しくとも最後には
待っているのは女神様
ふと、街道から東の空を見上げると、大きな星が輝いていた。頬にこびり付いた血も拭わぬまま、仲間を背負い、不思議と思い出すのは士官学校での日々。遠く、ガルグ=マクがそこにある。五年の月日があっという間に過ぎ去り、酒を飲んで陽気に騒いでいられるような世情でもなく、この歌も最後に歌ったのはいつだったやら。
懐かしいひとの声が、だんだんと思い出せなくなって来る。それが寂しかった。必ず、もう一度会えると信じてはいるが、あの若葉色の鋭い眼差しが、日に日に遠くなる。風琴を奏でて、歌を練習した、あの頃の自分も消えつつあるのだろうか。
(先生、あんた……きっと生きて戻る、よな……?)
「お頭、そいつ、代わりましょうか……?」
「俺は大丈夫だ、お前も怪我してんだろ。おい、しっかりしろよ……もうじき、夜が明ける」
千年祭か。ユーリスは、何かの予感を胸に、もう一度仲間を背負い直し、空を見た。女神の星は、祈りに応えるかのようにそこで明るく輝いている。