人喰い燕は歌わない大聖堂の空気が好きだった。士官学校生として初めてガルグ=マクに足を踏み入れた時、空にも届きそうな天井を見上げて、ここが女神様に一番近い場所なのかと感動したものだ。美しいステンドグラスから差し込む光は神秘的で、ああ、家族にも見せてやりてえな、と思った。祈ることはどこででもできる。女神様は全ての祈りに耳を傾けてくださっている。母さんはそう言っていたけれど、大聖堂での祈りは、やはり特別に思えた。
(俺らみたいな悪党の命でも、女神様は……)
ユーリスは祈りを終えると、周囲の視線を振り払うように堂々と胸を張り、灰狼の制服を誇るようにして椅子から立ち上がった。聖堂内にいる司祭の中には、ユーリスの罪状を知るものが少なくない。
(図々しくアビスから上がって来て、大聖堂に入り込んでるように見えても仕方ねえか)
一節前に傭兵上がりの教員からスカウトされたばかりでは、ユーリスの存在が地上に周知されていなくても不思議ではない。いや、中には転入したからといって『わきまえる』べきだと考えている人間もいることだろう。しかし、対価として課題とやらを手伝ってやっている身としては、明るいうちに学校内を歩き回るくらい正当な権利だと主張したい。何しろ前節の課題出撃では、戦いに慣れていないひよっこ貴族どもや、人を殺したこともないような平民上がりの子供が、おっかなびっくり盗賊と対峙していて、本当に心臓に悪かった。
「ですから、来週はこの賛歌を覚えてきてくださいね」
ふいに耳に入って来たのは、ひとりの修道女の凛とした声だった。一瞬、ユーリスの足が逃げの姿勢を取ろうとしたのは、彼女が賛歌の指導に熱心なことで有名だったからだ。実際、大きな歌声を出したがらないユーリスは、現役の学生だった頃に何度か声をかけられたことがある。もっと気持ちを込めて、もっと大きく、自信をもって……なんて、歌好きの彼女にとっては自然にできることかもしれないが、ユーリスには助言が苦痛だった。
(……と、ありゃあ……先生?)
紙の束を押し付けられて、どこか困ったように修道女の向かいに立っていたのは我らが担任教師、ベレトその人だった。困ったように、とは言ったものの、彼の表情は全く変化が見られない。薄く開かれた唇と、手元に落とした視線だけが、ユーリスに『もしかしたら困っているんじゃねえかな』と思わせただけに過ぎなかった。ベレトは目を瞬かせ、なにか返事をして修道女に一礼をする。そのまま大聖堂を出ていく足並みがユーリスと揃ってしまい、外に出るタイミングでなんとなく隣に並んでみる。
「やあユーリス。元気そうだ」
「まあな、先生……それ、どうしたんだ?」
ユーリスの気配にもちろん気付いていたらしいベレトと並んで歩くと、ユーリスに向けられていた視線たちはすっと消えてゆく。それが心地よくて、ユーリスは少し顎を上げてベレトに問いかけた。ベレトはやはり表情を変えず、声色だけは少し弱気に答える。
「賛歌の楽譜、だそうだ」
「楽譜ねえ。随分細けえな……伴奏でもすんのかあ?」
「できると思うか?」
「全然」
ユーリスの軽口を咎めることもなく、ベレトはふう、とひとつ小さな溜息を吐いた。おっと、もしかしてこれは本気で困ってるのかも知れねえぞ。ユーリスはちょっと考えたが、「それじゃあな」と別の道を行く。この教師に深入りする気はないからだ。学級の生徒たちの中には随分と彼を慕っている者もいる。親切だし、優しいし、授業が傭兵目線で面白いし、何より強い。と、評判も悪くないようだ。だが、出会って一節程度の人間にすぐ心を開けるほど、ユーリスは気楽な稼業を担ってはいない。
だから、どこか悩んでいるように口数の少ないベレトを置いて、図書室へと向かった。貴重な文献と静かな空間を再び利用できることは、また学生として扱ってもらえることの大きな利点の一つだ。教団の人間を数名斬ってアビスに堕とされてから、地上では蛇のように嫌われてきた。その自分がもう一度こうして太陽の下を歩けるのは、ベレトのおかげだ。そこは感謝しなくては……
(……てのは、分かってる。それはいいんだけどな……)
ユーリスは自分の帳面に地図を書き写しながら、チラと長机の向かいに目をやった。何故か、少し離れた場所にベレトが陣取って、先ほどの楽譜と何かの本を熱心に見比べているのだ。カリカリ、羽ペンの動きは滑らかではない。明らかに戸惑いながら、紙に何かを書きつけている。ユーリスは、はあ、と溜息を吐くと、己のお人好しさにうんざりしながら席を立つ。本を探すふりをしながら、ベレトの背後から手元を覗き込んだ。
「……ブッ、」
「……!」
しまった。振り返ったベレトに、ユーリスは吹き出してしまった口元を慌てて押さえる。
「わ、悪い、」
「いや……なにかおかしかっただろうか」
「だってあんた、それ、そこの」
ユーリスはベレトのメモを指さして、笑いの衝動を押し殺す。
『猫の鳴き声のように歌うこと。または、馬の嘶き』
「あんたが、そう歌うのか? 猫や馬みてえに?」
「だって、そんな風に歌われていないか? 特にこの部分は……」
「クッ、待ってくれ、はは……!」
ぶるぶると震え始めた己の腹に耐え切れず、ユーリスはベレトの座る椅子の背もたれに手を掛けると、体を折り曲げて呼吸する。
「そっ、それって、あの手本の修道女の声がそう聞こえるってことか?」
「まあ……そうだな。それに、ああいう風に歌うには猫のような声にするしか……ユーリス?」
とうとう堪え切れなくなって、ユーリスはベレトの隣の席に崩れ落ちると、机に突っ伏して笑い始めてしまった。幸いなことに図書室を利用している生徒は少ない。ベレトは自分のメモ書きとユーリスとを見比べて、そうっと声をかけた。
「そんなに、変だったろうか」
「すまねえ先生、馬鹿にしてるわけじゃねえんだが、ちょっと待ってくれ」
肩を揺らしながらそう答えるユーリスに、ベレトはとりあえず楽譜に向き直る。
「……上手く歌えないんだ」
ぽつり。ベレトは、ユーリスが聞いていなくても構わない、といった調子で呟いた。現にユーリスは答えない。
「歌ったことがない、初めて聴く歌ばかりだし……この楽譜というのも訳が分からない。この線の上の黒や白の丸が音を表していると教わったが、俺には全く読めない。それに、彼女の声はまるで……動物的だ」
ヒイッ、とまたユーリスの喉が引きつった。もしかすると、マヌエラ先生のアリアも、ドロテアのソプラノも、今の先生には全部動物の鳴き声のように聞こえてしまうのかもしれない。
「歌とは、もっと大声を出すような……威勢の良いものだと思っていた」
「はあ……あんた、賛歌を聴いたことがあまりなかったんだな」
「そうなんだ」
素直に頷き、ベレトはまたペン先にインクをつける。めくっている本は……庶民向けのセイロス教の聖典だ。ユーリスは行儀悪く机に肘をつくと、ベレトの手元を見守った。
「……先生、その曲の元になった聖句を調べてるのか?」
「ああ。有名な聖句は諳んじられるようになると良い、と」
「マジかよ……そんなもん、俺も覚えてねえぞ」
「ガルグ=マクで働くのなら当然……らしい」
無茶苦茶だ。ユーリスはベレトの手元から楽譜をとり、賛歌の番号を確認した。オーソドックスな三曲だ。確かに、セイロス教徒であればだれでも知っているような聖句を元にしてあるし、歌いやすいものを選んである。しかし……この教師が一人で調べ、音も分からないのに旋律を覚えるのは至難の業だろう。
「歌なら、マヌエラ先生に教えて貰っちゃどうだ?」
「……」
ベレトはほんの少しだけ目を眇め、遠くを見るようなそぶりを見せた。マヌエラ先生に何か苦手意識でもあるのだろうか。または、彼女の部屋を訪れることに……?
手が止まっているのをいいことに、ユーリスはベレトの手から羽ペンをすいと盗み取った。あ、とベレトがその手を見ると、ユーリスの手は器用にさらさらと紙に文字を書きつけた。
「人前で歌うなんざ、俺ぁ大っ嫌いだが……」
『姿勢と呼吸』ユーリスの書いた文字を見て、ベレトは少し首を傾げた。
「どうだ先生、取引しねえか? その簡単な曲なら俺が教えてやれる。その代わり……俺みてえにあんたの学級に入れてやってほしい仲間があと三人いるんだ。一曲につき、一人。……そんなに悪い話じゃねえだろ?」
「……『姿勢と呼吸』とは、歌に必要な力か? 剣の技のようだな」
「ははっ、あんたらしいな……ま、猫や馬みてえな声で歌うより、俺に習っておいた方が得をすると思うけど?」
どうよ。挑戦的に見上げて来るユーリスの誘いに、ベレトは少し考えると、こくりと頷いた。