俺は今でも、あのつくりものの星空と、とびきりあまいコーヒーの味を覚えている。
俺がまだ小学生の時だった。母さんにおつかいを頼まれて、家から自転車を漕いでスーパーに向かった。通り道には空き地があって、長い間そこはからっぽだった。けれどその日には工事が始まっていて、そうしていつの間にか小さなドームのような建物ができていた。
何の建物かすらもわからないのに、なんとなく気になった。そこである日の放課後、俺はランドセルを玄関に置いて、そこまで自転車を走らせていった。
入口の小さなブラックボードには「プラネタリウムカフェ・カルデア」と書かれていた。おそるおそるドアを開けると、カランカランという音の後に、「いらっしゃいませー」という女の人の声がした。
「いらっしゃいませ。お兄さんは一名さまでしょうか」
奥からぱたぱたと足音を立ててやってきたのは、藤色の髪の毛をした女の人だった。
「あ……はい。あの、えっと。ここは、何のお店なんですか」
「ここは、プラネタリウムカフェ・カルデアといいます」
「プラネタリウムカフェ?」
「はい。店内に投影機がありますので、天井に映し出した星空を楽しみながら、お飲み物や軽食、スイーツを摂ることができます」
プラネタリウムといえば、小学四年の時に理科の課外授業で連れて行かれたとき以来かも知れない。あの時はよく分からなくて寝ちゃったけど。
その時は俺の他にお客さんが全然いなかったからか、案内されたのはカウンター席だった。
「お、はじめましてのお客さまだね? ようこそ! とびきりロマンティックなプラネタリウムカフェ・カルデアへ」
カウンターの向こう側から歓迎してくれたのは、茜色の髪の毛をした人だった。
「お兄ちゃん、今日はひとり?」
「ええと、はい。ひとりです」
「そっかあ。星が好きなの?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんですけど……ここ、ずっと空き地だったから、一体何ができたんだろうって気になって」
「それで来てくれたの?! いやあ嬉しいな、興味持ってもらえて」
子どもひとりの俺にも気さくに話しかけてくれて、そしてよく笑う人だった。彼女の笑顔は、それこそ星のようにきらきらと輝いていた。
「さ、せっかくなんだからなんか飲むなり食べるなりしていきなよ。せっかくウチに興味もってくれたんだし、お兄ちゃんには今日サービスしちゃお。……何がいい?」
彼女はメニューを俺の目の前で開いてみせた。クラブサンドにナポリタン、クリームソーダに日替わりケーキ。どれもおいしそうだった。でも。
「いや、それはさすがに……」
いきなり入ってきた客にサービスだなんて、このお店どうなってるんだ。「ほらほら、育ち盛りなんだから遠慮しないで」と勧められて、結局断りきれずにクラブサンドとクリームソーダを頼んだ。
「はい、おまちどおさまでーす」
こんがり焼け目のついた、具だくさんのクラブハウスサンドに、まんまるバニラアイスの乗ったクリームソーダ。メニュー詐欺とかそんな言葉が世の中にはあるけれど、このお店は例外のようだった。
いただきます。しっかり手を合わせてから、口に運ぶ。
「……おいしい。これ、すっごく美味しいです!」
「ほんと? 口に合ってよかった〜」
「ほんとです。今まで食べたお店の中で一番美味しいです」
「ありがとう。嬉しいなぁ。……コーヒー、紅茶、それからお料理は色んな人に鍛えられたんだ」
そう言った彼女がほんの少しだけ、遠い目をしていたのが気になった。なにかあったんですか、と聞こうとしたその時、突然店内が暗くなって、天井に星空が映し出された。
「本日はプラネタリウムカフェ・カルデアにお越しくださり誠にありがとうございます。それでは今夜の星空について解説をさせていただきます」
藤色の髪の毛の人がひとつひとつの星座について説明してくれる。星座というのはギリシャ神話と関わりがあるものが多いらしい。確かにそんなこと先生も言っていたような。でも、彼女の解説はまるでその場にいたり、直接本人と話したかのような感じがあった。そのおかげで先生の話よりずっと頭に入ってきた。
「どう? 綺麗でしょ?」
「はい。とても……あれ? これは?」
「コーヒーだよ。うちの特製ブレンド」
コーヒー。お父さんが朝飲んでるのを前に見て、俺もこっそり飲んだけど、流石に苦すぎてほんの少ししか飲めなかった。ていうか普通子どもにブラックコーヒー勧める?
「大丈夫。いっぱい砂糖入れてあるから」
見透かしたようなことを言われてドキリとした。そこまで言うなら……と思いひとくち。……あ、おいしい、かも。
「どう? 美味しいでしょ?」
「はい! これなら飲めます、すっごく美味しい!」
聞いてくれお父さん、俺、コーヒー飲めるようになったぜ。ただし、ここのお店限定だけど。
「さ、もうそろそろ良い子は帰る時間じゃない?」
時計の短い針はもうすぐ5を指そうとしていた。確かに、宿題とかもやんなきゃだしな。
食べ物と飲み物はおいしいし、プラネタリウムはきれいだし、家からそう遠くもないし、お姉さんたちは優しいし。近いうちにまた来たいと、自然とそう思った。
「あの、またここに来てもいいですか? 今度はちゃんとお金払うんで」
「もちろん! 新しい常連さんが増えてくれて嬉しいよ。……でも、おこづかいで無理のない範囲でね?」
●
そうして俺はプラネタリウムカフェ・カルデアの常連として、高校に入る前の春休みぐらいまで通っていた。おこづかいの関係もあって、コーヒー一杯だけの時とかもあったけど、いつだって二人は嫌な顔ひとつせずに来てくれてありがとう、と心から嬉しそうにしてくれた。時にはあの時のようにサービスと言って、ケーキやアイスをくれたりもした。
テスト前や受験生の時には勉強も教えてくれた。歴史の授業は特に分かりやすく、色々と小話も挟みながら教えてくれた。星座と関わりのある神話の話もそうだったけど、二人の話はまるでその場に居合わせたかのような妙なリアリティに溢れていた。
だから閉店する、という話を聞いた時は本当に悲しくて、中三にして不貞腐れてしまった。
藤色の髪の毛のひと——マシュさんと茜色の髪の毛のひと——立香さんは、旅好きな一面もあり、元々色々な場所を転々としていたらしい。
「今まで本当ありがとうございました。……もし、またいつか会ったら、土産話たくさん聞かせて。俺もその時まで、ブラックコーヒー飲めるようになっておくから」
最後は二人に笑顔でそう伝えることができた。なんとなくもう会えないんだろうな、とは思う。けれど、今までの楽しかった思い出が全部なくなるわけじゃない。ひとつひとつの思い出を大切にしていこう、とも思いながら。
あれから時が経って、俺もあのときの二人と同じくらいの歳になり、結婚して子供もできた。
やっぱり今の今まで二人と再会できたことはない。でも思い出は、どれも色褪せないままだった。
ときどきその時の色んな話を子供にしてやると、とても面白そうに聞いてくれる。
二人はいま、どこで何をしているのだろうか。また別の場所で、あのとびきりロマンティックなカフェを開いているのだろうか。
どうか、二人の旅が善きものでありますように。