転生晏沈 3 二人で店の外に出ると、玉生煙はさっそく馴染みの客に呼び止められた。沈嶠は邪魔しないようにと気を利かせてその場から離れ、女性達が去ってから玉生煙の隣に戻る。店を出てから一時間も経たない間に同じことが何度も繰り返され、玉生煙の元へ戻った沈嶠は微笑みながら言った。
「師兄の人気はすごいですね。歩くたびに声をかけられています」
玉生煙は眉を上げた。
「いや、みんなお前のことが気になって声をかけてくるんだ」
「私ですか?」
不思議そうな顔をする沈嶠に、玉生煙は呆れた顔をする。晏無師の下にいるだけあって玉生煙も当然整った外見をしているが、沈嶠の美しさは別格だった。そもそも初見で晏無師のお眼鏡にかかること自体が珍しい。
「そうだ。鏡を見たことがないのか? お前ほど綺麗な顔なら客は向こうから勝手にやって来る」
「それは……ありがとうございます……?」
何と言っていいかわからず困ったような沈嶠の反応に玉生煙は苦笑する。自分の見目の良さを自覚して驕る者は多いが、沈嶠ほど控えめな人間はそういない。
「まあいい。馴染みの客には今夜から店に出ると売り込んでおいたからな、忙しくなるぞ!」
「はい。ただ、一つ問題が」
「何だ?」
沈嶠は眉を下げて笑った。
「実は、私はお酒があまり飲めなくて」
「飲むとどうなる?」
「すぐに酔って潰れてしまいます」
玉生煙は顎に手を当てて考えた。ホストは酒を飲むのが仕事だ。高い酒を客に注文させ、たっぷり飲んで金を払ってもらわなければいけないのだから、すぐに潰れてもらっては困る。
「心配するな、客にバレないようにお前にはノンアルコールを渡すようにする。客にすすめられても飲んだふりをすればいい」
「ご迷惑をおかけします」
素直に頭を下げる沈嶠を見て、玉生煙は段々と本当に師兄として世話をしてやりたい気持ちになってきた。今までは店の中では自分が一番若く下の立場だったので、美しくて素直な師弟に頼られることが心のどこかでうれしかったのかもしれない。
「あと、接客というのはどうするものなんですか? 真心を込めてお迎えするのでしょうが、私は今までそういうお店には縁がなくて。正直な所何をしたらよいのか……」
沈嶠が尋ねると、玉生煙は声を出して笑った。
「俺達がやっているのは大して難しい仕事じゃない。客を褒めておだててその気にさせて、どんどん金を出してもらうだけだ。真心なんて必要ない。いいか、客を自分に惚れさせるんだ。こっちも客に惚れたふりをする」
沈嶠は眉を顰めた。
「でも、向こうが本当に好きになってしまったらどうするんです?」
「そうしたらこっちのものじゃないか。金を絞り取れるだけ絞り取る。惚れさせてしまえばあいつらは借金してでも店に来る」
「そんな……良心は痛まないんですか?」
「騙される方が悪いんだよ。『愛だの情だのは人を騙すためのもの』というのがオーナーの教えだ。それに俺達は夢を売っているんだから、客がその対価を払うのは当然だろう?」
「……」
少し悲し気に視線を落としただけで、沈嶠は何も言わなかった。
その後買い物を終え、店に戻って開店の準備をするまで玉生煙は沈嶠に熱心に接客方法を教えた。客の目をじっと見つめて気がある素振りをする。さりげなく身体に触れる。主導権は譲らない。次の来店の約束をする。そして、決して自分が惚れてはいけない。沈嶠は玉生煙から教わった言葉一つひとつに慎重に頷いた。
初日ということもあり、沈嶠は玉生煙のヘルプとして接客につくことになった。玉生煙はカジュアルなジャケットに細身の黒いパンツ、沈嶠はシャツの上に先程玉生煙が高級店で見立てた若竹色のラインが入った白いニットカーディガンを羽織っている。服装には特に決まったルールはなく、各々が似合った服を着るというのが店の方針だ。
客が入り始めた店内は、黒を基調とした落ち着いた雰囲気だった。『moonset』は高級感はあるが華美ではない。テーブル席にはそれぞれ花が飾られ、テーブルも床も曇りなく磨かれている。
開店直後に入店するのは金銭的に余裕がある常連客が多い。いつものお気に入りを指名して、飲み物を注文する前に軽く会話を交わす。そんなまだ落ち着いた雰囲気の中、指名が入った玉生煙の後について現れた沈嶠に、客の視線は一気に集中した。控えめなライトに照らされた沈嶠は、暗い夜に浮かぶ白い月のように美しい。視線が合った客に沈嶠が愛想よく微笑みかけると、女性達は目を見張って頬を染める。「あの子は誰? こっちのテーブルにも呼んで!」と興奮気味に自分の担当ホストにせがみ始める客もいる。
玉生煙と沈嶠が席に着くと同時に、玉生煙のなじみの客が声を上げた。
「まあ、なんて綺麗な人なの!」
玉生煙が微笑んで沈嶠を前に出す。
「こいつは今日が初日なんです。よろしくお願いします」
「沈嶠と申します」
沈嶠がお辞儀をすると、まだ若いその女性はうれしそうに目を輝かせた。
「こんな美しい人が入って来るなんてさすがは『moonset』ね! 気分がいいわ! どんどんお酒を持ってきてちょうだい!!」
その言葉に今度は玉生煙の目が輝いた。我儘だけれど金払いがいいこのお嬢様を満足させることさえできれば、今日の売り上げは安心だ。ここは沈嶠の顔の良さを上手く利用して、どんどん金を出してもらおう。女性が上機嫌で小さなバッグからシガレットケースを取り出したのを見て、玉生煙は沈嶠に目配せする。沈嶠は玉生煙の顔を見て頷いた。
「煙草は健康によくありませんよ」
予想外のその言葉に玉生煙は慌てた。違う、ライターだ! 客が煙草を出したらすぐに火を用意するように言っただろう!! 機嫌を損なわせるな! 教えたとおりにやれ!! と視線で訴えるが沈嶠は気にも留めず真剣な表情で続ける。
「過度なアルコールも身体に害です。飲み切れないほどのお酒を頼むより、フルーツの盛り合わせはいかがですか? 先程新鮮な果物を仕入れたばかりですから、あなたの美しい肌に磨きがかかるかと」
穏やかに微笑みながら、高い酒よりもフルーツをすすめてくる沈嶠の顔を、女性は瞬きしながら見つめた。
「お酒を入れたほうがあなたの得になるんじゃない?」
「でもあなたの得にはなりません」
「沈嶠!」
「あはははは!」
窘めるような玉生煙の声と、女性の笑い声が響いたのは同時だった。女性はころころと笑いながら沈嶠に好意的な視線を向ける。
「ホストなのに自分の売り上げより他人の私の身体を心配をしてくれるの? 美しいだけでなく面白い方ね!」
「いいえ、こうして知り合えたのも縁ですから、もう他人ではありません。私は親しい人にはいつまでも元気に過ごして欲しいので、健康を害するようなことはすすめません。お金だってもったいないです」
「ふうん……」
お金も美貌も兼ね揃えたこの女性は、今まで多くの若い男を手玉に取り自由気ままに振る舞ってきた。男たちは金を遣えば遣うほど喜び、自分に媚びて付きまとってくる。しかし、この男はそうではなさそうだ。これは何かの計算なのかと目を覗き込むが、沈嶠の目はいたって真剣だった。女性は美しい顔を綻ばせる。
「気に入ったわ。店が終わったらアフターに付き合わない? あなたのこともっと知りたいし、私の友人達にも紹介してあげる。私ならあなたをこの店のナンバーワンにしてあげられるわよ!」
沈嶠は首を振った。
「せっかくですが遠慮します。店の外で個人的にお会いすることはできません」
「ええっ!?」
間髪入れずに断る沈嶠に、女性はさらに驚いた。ナンバーワンになれるチャンスを断るホストなんて今まで見たことがない。
「あなたはこの世界に入ったのに一番になりたいとか、お金が欲しいとか、野心はないの?」
「ない訳ではありません。でも、今はそれ以上の目標があるんです」
「まあ、それはなあに? あなたほどの美人が望むものを知りたいわ」
女性は甘えるように首を傾げる。沈嶠はにっこりと微笑んだ。
「次に来てくれたらまたお話させてください。またここでお話できるのを楽しみにしていますよ、韓娥英さん」
まだ名乗ってもいないのに自分の名前を知っている沈嶠に、韓娥英と呼ばれたその女性は更に興味を抱いた。韓娥英の父親は大会社の社長で、権力もお金も持っている。自分がその娘だと知っていても、この男は媚びもしなければ靡きもしないらしい。韓娥英はふう、とため息をついた。
「わかったわ。明日また友達を連れてあなたに会いにくる。それならいいでしょう?」
「お待ちしています」
「あと、あなたのおすすめのフルーツ盛り合わせと、飲める分だけのシャンパンをちょうだい。でも一番高いやつよ」
「ありがとうございます」
沈嶠と韓娥英のやりとりを聞いていた玉生煙は、心の中で「おお!」と思った。一時はどうなることかと思ったが、我儘で有名な韓お嬢様に一目で気に入られるとは沈嶠の奴、意外とやるじゃないか!
その後、他の客の要望で韓娥英のテーブルを離れた後も、沈嶠の人気は止まらなかった。沈嶠は饒舌ではないものの、そつなく振る舞い、微笑みながら静かに客や他ホストの話に耳を傾ける。沈嶠が微笑むだけでテーブルの花は霞み、女性達は沈嶠から目が離せなくなった。話の流れで沈嶠が『骨相占いが出来る』と言えば、更に呼び出しが増える。沈嶠が手に触れた途端に客は真っ赤になり、占いのお礼にと高いボトルを入れ、次の来店の約束をする。客に対して決して無理な注文はさせず、温和で常に感謝を怠らない沈嶠に、今日だけで多くの客がついた。
そして短時間で十組ほどの客の相手をした後沈嶠を呼んだのは、まだ若い、そして類まれなほどに美しい女性だった。女性の希望により、沈嶠はヘルプとしてではなく一人でテーブルに向かう。
「失礼します。沈嶠と申します」
「ようやく来たわね! あなたがこのテーブルに来てくれるのずうっと待ってたんだから! さあ早く座って座って」
沈嶠が挨拶して席に着くと、女性はにこにこと微笑んでその隣にぴたりと寄り添う。
「あたしは白茸よ。源氏名は牡丹。あなたと同業者ってとこかな!」
「白茸さんですね、よろしくお願いします」
沈嶠がさりげなく身体を離して微笑むと、白茸はわあっと声をあげた。
「笑った顔がほんとに綺麗! キスしてもいい?」
白茸がいきなり目を閉じて艶々とした赤い唇を突き出してきたので、沈嶠はスッと真顔に戻る。
「だめです」
「やだあ、冗談よ冗談! 真面目なんだから! このくらい上手くかわせなくてどうするの? それにホストなんだからほっぺにちゅーとか手の甲にちゅーくらいして、客に期待を持たせるものよ」
白茸が呆れたように肩を竦めると、沈嶠は首を振った。
「唇を捧げる相手は一人と決めているので、他の人に期待は持たせられません」
「つまんないわね! じゃあちょっと触るだけならいいでしょ? 細いけど意外といい身体してるわよね?」
白茸は沈嶠の胸の辺りに手を伸ばしてくる。その手から逃れようと、沈嶠はさらに身体を離した。
「だめです」
白茸は不満そうに可愛らしい唇を尖らせる。
「もう! それでもホストなの!? 生娘よりも気高いじゃない!」
「申し訳ありませんが、身体を捧げる相手も一人と決めているので」
沈嶠はきっぱりとそう言い切る。沈嶠の頑なな態度に腹を立てるかと思えば、白茸は伸ばした手を引っ込めて嫣然と微笑んだ。
「ふうん、一途なのね。……ホストとしてはどうかと思うけど、男としてはいいじゃない」
白茸は左の手を上げ、細く美しい指で長い髪を右耳の後ろへと流した。赤く染まった爪の先は色付いた果実のように美しく、身体を捻る仕草が艶めかしい。普通の男なら目も心も奪われてしまう所だ。白茸は沈嶠にしなだれかかろうとしていた体勢を整え、姿勢を正して座った。
「いいわ、じゃあ今日の所はお話ししましょ。あなたにはどう見えているかわからないけれど、あたし、こう見えても努力家なの。親に捨てられて苦労して生きて来たわ。でも欲しい物はどんな手を使っても絶対に手に入れるし、お店でナンバーワンになりたいって目標もあるから、嫌な事からも逃げずにがんばってる。絶対にいつか自分の店を持つんだ! あなたは? どうしてここで働いているの?」
「私は……好きな人のそばにいたいからここにいます」
沈嶠は少し迷った後、正直に答えた。その答えに、白茸はきょとんとする。
「なにそれ? あなたの好きな女もこの辺の店の同業者ってこと? っていうか例えそんな相手がいたとしても、客には隠すのがこの仕事の鉄則でしょ? あなたホストとしてやっていく気があるの!?」
白茸の苦言に沈嶠は苦笑する。
「確かにそうですね。でも、あなたは誠実に自分のことを話してくれました。だから私も嘘は吐きたくなかったんです」
「へえ……」
白茸は自分の唇に指を当て、流し目を送る。
「外見も中身もいい男ね。ますます私のものにしたくなっちゃう! ねえ、乾杯しましょ! 何でも好きなものを頼んで!」
白茸の申し出に沈嶠は困った顔をする。
「正直ついでにあなただけにはお話するんですが……実はあまりお酒が得意ではないんです。他のテーブルでも師兄が気を回してくれたおかげで、実はまだお茶しか飲んでいません」
それを聞いた白茸の目がキラリと光った。自分だけに秘密を話してくれるというのが女心をくすぐるし、この綺麗な顔が理性をなくしたらどうなるのか見てみたいという好奇心が疼く。
「じゃあ一杯だけ! 私、あなたのために毎日お店に来てあげるわ。うちの店の子達にもあなたのこと売り込んでおく! だから一杯だけ付き合って。ねっ、いいでしょう?」
白茸の押しに負け、沈嶠は断り切れずに頷いた。
「じゃあ……一杯だけ」
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晏無師が店に来たのは深夜を過ぎてからだった。店は多いに賑わったらしく、店の売り上げを管理している従業員に聞けば、今日の売り上げと来店者数は昨日の倍だと嬉々として言う。
「原因はなんだ?」
晏無師が尋ねれば、従業員は興奮気味に答えた。
「昨日オーナーが拾ってきた沈嶠です! あいつホストには向いていなさそうな顔をして、なかなかの人たらしですよ! しかしそれを見抜いた上で入店させるとはオーナーはやはりさすがです! 明日もかなりの集客が期待できそうなので、今仕入れの数を増やしていた所でした。ああ、忙しい!」
晏無師は眉を上げた。昨日顔がいいという理由だけで拾った男が、そんなに役に立つとは意外だった。むしろ今言われるまでその存在すら忘れていたくらいだ。晏無師は店内を見回す。しかし、何人かが後片づけと掃除をしている店内に沈嶠の姿はなかった。
「それで、その本人は?」
「ああ、それが、実は……」
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晏無師が控室に入ってみれば、くったりとソファの上に身体を投げ出して眠る沈嶠がいた。昨夜と違ってその頬は赤く、誘うようにうっすらと唇が開いている。呼吸で胸が上下し、無防備に晒された白い首筋からは匂い立つような色気が漂っていた。晏無師が無言で近づくと、人の気配を感じたのか沈嶠がゆっくりと瞼を上げる。血色のいい唇が微かに動く。
「晏、宗主……」
晏無師はふん、と鼻を鳴らした。
「聞いたぞ。白茸に目を付けられたらしいじゃないか。一杯だけでこの体たらくとはな。しかし、初日から随分と売り上げに貢献したことは誉めてやろう」
「ありがとう、ございます……」
ケホ、と小さく咳をした沈嶠の胸元を見て、晏無師は眉を顰める。自分で外したのか白茸に外されたのかはわからないが、白いシャツのボタンは二つほど開けられ、胸の辺りに真っ赤な口紅の痕が残されていた。おそらく酔って意識が朦朧とした沈嶠の隙を見て白茸がつけたのだろう。これは白茸の常套手段で、自分の獲物、という宣戦布告だった。以前も白茸に気に入られたホストが逆に骨抜きにされて莫大な借金を背負い、店を辞めていったことがある。
「どうやら随分と客に愛されたようだな」
沈嶠は不機嫌そうにじっと口紅の痕を見る晏無師の視線に気付かず、ぼんやりとした頭のまま答える。
「愛されたいのは、あなた一人、だけです……」
「ほう、清廉そうな顔をして随分と口が上手いようだな。そうやって客を口説いたのか?」
沈嶠は小さく首を振る。
「いいえ、男女の情愛についてはからっきしです。前世でも、口づけしたのも人を愛したのもあなたが初めてですし……」
沈嶠の言葉に晏無師は嘲笑う。
「陳腐な口説き方だな。なんでも『あなただけ』『初めて』といえば男が喜ぶとでも?」
「いえ、本当に、初めてなんです……今世でも、初めての口づけはあなたがいい……」
沈嶠はケホケホ、と再度乾いた咳をした。頬が赤く、目は潤み妙に呼吸が早い。一杯飲んだだけの反応としてはさすがにおかしい。もしかしたら酒だけではなく何か妙な物を飲まされたのかもしれない。晏無師は水のボトルを冷蔵庫から取って沈嶠に手渡した。
「飲め」
「ありがとうございます」
「明日も店に出てもらわなくてはならんからな」
沈嶠は身体を起こしてボトルに手をのばしかけて、手を下ろした。晏無師は訝し気に沈嶠を見る。
「何だ? さっさと起き上がって受け取れ」
「飲ませては、くれないんですか……?」
「は?」
「私が自分で飲めない時は、以前だったら口移しで、飲ませてくれました……」
どうやらこの男は図々しくもこの晏無師に水を飲ませてもらおうとしているらしい。独り言のように呟く沈嶠のとろりとした瞳は焦点が合っていない。目の前にいる自分を通り越して、思い出に浸っているような沈嶠の表情に、晏無師の中の何かが疼いた。晏無師は無言でボトルの蓋を開け、上を向いてグイと水をあおった。そのまま沈嶠の唇に自分の唇を押し当て水を注ぐ。
「んっ!? ん……っ」
冷たい水が口移しに注がれていく。起こしかけた身体が再度ソファに押し戻され、ごくり、ごくりと沈嶠の喉が鳴る。全ての水が注がれて唇が離れた瞬間、沈嶠がはあっと大きく息を吐いた。飲み切れなかった水が口の端から溢れ沈嶠の耳元を濡らした。まだぼんやりした沈嶠の耳に晏無師は吐息混じりに囁く。
「もっとか?」
「……はい」
晏無師は再度水を自分の唇に注ぎ、再度沈嶠の唇を塞ぐ。全ての冷たい水が喉を通った後、するりと晏無師の舌が入り込んできた。沈嶠の身体が驚きでびくりと揺れる。しかし沈嶠は喜ぶようにその舌を受け入れた。水で冷えた舌が、互いの体温で熱を帯びていく。呼吸を奪われる感覚、柔らかに混ざり合う感覚、その心地よさにうっとりとしていると晏無師はソファの上に身体を乗せ沈嶠に覆いかぶさった。強く腰を抱き寄せられ更に深く唇を重ね合わせてくる。沈嶠は晏無師の首に腕を回し自ら求めるように舌を絡ませた。晏無師の身体の重み、体温、肌の香り。全てが懐かしくて、忘れかけていた口づけの喜びを思い出すように晏無師の唇を必死で追い求める。
一方、晏無師は沈嶠の反応を見ながらその様子を探っていた。舌先で口蓋を擽り、沈嶠が力を緩めた隙に唇を離して自分に組み伏せられた沈嶠をじっと見つめた。沈嶠はまだ夢うつつの中、口づけの余韻に身体を震わせている。
経験豊富、というわけでもないようだが積極的に舌を絡めてきた所をみれば、初めてではないだろう。清純そうな言葉や態度は演技でやはりどこかの店のスパイというのが妥当だ。この顔と身体で男をかどわかし、店の金や情報を得ようとしているに違いない。晏無師は低い声で囁く。
「今まで何人の男に抱かれてきた?」
「あなた以外に、抱かれたことはありません……」
「私はお前を抱いたことはない」
晏無師は小さく舌打ちする。この後に及んでまだ前世がどうとか言うつもりなのか。段々と苛立ってきた晏無師は沈嶠の首にジュッと吸い付いた。
「あ……っ」
沈嶠の首筋に、白茸の口紅よりも鮮やかな小さな赤い花が咲く。
「本当のことを言え。桑景行の差し金でうちの店を潰しに来たんだろう? それとも広陵散か?」
「違います、誰の差し金でもありません。私はあなたのことが好きで、側にいたいだけです」
「それは本心か?」
「そうです。あなたを愛しています」
晏無師は、無言のまま沈嶠に冷ややかな視線を送る。愛を信じない晏無師にとって、出会ったばかりなのに熱にうかされたように『愛している』と言う沈嶠の言葉など信じられるはずもない。果たしてこの男はいつまでその偽りの顔を保っていられるのだろうか。幸い唇の感触も肌の感触も悪くない。例えば、この新雪のような白い肌を暴き偽りの愛を囁いた後、こっぴどく捨てたらどんな顔をするのだろうか。無垢で美しい化けの皮を剥がし、絶望に染まった醜い顔を見てやりたい。
「ならば、いくぞ。お前の愛とやらを確かめるにはここでというわけにもいかん」
「え……どこへ行くんですか……?」
「私の家だ」
~続く~