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    お箸で摘む程度

    @opw084

    キャプション頭に登場人物/CPを表記しています。
    恋愛解釈は一切していません。

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    お箸で摘む程度

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    10

    ##平面上のシナプス

    平面上のシナプス10. anti-romantic


     ミリオンが誇る情報屋を名乗るからには、ミリオンが誇れるだけのはたらきをしなければならない。それには当然、楽ではない程度の努力が必要だった。雨の日も風の日も、表立った話題からきな臭いニュースまで、ありとあらゆる情報をありとあらゆる手段で収集しようと、四六時中四方八方にアンテナを張り巡らせながら生活を送る。ああ、この世のすべてを、全部まとめてハニーで閲覧できたらいいのに、そう思ったことも一度や二度の話ではない。
     だからといって、いざ一つのアプリにこの世の全てが収まっている、いや、この世そのものであるアプリを手に入れたとなると、それはそれで途方に暮れてしまうのだと今知った。タップひとつでどんなことも分かってしまうなんて、情報屋だからこそ薄気味悪い。

     知りたい気持ちと知りたくない気持ちを戦わせながら恐る恐るアプリ内の情報を見ていくと、どうして今まで気付かなかったのかと訝しむくらい、はっきりと世界の矛盾点が見えてきた。
     例えば、街の風景。タワーのふもとのセントラル大通りや、グリーンイーストのオリーブアベニューの景色は思い浮かぶ。確かに、その景色が背景やイラストレーションの中にある。けれど、そこまでの道のりの詳細や風景について考えてみると、どうにも記憶がはっきりとしない。そういう箇所は、確かに、アプリの中には一度も描かれていないのだ。そうした視覚的情報は、実装されているもののほかは曖昧で、部屋の扉と同じように概念上の存在でしかない場合の方が多いらしい。顔を上げて、シャワールームのあるべき場所にプリズムの海が輝いているのを眺める。
     それから、ゲームのシステム。場所や季節にかまわず装備されるヒーロースーツや、戦闘で連携の取れる人取れない人の違い、能力を底上げしたり弱点を補ったりする効果。どうやらこの戦闘が、「エリオスライジングヒーローズ」のゲーム性の要らしく、敵や状況によって陣営はさまざまだった。まあ、これらは元々見えない司令部に言われるがままだったのだから、その指示元が次元ひとつ上だとしても、こちらには大して変わりはないけれど。直接的にトレーニングをさせる機能は無いらしくて、トレーニングチケットを与えられれば、俺たちは各々で訓練をしているということになっているみたいだ。ウン、ここも一つ、身動きの取れそうなポイント。


     俺の目的は、司令の目が届かない場所、つまり「エリオスライジングヒーローズ」の機能が及ばない場所を見つけることである。結局、この世界は虚構であるとかいう情報は、例えそれが真実であっても、この世の人間には売れっこない。それに、そんなことを言いふらせば、すぐにでもこの世界の創造主――運営に勘づかれて、すぐさま情報統制が行われるだろう。所詮、すべてはプログラムなのだから、きっといとも容易いことだ。最悪の場合、俺が世界の秘密に気付いたことにも気付かれて、俺の思考をも統制してくるかもしれない。
     当たり前だけれど、まさかゲームの中の登場人物が自分はゲームの中の登場人物であると、そんなことを自覚できるはずがない。つまり、ビリー・ワイズには現状、バグが発生している状態だと言える。バグによって俺のスマートフォンに「エリオスライジングヒーローズ」がインストールされてしまい、それによって俺は自分と世界の姿を知ってしまった。そのことを運営に勘づかれれば、俺のプログラムは修正されて、この自我は消されてしまうだろう。当たり前のことだ。そしてそれだけは、何としても避けたかった。

     だから俺は、まずこのゲームの及ぶ世界の範囲を見極めて、どうにかその外側を探し、そこに俺自身の場所を置きたいと考えた。画面の外の司令や運営に操られることのない、俺に与えられたこの思考のための場所が欲しいのだ。
     今しがた発見したまず一つは、トレーニングという行為。トレーニング風景そのものはゲーム内には実装されていないけれど、事実俺たちはトレーニングチケットを与えられてトレーニングを行い、強くなっているのだから、その間は認識されていない俺たちだけの時間であると言えるだろう。
     他に何か、そういう抜け道は無いだろうか。俺はまた、恐る恐る「エリオスライジングヒーローズ」を開いた。トレーニングの仕組みはチーム編成の中で見つけた。マップでは、パトロール中の俺たちの動向が常に把握できるようになっている。司令室にも常に司令の目がある。クエストはずいぶん凝っていて、ストーリーは恐ろしくてとても開けたものじゃない。
     俺の意志が不具合として反映されていた〝お知らせ〟を開くと、件名の並ぶ右側とは別に、左側の画像を下にスクロールできることに気が付いた。クエスト画面に遷移するイベントバナーに隠れて、一番下に自分の顔があることを初めて知る。

    「ラジオ……マンデーナイトヒーロー……?」

     バナー画像をタップすると、端末はアプリケーションを跨いでウェブページを読み込み始めた。きっとこの世には存在しないものだろう。慌ててイヤホンを接続する。
     再生した途端に耳元から自分の声が聴こえてきて、俺はどきりとして一時停止ボタンを押した。何だ、今のは。確実に俺の声だけれど、確実に俺が喋ったものではない。キャパシティを超えてしまいそうで、イヤホンを心持ち遠ざけながらもう一度再生する。遠くで聞こえる雑談程度の音量で聴こえる会話は、俺と、それから明らかなDJの声だった。何、コレ。DJとラジオ番組をやったことなど無い、はずだ。おそらく、たぶん、きっと。逸る心臓を深呼吸で落ち着かせながら、少しずつ音量を上げてみる。
     今の俺に把握できない、改築されたプログラムの向こうで俺が話しているのかと思ったけれど、しかし会話の内容は、あまりにも身に覚えのないものだった。仕事がどうとか、事務所がこうとか、知らない単語を交えながら聴こえてくる、その声もしかし、何となく身に覚えのないものだ。いや、明らかに俺とDJの声ではあるのだけれど、どこか違う、まるで同じ声帯で違う人が話しているかのような。

    「それではいきましょう、エリオスライジングヒーローズ」
    「ラジオ・マンデーナイトヒーロー」

     DJと俺が順にそう言ったと思えば、聴き覚えのあるイントロが流れてくる。ア、この曲は、俺とDJが収録した歌だ。メランコリックマンデーナイト。というか、俺たちはヒーローのはずなのに、何のために歌なんか歌ったんだっけ。そうだ、だいぶ前だけどラジオが二周年を迎えるときに、主題歌として録ったのだ。アレ、やっぱりラジオをやってたのカナ、いや、だいぶ前に二周年を迎えるって、一体――

    「改めまして、フェイス・ビームス役、L――です」
    「ビリー・ワイズ役、N――です」

     途端、頭を殴られたような衝撃を受けた。停止した頭にDJの声が流れ込んでくる。

    「この番組は、コマンドバトルRPGゲーム「エリオスライジングヒーローズ」のラジオ番組、番組コンセプトは――」


     ここでまた一つ、気付きを得た。俺たちには声帯が無いということだ。今試しに何か声を出してみようとしても、それは明確な音波にはならない。俺は、俺の思考をこのN――という人物に代弁してもらうことで、初めて喋るという行為に至ることができているのだ。
     逆に考えると、どうやら俺たちは、声を使わずして意思疎通が可能であるらしかった。ゲーム上で考えるとそれは文字情報なのだけれど、これまで実際にどうやって会話をしてきたのかは分からない。けれど確かに、俺が発する声には特定のものが多い。つまりはそれこそがつい口から滑り落ちてくる台詞というもので、俺が一時期言わないように努めて不具合扱いされていた言葉たちも、N――のあてた特定の台詞だったということだ。



     ラジオの配信ページを見ていると、公式サイトなるボタンが掲載されている。それをタップすると、思いがけず「エリオスライジングヒーローズ」のホームページに辿り着いた。一番初めに検索しても出てこなかったものだ。もしかすると、「マンデーナイトヒーロー」を介して、外の世界のインターネットにアクセスすることが出来たのだろうか。
     とは言え、目新しい情報はそれほど見当たらない。世界観も登場人物も、アプリ上ではもちろん、錯覚の中で生きてきた俺こそが熟知していると言っても過言でないからだ。
    トップページに戻ると、ピックアップエリアに見慣れない文字列があることに気が付いた。アキラっちがどこか不安げな表情で汗を拭う姿が収められている。

    「VOLTAGE MAX PROJECT」

     アクセスした瞬間に、俺は思わず呼吸を止めた。身に覚えの無い俺自身の姿が、そこに写し出されている。
     俺自身だけではない。一緒に写るグレイ、座り込むキースパイセン、深刻そうな面持ちのヴィクターパイセンに、やつれた後ろ姿のノヴァ博士。バナーにもなっていたアキラっちは、ひどく荒廃した通りの中に立ち竦んでいる。

    〝その日オレたちは、太陽を奪われた――〟

     不穏な文句をはじめ、このページには現在進行形のプロジェクトの内容が書かれているらしい。

    〝今冬リリース予定〟

     その文字に、すっと背筋が凍った。アプリ内には見当たらなかった。俺もまだ知らない。これは、未来の話なのだ。

    〝新たな物語の幕開け〟、〝アプリシステムの大型アップデート〟、
    〝『ヒーロー』の新しい成長要素が追加〟、〝リニューアル〟。そんな文字列が連なっている。誰も知らない、真っ暗なニューミリオンを背景に。

     俺は、俺に起こったバグから自分だけを保とうと躍起になっていた心が薄れて、強い危機感に感情が突き動かされるのを感じた。ニューミリオンに迫る危険を阻止しなければならないとか、そういう、この世の命運だけに対する焦りではない。
     それは、この世界が本当に0と1の組み合わせにしか過ぎないということの実感と、その脆さに対する危機感だった。俺たちの生きる世界は、いとも簡単に壊れてしまうのだ。壊せてしまうのだ。画面の外から、平面上のプログラムを多少組み替えるだけで、簡単に。このプロジェクトの示す景色は、それを証明するかのようだ。
     それだけじゃない。『ヒーロー』のアップデートやリニューアルが明言されているということは、少なからず俺たち自身にも、何らかの改変が加えられるということだろう。所詮は俺たちもプログラムでしかないのだから、きっといとも簡単に行われる。その時にはおそらく、現状抱えている不具合やバグの修正も同時に行われるはずだ。大型アップデートが訪れたら、俺は確実に、この世界の認知を失ってしまうだろう。



     もう、十二月も中頃だ。下旬という曖昧な基準とはいえ、残された時間が少ないことに変わりはない。
     このことを俺だけで思考し続けるのは、もう無理だ、と思う。どうしたらいいのか、どうするべきなのか、俺はすっかり路頭に迷ってしまった。何とかしてニューミリオンの崩壊を阻止するべきなのか? 何とかしてこの認識を保つべきなのか? 自我が無くなるくらいなら抜け道を探して逃げ出してしまうべきなのか、はたまた、流されるままにアップデートを迎えて、愚かな一システムに戻ってしまうべきなのか。
     誰か、協力者が必要だ。誰かにこの世界の真実を打ち明けて、アップデートまでの短い期間に何をどうするべきなのか、相談しなければならない。
     俺はまず、信頼できて、私情が介在せず、当たり障りのない人物に該当する人がいないかを考えた。情報屋として懇意にしている人とか、広いと自負している交友関係の中の誰かとか。けれど、いくら頭の中をさらっても、スマートフォンの連絡先をスクロールしても、そんな人は存在しない。そう、はなから存在しないのだった。結局、このゲームの中にキャラクターとして描かれている人物以外のパーソナリティはこの世に存在しないのだし、描かれているキャラクターには皆、俺との関係性が設定されている。頭に浮かぶ人々との間には、誰とも私情がありすぎるほどだ。気が重くなる。このうちの誰となら、この世界の秘密を有意義に共有できるだろう。


     普通に考えて、こんなにスケールの大きい相談事は、知能や能力に優れ、実のある回答を導き出せそうな人に持ち掛けたい。つまりはメンター、ジェイかヴィクターパイセンか、ブラッドパイセンか、もしくはノヴァ博士あたりだろう。
    けれど、この世界における有能な人物は、プログラムされた問題に適切に対処できるようプログラムされている。つまり、この世界において有能で、この世界に誠心誠意向き合っている人物なのだ。きっと、そこにメタ認知を与えるべきではない。
     そうは言っても、他の面々から選ぶというのもまた難しかった。そもそも、世界は作り物であるという荒唐無稽な話を信じてくれなければ始まらないし、この真実はあまりにも残酷だ。何かしらの宿命に殉じているような人にはとても言えたものじゃない。もしレンレンにこのことを告げてしまったなら、彼の苛烈な感情はどこに向かってしまうのだろう。


     考えないようにはしていたけれど、俺はグレイとのことを考えると、腸が捩れるような苦しみに襲われた。それから徒労感と、怒り。行き場のない感情にさめざめと泣いてしまいたくなる。
     俺の生い立ちも行動も、グレイの性質も運命も、そこから生まれてしまったあの出来事も、結局全てはフィクションでしかなく、俺たちは運営に演出されて、操り人形のごとく悲劇を踊らされていたのだ。そのことを思うと正気ではいられない。きっと画面の向こうの司令は、息を呑んで俺たちの物語に出会っただろう。面白かったことでしょうネ。一キャラクターが自我を持つとも知らずに、人生を掛けた痛切な物語を作り上げたのだから。

     この世界のことを、グレイに話すことはできない。俺は俺自身の自我で、そう思った。何もかもがフィクションだと知れば、グレイはどう思うだろう。もしかしたら救われる側面もあるのかもしれないけれど、俺からしてみれば、償える罪も償えなくなってしまうような気がする。グレイは、俺のしたことを、ビリーくんの意志じゃなかったんだねとか何とか言って、許そうとしてくるかもしれない。そんなことは俺の方が許せない。いくら運営の書いた物語だからといって、俺はそういうキャラクターにプログラムされているのだ。そういう人間が、ビリー・ワイズなのだ。グレイには、俺が真にそういう人物なのだと思っていてほしい。そして、俺が精一杯グレイに向き合う、そのチャンスをどうか与えてほしい。あの事件と同じ次元のまま、俺はグレイに向き合いたい。


     そして、グレイに打ち明けられないとなれば、最早俺の選択肢は一つに絞られたようなものだった。
     戦闘に出ていたと思った俺は、気付いたらまた部屋に立っている。虚像の扉を出て、存在しない廊下を歩いた。自覚できないルートを辿って鮮明な談話室に辿り着くと、そこにはヘッドフォンに手を掛けて気だるげなDJの姿がある。

    「あれ、ビリー」
    「ハローハロー、DJビームス☆」

     ああ、こうしてみると、やっぱり声は聞こえない。文字で会話しているのか、俺は語尾に星でもハートでも付けることができる。

    「俺っちとお喋りしない、ベスティ?」
    「……ま、今日は暇だから、少しなら付き合ってあげてもいいけど」

     どこか厭世的なところがあって、斜に構えたような人物像。それでいて実際のところ、ものすごく有能で頭がいい。俺に程よく近くて程よく遠い、多少踏み込んだお喋りもできるけれど、運命を共にするほどでもない。そんな相手がぴったりだった。
     DJだって、話を聴いたら思うところがないことはないはずだ。けれど、今は俺と相手との関係値、それから、この話を信じてくれるか否かだけが重要だ。DJとは唯一、もう三年の付き合いになるのだ、この世界における位相はどこか似通っているはず。


    「じゃ、ちょっとだけ移動しよ、ネ♡」

     俺はマジックで、ゴールデントレーニングチケットをばらばらと取り出した。種も仕掛けもございまセン。


    (続)

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    お箸で摘む程度

    MOURNING元同室 生徒会選挙の別Ver.
    .昼休みのカフェテリア、注文口まで続く長い列はのろのろとしてちっとも進まない。ヘッドフォンから流れる音楽が、ああこの曲は今朝も聴いた、プレイリストを一周してしまったらしい。アルバムを切り替えることすら面倒くさくて、今朝遅刻寸前でノートをリュックサックに詰めながら聴いていたブリティッシュロックをまた聴いた。朝の嫌な心地まで蘇ってくる。それは耳に流れるベタベタした英語のせいでもあり、目の前で爽やかに微笑む同室の男の顔のせいでもあった。
    普段はクラブの勧誘チラシなんかが乱雑に張り付けられているカフェテリアの壁には、今、生徒会選挙のポスターがところ狭しと並べられている。公約とキャッチフレーズ、でかでかと引き伸ばされた写真に名前。ちょうど今俺の右側の壁には、相部屋で俺の右側の机に座る、ウィルのポスターがこちらを向いている。青空と花の中で微笑んだ、今朝はこんな顔じゃなかった。すっかり支度を整えて、俺のブランケットを乱暴に剥ぎ取りながら、困ったような呆れたような、それでいてどこか安心したような顔をしていた。すぐ起きてくれて良かった、とか何とか言ってくるから、俺は腹が立つのと惨めなのとですぐにヘッドフォンをして、その時流れたのがこの曲だった。慌ただしい身支度の間にウィルは俺の教科書を勝手に引っ張り出して、それを鞄に詰め込んだら、俺たちは二人で寮を飛び出した。結果的には予鈴が鳴るくらいのタイミングで教室に着くことができて、俺は居たたまれない心地ですぐに端っこの席に逃げたんだけれど。
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    お箸で摘む程度

    TRAININGオスカーとアッシュ ⚠️死ネタ

    レスキューと海賊のパロディ
    沈没する船と運命を共にすることを望んだ船長アッシュと、手を伸ばせば届くアッシュを救えなかったレスキュー隊のオスカーの話。
    海はあたたかいか 雲ひとつない晴天の中で風ばかりが強い。まるでお前の人間のようだ。
     日の照り返しと白波が刺繍された海面を臨んで、重りを付けた花を手向ける。白い花弁のその名を俺は知らない。お前は知っているだろうか。花束を受け取ることの日常茶飯事だったお前のことだ。聞くまでもなく知っているかもしれないし、知らなかったところで知らないまま、鷹揚に受け取る手段を持っている。生花に囲まれたお前の遺影は、青空と海をバックにどうにも馴染んでやるせない。掌に握り込んだ爪を立てる。このごく自然な景色にどうか、どうか違和感を持っていたい。

     ディノさんが髪を手で押さえながら歩いてきた。黒一色のスーツ姿はこの人に酷く不似合いだが、きっと俺の何倍もの回数この格好をしてきたのだろう。硬い表情はそれでも、この場に於ける感情の置き所を知っている。青い瞳に悲しみと気遣わし気を過不足なく湛えて見上げる、八重歯の光るエナメル質が目を引いた。つまりはディノさんが口を開いているのであるが、発されたであろう声は俺の鼓膜に届く前に、吹き荒れる風が奪ってしまった。暴風の中に無音めいた空間が俺を一人閉じ込めている。その中にディノさんを招き入れようとして、彼の口元に耳を近づけたけれど、頬に柔らかい花弁がそれを制して微笑んだ。後にしよう、口の動きだけでそう伝えたディノさんはそのまま献花台に向かって、手の中の白を今度はお前の頬に掲げた。風の音が俺を閉じ込める。ディノさんの瞳や口が発するものは、俺のもとへは決して届かず、俺は参列者の方に目を向けた。膨大な数の黒だった。知っている者、知らない者。俺を知る者、知らない者。
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    お箸で摘む程度

    TRAININGグレイとジェット
    グレイとジェットが右腕を交換する話。川端康成「片腕」に着想を得ています。
    お誕生日おめでとう。
    交感する螺旋「片腕を一日貸してやる」とジェットは言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って僕の膝においた。
    「ありがとう」と僕は膝を見た。ジェットの右腕のあたたかさが膝に伝わった。

     僕とジェットは向かい合って、それぞれの柔らかい椅子に座っていた。ジェットの片腕を両腕に抱える。あたたかいが、脈打って、緊張しているようにも感じられる。
     僕は自分の右腕をはずして、それを傍の小机においた。そこには紅茶がふたつと、ナイフと、ウイスキーの瓶があった。僕の腕は丸い天板の端をつかんで、ソーサーとソーサーの間にじっとした。

    「付け替えてもいい?」と僕は尋ねる。
    「勝手にしろ」とジェットは答える。

     ジェットの右腕を左手でつかんで、僕はそれを目の前に掲げた。肘よりもすこし上を握れば、肩の円みが光をたたえて淡く発光するようだ。その光をあてがうようにして、僕は僕の肩にジェットの腕をつけかえた。僕の肩には痙攣が伝わって、じわりとあたたかい交感がおきて、ジェットはほんのすこし眉間にしわを寄せる。右腕が不随意にふるえて空を掴んだ。
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