福毒「ドラルク、今日の仕事だが」
「自殺志願君、お菓子食べたくないかい?」
吸血鬼対策部本部長ノースディン──某幼少期からの弟子件直属の部下曰く今日も今日とて性懲りも無く面倒事を言い渡して来そうなクソッたれ歯ブラシヒゲ本部長殿──の声を遮り、吸血鬼対策課隊長であるドラルクは、にこやかに隣にいる美丈夫、吸血鬼自殺志願に声をかけた。
幾らか前に、その場のノリと勢いと言ってしまって差し支えない形でドラルクと同居し始めてからというもの、彼の料理の腕前に文字通りすっかり味を占めてしまった自殺志願は、満面の笑みで良いお返事をする。
「食べたい!」
「そうかいそうかい。他でもない君の希望ならば仕方ない、是非とも聞いてやらねばなるまいな。……というわけで、私は強大な吸血鬼の監視任務という重大な役目がありますのでこれにて」
ドラルクはビッ、と人差し指と中指を合わせて立て、したり顔と共にオフィスを出ていった。吸血鬼自殺志願もそれに続き、お菓子は何が食べたいだの、この前のあれは美味しかっただのといった朗らかな雑談はそのまま遠ざかっていく。
残ったのは本部長殿の青筋と、あの人志願を完璧に使いこなしてるよなぁ……サボりの言い訳的な意味で、という呆れ返った部下の呟きだけであった。
クソッタレ師匠からの仕事を跳ね除ける為、吸対の簡易キッチン──と言うにはどうにも立派すぎる、ドラルクが勤務中勝手に手間暇かけて設備を充実させた彼の城──に籠り数時間後、ドラルクはドヤ顔でお菓子を詰め合わせた籠を棚に置いた。
「この部屋のここにあるお菓子は、私が君の為に作ったものだ。いつでも好きな時に食べるといい」
「いいのか!?」
わぁいと諸手を上げて喜ぶ吸血鬼自殺志願は、こうして見ると強大な力を持つ怪物にはとても見えない。ドラルクお手製のバナナマフィンを一口かじり、更に笑みを深くする様子を前に、作り手であるドラルクもご満悦だ。
「この前作ったバナナフリッターも好評だったし、自殺志願君はバナナが好きなんだね」
「そうなのか?」
「そうなんだよ」
自殺志願は自らの好みの指摘にすらふわふわとした返事を返したが、仕方ないというものだろう。なんせこの男は、食べ物という存在を履修してからまだ1ヶ月すら経っていないのだ。ドラルクは仕方ないな、と言った様子で肩をすくめる。きっとこの分野については、自殺志願本人よりも彼に詳しいのだから、私が教えてやらなくては。
「今度はバナナケーキを作ってやろうかな」
「それも美味そう!」
オフィスの片隅で笑い合う吸血鬼対策課隊長と不死身の吸血鬼の話し声は、同室で普通に仕事をしている隊員たちの耳にも否応なしに入ってくる。
「仕事中だぞ隊長、いい加減にしろ!」
「っていうかどうせなら私達のぶんも作るべきよね、気が利かない。そんなんだからモテないのよ」
「自殺志願専用のおやつを勝手に食べてやるー」
「待て待て、これは彼専用だと言っただろう!隊員の分は別にあるから」
わいのわいのと騒ぎ立てるドラルク隊の声は大変賑やかで、廊下まで響くほどだった。
それ故、ドアの前に立っていた男が聞き耳を立てることは容易であったし。
その後静かに立ち去る部外者の足音を聞いた者は、誰1人としていなかった。
ドラルクが作った菓子を食べた吸血鬼自殺志願が倒れたのは、その数日後のことだ。
彼が口にしたのは、あの時作ると約束したバナナケーキだった。皮肉なことにそれはいつものようなサボタージュの名目ではなく、自殺志願を想って作ったものであった。
一口食べて満面の笑みを浮かべる筈だった男は、顔を綻ばせるどころか目を見開き、血を吐いて蹲る。
赤色が溢れ出る口元を抑え、乱れた髪と長い指の間から此方を射抜く瞳は正しく手負の獣のそれのようで、ドラルクの脚は縫い止められたように動かなかった。
吸血鬼対策課にはドラルク以外にも隊長というものがおり、下にはそれに従う隊員達が存在する。
毒を盛ったのは、別部隊に在籍する隊員の1人であったそうだ。警察を志すような者は泥棒には向かなかったようで、廊下に設置してあった監視カメラにより犯人はあっという間に分かってしまった。
吸血鬼自殺志願は危険な存在だから、なんとしてでも退治しなくてはと考えてのことだったらしい。
ドラルク隊は既に奴の手に堕ちてしまっており、頼りにはならない。彼等の目を覚ますためにも、世界を救うためにも、自分がやらなくては、と。
「とんだ勘違い野郎だな」
報告を聞いたドラルクは、吐き捨てるようにそう呟いた。
「そもそも、今更毒なんかで殺せる筈がない。人間にとっては致死量をゆうに越えていようが、アレなら1日と経たず元気溌溂だ。そんなこと、我々の部隊は皆とっくに理解している。理解しているからこその懐柔策なのだ。それを外野がいい加減なことを」
(もしも今、此奴の目の前にキッチンがあれば、盛大なパーティーが開催できるだろうな)
向かいに座る、本部長でありドラルクの師であるノースディンは、僅かに眉を顰めた。ドラルクは気が立つと凝った料理でテーブルを埋める悪癖があるのだ。目の前にいる小僧が酷く苛ついていることなど、長い付き合いである自分でなくとも一目瞭然なのであろうが。
そして、この男は怒り、それを取り繕うとしている時、酷く口数が多くなる。それは頭で思いついたことをそのまま流して口から吐き出しているようなもので、それでも此奴は頭の出来が悪いわけではない為、それらはもっともらしい文字列に聞こえる。
「何も分かっていない輩がでしゃばりおって。むしろ下手に刺激して、」
ああ、でも、しかし。
お前、自分が言っていること、ちゃんと理解しているか?
「奴に恨まれでもしたらどうしてくれるんだ。吸対は終わりだぞ!」
歪められた口角から吐き出された言葉は、どこまでいっても『もっともらしい』だけで、いよいよ心にもなさそうだった。
仕方がないから頭を冷やしてやろう。
ノースディンは様々な意味合いを含めた嫌味をプレゼントする為、口を開いた。
「恨む」
じろりと此方を睨む目は、20年前となんら変わらない。自分の城に水を刺されてぶすくれたような子供のしかめ面だ。
最近は超精密探知機だの軍師だの天才だのと周りから過剰に持て囃されてはいるが、やはり此奴は今でも屁理屈捏ねの青二才なのだ。きっと数秒後も、酷く悔しそうな顔をする。
「吸血鬼自殺志願が?」
ああでも、と、先程の想像を心のうちのみで一つ訂正する。
今夜のテーブルは空っぽかもしれない。
明日の此奴は分からぬが、少なくとも今の此奴は、料理を作れるかは分からないからだ。
「ごめんな、死ななくて」
少し申し訳なさそうに、しかし何てことない顔でそう微笑まれ、ドラルクは眉を顰めた。
「は?何の話だ」
「約束守ってくれたんだろ、死ぬ方法考えてくれるってやつ」
だから毒盛ってくれたんだよな?
そう言って笑う男の顔が見ていられなくて、ドラルクは目を見開いたまま俯いた。何を言っているのか分からなかったから、ではない。
受け入れられてしまったことが、受け入れられなかったからだ。
ドラルクの心中を知ってか知らずか、知っていたところで意にも介さぬ様子で、自殺志願は言葉を続ける。
「今回は死ななかったけど、次はもしかしたら…ほら、種類変えたりさ。量も増やして……そうしたらいけるかもしれないじゃん。だからな、これからも」
「巫山戯るなよ」
もう1秒だって聞いていられず、ドラルクは目の前の吸血鬼の言葉を遮った。
「私が君の為にと作った物なのに、毒なんて混ぜたいものか。……本気でそう思ったのか?私が、そういう男だと」
怒りのせいか震えたドラルクの声に、自殺志願は目を逸らして俯いた。誰かに叱られた時特有の気まずさ。吸血鬼は無意識にシーツを掴んだ手に目線を落としたまま、思ってないけど、小さな声で呟く。
吸血鬼対策課の隊長が、脅威とされるはぐれ吸血鬼に薬を盛るという行為は、字面だけで見ると実のところそんなにおかしいわけではない。実際、最初も最初は吸対も彼を拘束しようとそういう計画を立てていた。
しかし、前提としてその危険な吸血鬼の通り名は「吸血鬼自殺志願」であり、その願いは一貫して自らの死なのだ。そして、吸血鬼はいまのところ人民に一切の被害を出していない。
ましてや今の2人の関係を考えれば、そんなことをするロクな動機など思いつきやしないだろう。
それでも、無理矢理こじつける事は出来る。自殺志願に対する吸対の方針は休戦ではなく、やはり殺すことに決まったのだとか。新しい対吸血鬼用の毒薬が発明されたとか。自殺志願の言葉を信用して正面から殺すよりも、暗殺の方が確実だからとか。
その、吸血鬼自殺志願が経年劣化で錆びついた頭で一生懸命考えた、だらだらと連ねた薄っぺらい建前全てを、他でもない彼自身の心が無情にも鼻で笑った。
なんて、そんなわけがないよなあ、やっぱり。
「でも、そうだったらいいなって」
「いいって、なんで」
「だって」
そんなものは言うまでもない。なんせ自分は死なねばならぬのだ。自らの物心に気づいた時には既に抱いていた欲。生まれた時からずっと定まっているのであろう、使命に近い切望。そしてそれが、目の前の男の手で成し遂げられたら、きっとこれ以上の喜びはない。自分は、誰よりお前に殺されたい。何故ならば、
(……?)
心中でひとしきり捲し立てたところで、自殺志願ははた、と気付いた。
この後に続く言葉を、自分は欠片ほども持ち合わせてはいないことに。全く根拠のない確信。吸血鬼自殺志願はずっと、ただひたすらそういうものに突き動かされて生きてきた。今までは全く気にしていなかったことだ。当たり前だ、だって今までは誰かと接することなど数えるほどしかなかった。努めて言語化して初めて見えてくるものというのは少なくない。何千、何万、何兆と自死を試みてきたが、そういうことは全くと言っていいほどおこなってはこなかった。
酷く偏った道のりだったが、それを不思議に思ったこともなかった。
「君の言うことってさ、」
黙り込む自殺志願に何を思ったか、ドラルクは鋭い目付きで彼を睨む。
「たまに意味がわからなくて不愉快だな。ねえ、私のこと何だと思ってるんだ?」
「何って、」
「私にそんなことされると思わなかったって、裏切られたって、信じてたのに酷いって!」
努めて冷静ぶって紡ぎ出した言葉は、段々縫い目が荒くなり、言い切った頃には叫ぶようだった。
何か大事なことを考えていた気がするが、その悲痛に歪んだ顔を見た途端、自殺志願の頭は脳内のノートを投げ捨てた。
ドラルクが自分のせいで悲しそうにしている。
「君は、ほんとうに思わなかったの!?」
バナナケーキを食べて崩れ落ちた時にちらと見えた彼の目はひどく恐ろしかった。苦しむ彼が心配だったから、何が起きたか理解できず不安だったから、勿論それもあるが、それだけではなかった。
顔を歪めさせて、顔に汗の球をたくさん浮かべて、焦点を揺らして、それでも此方を真っ直ぐ射抜くような彼の瞳が、ドラルクを責め立てているように感じたからだ。ドラルクにマイナスの感情を向けたことが殆どない自殺志願からのそれは、今までの関係が崩れてしまうような予感がして、背筋が凍るような心地だった。
それでも、今はその時の鋭い視線が、どうか気のせいでなければ良いと願わざるを得なかった。
だってそうだろう。成り行きとはいえ共に暮らした。同じ食卓を囲んだ。沢山会話して、軽口まで言い合えるようになって。
それなのに彼を害してしまっても「うらぎられた」と思ってすら貰えないなんて。
自分と彼の間に、壊れる関係すらないのだと、突きつけられたようなものじゃないか。
(本当に思わなかったな)
吸血鬼自殺志願は間も置くことなく心中でそう溢したが、それを音に昇華させようとは思えなかった。
目の前の男はどういうわけか泣きそうな顔をしている。理由は全く定かではない。明瞭な記憶は残っていないが、ケーキに抱かれた毒を飲んだ時に、ひどく喉が焼けて潰れ、その痛みのせいで顰めた目でドラルクを見てしまった気がする。その時に怖がらせてしまったのかもとは思ったが、今はその時よりずっと分かりやすく傷付いているように見えた。
だから、もし自分がここで追い討ちが如く彼の叫びを否定したとしたら、その大きな目には薄い膜が張られてしまうんではないかと、そう、不意に心配になったからだ。
それでも、ドラルクの気持ちを汲んで彼を責め立てる気もまた到底起こらなかった吸血鬼は、ただ泣くなよ、とだけ呟いた。泣いてないよ、と返され、確かにそうなのだが、と眉を顰める。
「俺が悪かったよ」
「なぜ君が謝るんだ」
ほら、言わんこっちゃない。
やっぱり膜が生まれたじゃないか。
「私が作った物で傷付いた君が……」
ドラルクが小さな声で呻いた。
自殺志願の胸には、ほんの少しの諦めが湧き上がる。
どうやらこの男は、自分の悲願を叶えてはくれないらしい。
「うん、辛かったな」
それでも、今は良いかと思った。加害者に仕立て上げられてしまった、目の前の哀れな男の頭を撫でる。誰かを傷付けるのはとても辛いことだ。他者に毒を飲ませるよりも、自分が毒を飲み下す方が、何千倍も気が楽なのだ。それを自分の魂は、何故か痛いほどよく知っている。
擦り切れた3000年もの切望より、この男の悲しみを和らげる方が、遥かに大事だと感じたのだ。
どうしてだかは分からなかった。目の前の男はほんの数瞬時を共にしただけのダンピールだ。
自分が記憶している限り、彼より長い間会話をしたことがある者はそこまで居ないが、それでも、自分が生きている時間と比べれば砂粒ほどの交流だった。
自分の切望を心中に隠してそれらしい言葉をならべるだけで、彼を慰めることが出来るとしたら、笑えるほどになんて事がなかった。
「またバナナケーキ作ってくれよ」
今度は作ってすぐに目の前で食べてさ、ゴチソウサマって言うから。
そう口先だけで笑めば、ドラルクは小さく頷いた。
初めて此方から申し出た、死にまつわらぬ約束だった。