真夜中は君の色「ねえ、おかしくないかな」
琥珀色の瞳が少し不安げにヒュンケルを見つめている。同じ目線まで身を屈め、着せてやったばかりの服と細やかな装飾品を改めて確認したヒュンケルは、末の弟弟子を安心させるべく微笑んだ。
「大丈夫だ、どこも汚れていない。リボンタイも曲がっていないし、ブローチも肩章もしっかりとついている」
「ありがとう。でも、そういう意味じゃないんだ」
首を傾げる兄弟子を見上げながら、ダイが少し困ったように笑う。
「えっと……おれ、こういう服着るの初めてだから……」
はにかんだ表情に、ヒュンケルはようやくダイの質問の意図に気づいた。
「よく似合っているぞ、ダイ。きっと皆もそう言うはずだ」
「ありがとう、ヒュンケル」
ダイは嬉しそうに両手を広げ、片足でくるりと回ってみせた。窓から降り注ぐ陽射しのなか、純白の服が目映く光る。ああ、春が来たんだ。無邪気な笑顔を見つめながら、ヒュンケルは今更のようにそんなことを思った。
「おれ、みんなに見せてくる!」
春の陽射しのせいか、あるいは勇者のために誂えられた豪奢な衣装のせいか。目映さに目が眩みそうになっているヒュンケルを残したまま、ダイが軽やかな足取りで部屋を後にする。
「待て、ダイ。ひとりで行くな」
そばにいてやらないと、何者かに匂引かされてしまうかもしれない。竜の騎士を匂引すほどの強者が果たしてこの場に存在するのか、そんな疑問が頭に浮かぶ間もなく、ヒュンケルは慌てて小さな弟弟子の背中を追った。
もうすぐイースターだから、みんなでお祝いしましょう。レオナからそんな誘いがあったのは、二週間ほど前のことだった。
「なあ、結局イースターってのは何のお祝いなんだよ」
炙り肉の乗った皿を手にしたポップがマァムに囁く。誘われるがままパーティに参加したのはいいが、使徒たちの中でイースターなるものを真に理解している者はひとりもいない。
「私もよくわからないけど、せっかくレオナが誘ってくれたんだから」
「お誘いっていうけどよ、ほとんど強制参加じゃねぇか」
こんな服まで用意してくれちゃってさ。そう言って、ポップは鮮やかな緑色のネクタイを緩めようとした。
「よせ、ポップ。だらしなく見えるぞ」
「わかってるけどさ、窮屈で仕方ねぇんだよ。ちょっとぐらいいいだろ」
淡い紫色のネクタイを締めたヒュンケルに注意され、ポップが口を尖らせる。
「もう、だめよ。ダイだってちゃんと我慢してるじゃないの」
マァムの言う通り、ポップよりも更に窮屈そうな服を着せられたダイは、驚くほど行儀よく振る舞っている。初めこそ色とりどりのお菓子や果物に手を伸ばしていたが、その度にレオナやラーハルトから鋭い声が飛んできて、味わうどころではなくなってしまったらしい。
「ダイ君、そのケーキは崩れやすいから気をつけてね」
「ダイ様、私がお口に入れて差し上げますよ」
「ああダイ君、袖にクリームがついちゃうわ」
「いけませんダイ様、お召し物にオレンジの汁が飛んでしまいます」
そのうちにダイはご馳走を楽しむのを諦め、何か話しかけられた時は笑顔で答え、そうでない時はひたすら黙っていることに決めた様子だった。着替える直前まで礼儀作法を叩きこんだ甲斐があったと言えるのかもしれないが、こうなると少し可哀想に思えてくる。
「あいつも大変だな」
少し離れた場所にいる親友に、ポップが同情をこめた視線を送る。
「それにしたって、ダイの服だけやけに凝ってるよな」
使徒たちはそれぞれパーティに相応しい礼服をレオナから贈られていたが、ダイの衣装は一際華やかで招待客の目を引いた。
「イースターに相応しい服なのかもしれないわね。よくわからないけど」
「ふーん。それか、姫さんの好みなのかね」
「それもあるかもしれないが、ダイは十二歳だからな」
「どういうこと?」
マァムとポップが首を傾げる。
「あとで、十二歳以下の子どもを対象にした企画があるらしい。それにダイも参加させると姫が言っていた」
「つまり、あいつはお子ちゃま枠ってわけか」
面白そうに笑うポップに、ヒュンケルがやや眉を顰める。
「ダイには言うなよ」
「言わねぇって。んじゃ、ちょっくらダイのところに行ってくるかな。そろそろ退屈してる頃だろうし」
「私も行くわ」
ポップとマァムが立ち去って間もなく、入れ替わりのようにラーハルトが現れた。
「……水をくれ」
「酒もあるぞ」
「ダイ様をお守りせねばならんのに、酒など飲めるか」
そう言うと、ラーハルトはまるで酒をあおるようにして渡された水を飲んだ。
「そのダイの傍にいなくていいのか」
「少し休憩しないと身が持たん」
ラーハルトらしからぬ言葉に、ヒュンケルは我が耳を疑った。
「おまえが休憩だと……?」
「あまりにもダイ様が愛らし過ぎて、ずっとお傍にいるとオレの命が尽きてしまいそうだ……」
やはりいつものラーハルトだ。ヒュンケルの中から、心配の二文字がきれいに消え去った。
「だが、そうなるとダイ様をお守りすることはできん。あの愛らしいダイ様を不埒な輩からお守りできるのは陸戦騎であるオレだけだ。何としても生き延びて、ダイ様の清らかなお心とお体をお守りせねば……」
「ああ、そうだな」
「おまえも見ただろう。あの可愛らしくも凛々しい、子供らしさと大人っぽさが共存した素晴らしいお召し物を」
「ああ」
見たも何も、オレが着せてやったんだ。ヒュンケルは心の中で呟いた。
「白はダイ様の汚れなきお心を、青はダイ様の比類なきお力を、そして紫はダイ様の生まれ持った高貴さを表している。おまえもそう思うだろう」
「ああ」
紫はオレを表しているなどと言おうものなら、今度こそヒュンケルの命が尽きてしまうかもしれない。
「あの衣装をお召しになったダイ様は、あたかも春の精、いや春の天使そのものだ。人間どもは愚かにも春が来たなどと浮かれているが、そうではない。ダイ様が春を呼ばれたのだ。しかしダイ様の非一点打ちどころのない愛らしさを見ていると、オレは少し不安になる時がある。春の風が花びらを攫って行くように、誰かがダイ様を攫って行ってしまうのではないかと……」
こうなったラーハルトは、自分の返事があろうがなかろうが気にも留めないことを、ヒュンケルはよく知っている。適当に相槌を打ちながら、ヒュンケルはポップ達と話をしているダイに視線を移した。あんなにも無邪気に笑って、あんなにも人を信じ切った瞳をして、あれでは本当に何者かに匂引かされてしまうのではないだろうか。無論ポップとマァムが傍にいるし、ラーハルトや自分もすぐに駆けつけられる場所にいる。しかし、絶対に大丈夫とは言い切れない。延々と話し続けるラーハルトと似たり寄ったりの思考に陥っていることに気づかないまま、ヒュンケルは気遣わしげな視線をダイに送り続けていた。
「疲れたか、ダイ」
パーティが終わるや否やぐったりと自分に凭れかかって来たダイを支えながら、ヒュンケルは囁くような声で訊ねた。
「つかれた……」
ダイが少し掠れた声で答える。常ならば疲れを隠して「大丈夫だよ」と答えそうなものだが、今は取り繕う気力もないのだろう。ヒュンケルはレオナに一言断りを入れ、用意された部屋にダイを連れていくことにした。
「おぶってやろうか?」
「やだ、かっこわるい……」
そう言いながらも、ダイは眠たげに目を擦っている。
「こら、目を擦るな。眠いんだろう? 我慢しなくていい」
「だれかに見られたらやだ……」
どうやら、おんぶは断固として拒否するつもりらしい。ヒュンケルは小さく溜め息を吐くと、ダイの体を支えながら先を急いだ。
どうにか部屋に辿り着き、抱えていた体をベッドに座らせると、ダイはそのまま後ろへ倒れこんだ。
「今日はがんばったな」
「うん……おれ、がんばった……」
「そうだな。だがもう一仕事残っているぞ。ほら、靴を脱げ」
「やだ……」
「やだじゃない。履いたまま寝るわけにはいかないだろう」
軽く揺さぶるが、ダイは目を閉じたまま何も答えない。ヒュンケルは仕方なく小さな靴を脱がせてやり、ベッドの脇へ置いた。
「ありがと……」
「起きてるんじゃないか。服は自分で脱ぐんだぞ」
「脱がせて……」
「何を言っているんだ」
「だってこの服、ヒュンケルが着せてくれたんじゃないか……おれひとりじゃ着られないからって……」
ダイの瞼がうっすらと開かれる。
「だから、ヒュンケルが脱がせてくれないと……脱げない……」
「……着るのは慣れていないと難しいが、脱ぐのは難しくないぞ」
「そうかなぁ……」
ダイは横たわったまま、ヒュンケルに手を伸ばした。眠たげなその顔は甘えているようでもあり、面白がっているようでもあった。その手に応えるように近づいて行くヒュンケルの襟元に、小さな指が絡みついた。固く締められていたネクタイが、するすると音を立てて解かれていく。
「……本当だ。難しくないね」
ダイは薄っすらと笑うと、淡い紫色のネクタイに口づけた。
「オレの言った通りだろう?」
ヒュンケルも笑い返し、その悪戯な唇を奪う。
(……やっぱり、そばにいないと危ないな)
おまえがどこかへ行ってしまう前に、いっそこの体を縛ってしまおうか。上品なシャツを着せてやるように、可愛いブローチを付けてやるように、華やかなベルトを締めてやるように、オレの元に留め置いておくことができるなら。小さな手に握られたままだったネクタイを優しく取り上げながら、そんな愚かな考えがふと頭を過る。
ひとつ、またひとつと、ヒュンケルはゆっくりとダイの服を脱がせ、装飾品を外していく。そしてひとつなくなる毎に、幼い体に刻印を残すかのように深く深く口づけた。
白は、ダイの汚れなき心。
青は、ダイの比類なき力。
そして紫は、オレの――