ある冬の日の再会(来ないな……)
ネイビーのマフラーに顔を埋めながら、ダイは人混みを眺めていた。既に約束の時間から二十分程が経過している。待受画面のまま何も変わり無いスマートフォンを、先程から一分おきに確認している気がして、ダイは溜息をついた。
記憶の中の彼のままならば、約束をすっぽかすことは無い筈だ。だが、人は良くも悪くも変わるもの。五年前、たかが数ヶ月程度関わっただけの子供との約束など、どうでもいいものなのかもしれない、とダイは思った。
(電話してみた方がいいかな……)
そう思いながらもかけられずにいるのは、緊張の為か。或いは「忘れていた」という彼の一言を聞きたくない為か。
スマートフォンの画面をじっと見つめたまま悩んでいたダイだったが、目の前まで誰かが走り寄って来た気配に顔を上げた。
「……っすまないっ! 遅くなった……!!」
はあはあと息を切らしてそこにいたのは、ダイと待ち合わせをしていた人物で。安堵した顔で、ダイは応える。
「……大丈夫ですよ。そんなに待ってないし」
「人身事故があったせいで、車内が混雑していてな。身動きがとれず連絡できなかった。本当にすまない」
申し訳なさそうに謝る彼の言葉に、ダイは首を振った。
「いいんですって。……先生に、何かあったんじゃなくて良かった。さ、行きましょう!」
わざと明るめに返答し一歩を踏み出せば、待ち人の彼──ヒュンケルはこくりと頷き、後に続いた。
ダイがその人を見かけたのは、ひと月ほど前のことだ。
部活を終え、学校の最寄り駅の改札へと向かっている時だった。懐かしい、見覚えのある横顔に、思わず声をかけた。
「ヒュンケルッ……先生!」
呼ばれた彼は立ち止まり、訝しげにこちらへ視線を寄越す。だがそれも一瞬のことで、数メートル離れた先のダイの姿を認めると、彼は瞠目した。
「まさか……ダイ、か?」
あの頃とまるっきり姿形の違うダイを、ひと目見てそうと認識してくれたことに、ダイは嬉しさを隠せない。
「そうだ……そうです! お久しぶりです」
「ああ……! 久しぶりだな」
そう言って薄く微笑み、彼はダイの元へと近づく。スラリとした長身に黒のチェスターコートを纏い、グレーのスーツに、ダークパープルのネクタイをキリリと締めたその姿は、あの頃よりも更に大人びて見えた。
「学校帰りか?」
「はい。先生も、お仕事帰りですか?」
「いや。営業先から会社に帰るところだよ」
「あ……すみません! おれ、思わず声かけちゃって……」
「いや、構わんさ。声をかけてくれなければ、オレも気づけなかった」
まだ彼の方が少し背は高いが、あの頃よりも遥かに目線が近い。
「元気そうだな。随分背も伸びたようだ」
「あ、はい。中学に入ってから急に伸び始めて……」
「そうか……っと、すまない」
会話をしていると、彼がおもむろにスーツの内ポケットへと手をやる。懐から取り出したスマートフォンの画面を見、ちらりとダイを見る。ダイが無言のまま手で促せば、彼は片手で詫びを入れると、電話で会話を始めた。
(こんな所で会えるなんて……ビックリした……)
電話をしている彼の横顔を見ながら、ダイは彼と出会った頃を思い出した。
まだダイが小学生だった頃のことだ。中学に上がる前、ダイの学力を心配した両親がダイに家庭教師をつけ、その時にやって来たのがヒュンケルで。最初は家庭教師なんて、と思っていたダイだったが、ヒュンケルの教え方は丁寧で分かりやすく、すぐにその態度を改めた。
また、『彼は今まで出会ったどのお兄さんよりもカッコいい』。そんな理由で、いつしか彼はダイにとって羨望の眼差しを向ける人となっていた。
やがて電話を終えたヒュンケルは、スマートフォンを仕舞うとダイへ向き合う。
「すまない。急いで会社に戻らなくてはならなくなってな……」
「はい……すみません。引き止めてしまって」
「いや、こちらこそせっかく声を掛けてくれたのに悪かったな」
「いいえ。その……それじゃ……」
「ああ……っと、そうだ」
せっかく再会したのに碌に会話もせず別れることに罪悪感を感じたのか、彼は再びスーツの内ポケットを漁ると、名刺入れとペンを取り出す。更に名刺入れから一枚、名刺を取り出すと、ペンで何やら書き込み、それをダイに手渡した。
「オレの番号だ。何かあれば、連絡してくれ」
「あ、ありがとうございます……!」
「じゃあな」
礼を言ったダイにひとつ頷くと、彼は足早に改札へと向かって行った。
彼の背を見送ったダイは、手元に残された白い紙を眺める。表には、彼の会社名と、部署名、彼の名前などが書かれており、その裏面には流麗な字で、十一桁の数字が書かれていた。
(懐かしい……。ヒュンケルの字だ……!)
ダイの雑な文字の横によく並んでいた、赤ペンで書かれた字をダイは思い出す。
それからダイは、電話をかけていいものかどうか三週間ほど悩みに悩んだ。そして十日ほど前にようやく決心し、彼に電話をかけ、今回二人は時間をとって会うことにしたのだ。
落ち着いて話す為の店を決めたのは、ヒュンケルだった。日曜ということもあり、そこそこ人はいるものの、席と席が幾分離れている為、ゆったりとした印象がある。ヒュンケルはコーヒー、ダイはカフェオレを頼むと、彼らは早速話し始めた。
「あの……迷惑じゃなかったですか?」
「何がだ?」
「その……電話したこととか、こうやって会って貰ってることとか」
「迷惑だったらその場で断っているさ。オレはそこまで出来た人間じゃない」
ヒュンケルの言葉に、胸を撫で下ろすダイ。
「それよりも、ひとつ気になっていたんだが……」
だが、ヒュンケルに逆に指摘されドキリとする。
「え……な、何ですか?」
「呼び方だ。先生、はつけなくていい」
「じゃ、じゃあ……ヒュンケルさん?」
「さん、も無しだ。昔のようにヒュンケル、でいい。それから敬語も」
「で、でも……年上だし……」
「よしてくれ。他人行儀な」
(今は、他人に近いと思うんだけどな……)
そう思いながらも、口にすれば彼が怒って帰ってしまいそうで、ダイは従うことにした。
「わ、わか……ったよ……ヒュンケル」
「それでいい」
ヒュンケルが納得したタイミングで、店員が注文の品を運んで来る。店員が去って行くと、彼らは再び話し始めた。
それぞれの近況を話しながらも、ダイは正面に座る彼の一挙一動を観察していた。
偶然再会した時にも思ったが、彼は思い出の中の彼よりも、ずっと大人の男性になっていた。
ダイも、この五年でかなり背も伸び、内面も大人に近づいたと思ったのだ。だが、それ以上に彼はすっかり大人びていて、ダイは彼との年齢差をまざまざと見せつけられたように感じる。切れ長の瞳を縁取る長い睫毛も、すっと通った鼻筋も、一般的に美形と評されるであろうその面立ちもあの頃と変わらないのに、彼の纏う空気が、子供である自分とは明らかに違う。
(相変わらず……カッコイイな……)
さぞかしモテるのだろう、と思わずダイは彼の指先に視線を落とした。
ヒュンケルの手元をじっと見つめるダイに、ヒュンケルは声をかける。
「何だ? 手が気になるのか?」
「あ……ごめん。何でもない。その……やっぱりモテるんでしょ?」
ダイのストレートな物言いに、ヒュンケルは少々困った顔をする。
「……人と比べたことがないから、モテるかどうかは分からん。だが、その質問はよく受けるな。何故オレに聞くんだ」
「そりゃ、ヒュンケルカッコイイもん! 彼女も大変だね」
「それもよく言われるんだが……何故オレが彼女持ちだと思うんだ?」
「えっ!? 彼女、いないの!?」
驚き聞き返すダイ。
「いないが……何か問題が?」
「や、いいんだけど意外って言うか……」
予想とは違う返答に、ダイは動揺する。
「同期曰く、オレは綺麗過ぎて近寄りがたいらしい」
「あー……そうかも」
「ダイもそう思うのか?」
「うん! おれも昔っから思ってたもん! 綺麗でカッコイイから自分じゃ釣り合わ……」
そこまで言いかけ、ハッとダイは我に返った。
「……ダイ?」
「あ、えと……自分じゃ釣り合わないって思っちゃうんじゃないかなーって」
「……そうか」
(何とか誤魔化せた……かな)
ダイは内心でふうとため息をつく。
「おまえの方こそ、学校ではモテるんじゃないのか?」
先程のダイの言葉は気にならなかったらしく、ヒュンケルが同じことをダイに尋ねた。
「モテ……はしないかな。おれ、男子校だし」
「男子校か」
「うん。なんか冗談で変なこと言ってくるヤツはたまにいるけどね」
「ほう……」
ダイの言葉に、ヒュンケルは一言だけ返すと黙ってしまった。
「…………」
(あれ? おれ、なんか変な事言ったっけ……?)
「あ、あの……ヒュンケル?」
「……どうした?」
「その……なんか怒らせちゃってたら、ごめん」
「……! ……いや、怒っていた訳ではないが……そう見えたか?」
「急に黙っちゃったから……違うの?」
「違う……と思うが」
歯切れの悪いヒュンケルの言葉に、ダイは首を傾げた。微妙な空気に、二人は飲み物を啜る。
「あのさ……ヒュンケル」
先に、沈黙を断ち切ったのはダイだった。
「もし……その、時間があればでいいんだけど……またこうやって話、出来ないかな?」
「話?」
きょとんとヒュンケルはダイを見返す。
「そのっ……なんか、昔に戻ったみたいでちょっと嬉しくて……。あっ……あと、父さんと母さんも会いたがってたからさ! そのうち家に来てよ!」
「ああ……そうだな。流石に毎週とはいかんが、月イチ位なら時間も取れるだろう」
「よかった! あっ、そうだ! 通話アプリ入れてる? 番号交換しようよ!」
楽しそうにウキウキとスマートフォンを弄るダイの様子に、ヒュンケルの顔も思わず綻ぶ。
二人の距離が縮まるのは、もう少し先のこと……。