花吐き病本「恋愛初心者論」カーヴェ視点 誰もいない家の真っ暗なリビングに、軽い咳の音が響く。歩くたびに足元に小さな色が舞って、後ろを浮遊していたメラックがそれを丁寧に拾い上げて集めていた。
玄関からまっすぐ歩いた先にあるテーブルに片手をついたまま、手のひらを口に当てた。
「ぐ……う……ゴホッ。ゴホッゴホッ」
胸を圧迫されるような感覚に、ぐっと詰まる喉の奥。抑えきれずに吐いた息は、色づいて手のひらに舞った。
口から溢れると同時に形を織りなす花弁。手のひらで抑えきれなかった小ぶりの花が床に落ちる。
「はぁ……はぁ……」
吐き出せばいくらか楽になる。止めていた息を吸うように何度も胸を膨らませ、目を閉じて苦しさをやり過ごす。
握ったせいで少し萎れた小さな花は、控えめな電子音を奏でたメラックがそっと回収していった。空中に浮かんでいる花弁は色とりどりで、スメールでは見かけない花もある。
吐いた花は、先ほどまで水を吸っていたかのようにみずみずしく、摘んだばかりのように芳醇な香りがしていた。
「はぁ……は…………」
その香りすら、最近の僕には良いものと思えなくなっていた。
よろよろと力の入らない足を叱咤して、たくさんの花を引き連れたメラックと共に自室へ足を踏み入れる。
この不可解な現象を自覚してから既に一ヶ月が経っていた。誰かに相談をすることもなく、ただ現象を享受している。だが吐き出す、苦しむというのは人体に悪影響があって然るべきだ。
自室に入って、しっかりと扉を閉める。
そろそろ鍵をつけたいと言ってもいいかもしれない。秘密にするものがあまりにも多くなってしまった。
ゆっくりとした足取りでクローゼットの前に立つ。自室は足の踏み場もないほど荒れていた。衣服も全部外に出ていて、模型や製図台と共に部屋の中央を囲むように置かれている。
入り口からクローゼットを隠すように置かれたハンガーの影で、持ち手を手前に引っ張る。花々の香りが一気に僕の身体を包み込んだ。生き生きとした花が視界いっぱいに広がる。詰め込まれていた花が一輪、堪えきれずに僕の足元に転がってきた。
「…………」
一言も発さない僕の代わりに、メラックがピポと小さく音を立てる。まるで伺うような音に肩の力が抜けた。何度見ても見慣れない。日常ばかりのこの部屋の中で、背よりも高いクローゼットの中身全部が色とりどりの花たちで覆い尽くされていた。
「もうここには入りきらないな」
ぼそっと呟いた独り言も、メラックは拾ってくれる。
機械音を立てながらぐるりと後ろを半円に浮遊する姿に肩をすくめて、ポケットからしわくちゃになった小さな白い花を取り出した。
目の前に咲く黄色の大輪の上にそれをのせる。腰の高さの位置に作られた仕切りでは、中の花を閉じ込めていくことはもうできなくなっていた。
これが一ヶ月間。僕が吐き続けた恋心だ。
慎重にクローゼットの扉を閉めて、腰に手を当て思案する。どうしたって溢れてしまう花々を消すために、僕は一人きりの部屋の中で考え始めた。
End