ワンドロ【髪型】【衣替え】 正直に言って、グッときた。
「……視線がうるさいんだが」
見つめていたのはバレていたらしい。視線を逸らして見ていませんというポーズを取り繕ったところで、この男を誤魔化せるはずもなかった。
「気のせいじゃないか?」
「まさか。俺に気づかれたくなかったのなら、もう二歩、右にずれるといい。そうすれば俺の視界の隅に君が映らない。その代わり、鏡に君の姿が映ることになるだけだが」
「それじゃあ意味ないだろう」
後ろ手に組んでいた指先を擦り合わせる。カーヴェが身に纏っているのは着慣れた白いシャツと、黒色のズボンだ。対してドレッサーの前に座らされているアルハイゼンは、黒が基調の縦ストライプが施された背広を纏っていた。
美しく仕立てられたスーツは筋肉質の体格を余すことなく飾り立て、洗練された体型を際立たせている。
横目で見ているだけなのに何故か心が落ち着かない。自分はスーツを身につけていないしこの後の会に関係がないにも関わらず、カーヴェはそわそわとその場に立ち尽くしていた。
そのうちに、閉ざされていた部屋の扉が開かれる。現れたのは金色の髪の少女だった。
「アルハイゼン。準備できたかってセノが言ってたよ」
「ああ」
問いかけにそう答えて、アルハイゼンは鏡の前の椅子から立ち上がる。
「あ、カーヴェも来てたんだ」
こちらの存在に気づいた旅人が目を丸める。隣を飛んでいたパイモンが「久しぶりだな!」とこちらに向けて手を振った。
「こいつの忘れ物を届けに来ただけだよ」
そう言ってアルハイゼンを横目で見る。無視を決め込んでいる男からすぐに視線を外して、言葉を続けた。
「でも、聞いていたよりも随分と規模の大きいパーティーだったんだね」
肩をすくめながら旅人とパイモンに笑顔を向けると、二人も同意を示した。
「教令院の賢者が指名されるって聞いてただけなのに、すっごい規模で驚いたぞ! でも美味しそうな料理が並んでたんだ! カーヴェも食べていくんだろ?」
「悪いんだけど……僕は先に帰るとするよ」
残念そうな表情をみせたパイモンに、カーヴェは困ったように眉を歪ませ「まだ仕事も片付いてないんだ」と付け加えた。
「そうなのか? せっかくなのに残念だな。あんなに豪華なご飯が食べられないなんてもったいないぞ」
「夕食までには帰宅する」
パイモンの声にかぶさるように聞こえたアルハイゼンの言葉に顔を向けると、澄んだ色の瞳と視線が重なった。カーヴェは腕を広げて首をかしげる。
「はあ? まさか家で食べるつもりか? このままパーティーで済ませてくるんじゃ」
カーヴェの疑問に答えることもなく、アルハイゼンは扉を開いてさっさと廊下に出ていってしまう。
あっけにとられていた三人の中で一番最初に文句を口にしたのはパイモンだ。
「あいつどういうつもりなんだ? せっかくのご馳走だっていうのにさ!」
腕を組んで空中を一回転するパイモンを旅人がなだめ、それから旅人はカーヴェに微笑んだ。
「何か夕食に準備してたの?」
「ああ、まあね。あいつ、今日の祝賀会のことを僕に黙ってたんだ。知らなくて肉に下味をつけててさ。まあでも、そんなの僕が食べればいいだけなのに。……さっきもそうだ。持っていくと言っていたネクタイが放置されてたからわざわざ持ってきてやったのに、髪型もいじらずにスーツだけ着て控え室にいたんだぞ」
「髪型?」
「さっきのアルハイゼン、いつもと髪型違ってたよな?」
文句を言うカーヴェに二人は首を傾げて、先ほどのアルハイゼンの姿を思い出すように斜め上を見つめる。
「置いてあった整髪剤で僕が整えたんだよ。相応の場に、相応の服を身に纏って出るにも関わらず、準備不足なんて格好がつかないだろう?」
「まあね」
「確かに雰囲気違ってたよな! アルハイゼンっていつもは長い前髪で顔が隠れてるのに、今日は髪を上げてたぞ!」
パイモンが旅人にしている説明を聞いて、カーヴェはうんうんと頷く。
両手に塗り込んだ整髪剤で、椅子に座ったアルハイゼンの髪を包み込み撫で付けたのは数分前のカーヴェだ。
毛先を少しだけねじって跳ねさせ、おでこが出るように髪の流れを作った。そのおかげで両目があらわになったアルハイゼンは「眩しい」と苦言を呈していた。
「見た目はいいんだから、その髪型は勿体無いと昔から僕は言っていたんだ。なのにあいつ、煩わしいって」
「そうかも……」
旅人の言葉にカーヴェは首を傾げる。先に廊下に顔を出していた旅人に手招きされ、カーヴェも廊下に足を踏み出した。
廊下の先、パーティー会場への扉の前で女性陣に囲まれているアルハイゼンの背中が見えた。
「あれは煩わしいかも、ね」
旅人が小さく呟いた言葉にカーヴェは唇を尖らせ、すぐに「もう帰るよ。楽しんで」と言い残して裏口から会場を後にした。
アルハイゼンが帰ってきたのは思っていたよりもずっと早かった。
リビングのカウチに寝転んで進まない設計図に頭を悩ませて一時間ほど。集中力が切れて気分転換でもするかとキッチンに向かったのが数分前。コーヒーを持って指定席に座ったのが一分前。玄関時の錠が開けられたのは、十秒前のことだった。
「早かったじゃないか」
思ったまま口にすれば、見送った時と同じスーツ姿のアルハイゼンがリビングに足を踏み入れ口を開いた。
「煩わしい会にこれ以上居る必要はないと判断した。俺はただの書記官だ。今夜記録すべきものは何ひとつないだろう」
「君ねぇ……教令院としては仕事の範囲になるかもしれないけど、今夜は元賢者代理で英雄としても招待されていたんだろう?」
「それこそ今夜の会の本質を捉えていない、間違った考えだ」
テーブルの前で立ったまま面倒そうにネクタイを緩める姿に、カーヴェは無意識に立ち上がっていた。
「どうかしたのか」
アルハイゼンが手を止めて顔を上げた。カーヴェはじっとアルハイゼンの姿を見つめ、彼の指先が引っかかったネクタイに手を伸ばした。
「僕が解いてあげるよ」
「なぜ?」
「僕が結んだからさ」
「…………」
こちらの意図を計りかねているのだろう。考え事をするときのアルハイゼンはうっすらと口を開く癖がある。何かを言おうとしたように唇が動き、結局音を発することなく閉じられた。
その様子を気にすることもなく、カーヴェは指をかけたネクタイをするりと解いていく。首に一本の布をかけたままのアルハイゼンにもう一度手を伸ばし、カーヴェの指先は白いシャツのボタンに触れる。
「カーヴェ」
「いいから」
咎めるような声を押さえつける。うっすら口元に笑みを浮かべていることを、カーヴェは自覚していた。気分がいい。なぜなのかもわかっている。しかし、それとは別にこの鉄壁を形にしたような男に一泡吹かせたい気分もあった。
スーツと同じ布であつらえられたベストが重なっている位置まで、白いシャツのボタンが開けられる。
ゆっくりとシャツをはだけさせると、普段は露出しているのに今夜は隠されていた緑色の宝石があらわになる。
爪先で引っ掻くと、固い爪が皮膚に触れたのかアルハイゼンの身体が一瞬だけ跳ねた。
「……おい」
不機嫌そうな声にカーヴェは笑って、両手をするりとアルハイゼンの両脇に差し込んで男の身体を抱きしめる。そのまま喉元に顔を寄せてると、香水の香りが鼻腔を満たした。顎を上げるだけで触れる皮膚に唇を寄せ、キスをする。そのまま、皮膚を吸い上げた。
「っ……」
チリッとした痛みがあったのだろう。その感覚は知っている、とカーヴェは思った。いつも情事の際にアルハイゼンがつけてくるから。
舌先が痛くなるくらい強くキスをして、労わるように皮膚を舐めて唇を離す。
視線の先には赤色の所有の証が咲き誇り、我慢していた欲が満たされた感覚に息を吐いた。
「満足した。ご飯にするかい?」
抱きしめたまま背を逸らしてアルハイゼンの顔を見る。そこでようやく、カーヴェは自身が犯した罪を自覚した。
「カーヴェ」
アルハイゼンから発せられた地の底を這うような声にヒュッと息が詰まる。身の危険を察知するよりも早く、スーツの男の両腕はカーヴェの背中を捉えていた。
抱きしめられて少し上に持ち上げられるだけで、両足のつま先が浮く。
多少の身長の差があるとはいえ、こうも簡単に持ち上げられるとは。そこまで考えて数日前の夜を思い出し、口を閉じた。
アルハイゼンがカーヴェを持ち上げられることなど、この身をもって何度も証明されている。
どこにいくのかとカーヴェが不安に思ったのは一瞬だけだった。すぐ後ろにあったカウチまで足を進めたアルハイゼンは、カーヴェの膝をカウチの角に押しつけて強制的に座らせ、そのまま押し倒した。
「おいっ! どういうつもりだ?」
「君のここまでの行動に何の弁論も無いということは、俺の想定している理由と大きく違わないのだろう。君が抱いた感情を思うと、長年の苦労が少しは浮かばれたのかと労いの気持ちが生まれるよ」
「はあ? というか、なんで機嫌がいいんだ! その顔やめろ!」
「その顔?」
カーヴェは自分を見下ろすアルハイゼンの顔を正面から見上げた。ほんの少し口角が上がった唇と、頬を緩ませた表情に目を見開く。
「せっ、せっかく整えた髪がぐしゃぐしゃになるぞ!」
一瞬で察知してしまったこの先の展開。こういう時のアルハイゼンは抱き方が甘い。明日動けなくなることが頭をよぎって、的外れと分かっている懸念を叫んだ。
「ふん、わかっているのならいい。君が整えたんだ。君が乱してくれ」
揚げ足を取られた。挑発など最初から効力はなく、今夜の行為に同意しただけだった。近づいてくるアルハイゼンの顔を見続けることもできずに、ぎゅっと目を閉じたのが敗因だろう。
キスをする直前。触れそうな唇をかすめる空気のせいで、アルハイゼンが笑ったことがわかった。
◇
「スメールって、冬でもあったかいんだな」
スメールシティを歩く旅人の隣で、パイモンは買ったばかりのピタを抱えて気分良く空中を飛んでいた。
パーティーの翌日。いつの間にか消えていたアルハイゼンに会場は一時騒然となったが、彼の家まで探しに行くような猛者は出なかった。
いや、実際は依頼を受けそうになったのを旅人は断ったのだ。蛇はいつ藪から出てくるかわからないから避けようがないが、鷹が帰った巣と知っていながらつつきに行くのは御免だと思った。命知らずも度を過ぎれば旅は続かない。
「ティナリがスメールは暖冬の地域だって言ってたし、シティの人の服装は冬でもあんまり変わらないな!」
旅人の思考回路も知らずに、パイモンは久しぶりのスメールを楽しんでいる。「そうだね」と返した瞬間、露天に立つ赤色を見つけた。
「おい! 旅人! あれ、カーヴェじゃないか?」
「あ、待って……」
旅人の声が届くよりも早く、パイモンが飛んでいってしまう。急いで駆け寄ったがすでに声をかけてしまったらしい。
振り返ったカーヴェは、昨日とは随分変わっていた。
「んん? カーヴェ。お前、なんか昨日と違わないか?」
「えっ?」
「パイモン……」
旅人の「待って」の声はパイモンの「あ!」という大声にかき消された。
「今日は暖冬だから昨日より暑いんだぞ? なんで首元まである黒いインナーなんか着てるんだ? 昨日は着てなかっただろ? あっ、衣替えか?」
「うっ……! あの、その」
既に藪を突いてしまったと頭を抱える。いや、まだ蛇はいないかもしれない。毒を食らう前に退散しなければ。
一類の望みをもって「カーヴェは今一人?」と聞いた旅人は、すぐに後悔をすることになった。
「俺もいるが?」
すぐ後ろから聞こえたアルハイゼンの声に、旅人は既に鷹にも蛇にも目をつけられていたことを思い知った。
End