ねやね:はなれていても「急遽出廷する事になった」
「ありゃ、そりゃご苦労さんだ」
今日、アドベントカレンダーから出てきたお菓子はチョコレートクッキーだったらしい。厚みのあるほろほろとしたクッキーの周囲に砂糖がまぶされたもので、マシュマロ、キャンディーと出てきたものの中ではものも大きく、朝から子供たちのご機嫌は絶好調だ。口いっぱいに頬張る二人の子供たちが机に散らかしたクッキーのかけらを払いながら、三毛縞は黒柳の方を見た。たまの外出――それも、黒柳と出かけるときくらいしか襟のあるものを着ない三毛縞とは違い、黒柳は自宅兼事務所であるここで仕事をしているときも、出廷するときもかっちりとした恰好をする。休日でさえネクタイを締めている黒柳と同じことはできないなと三毛縞はいつも思う。急遽の出廷になった、とは言うものの、黒柳は普段通りのルーティンで朝を過ごしている。朝食をしっかりと取り、ついでにいつも通りコーヒーを三毛縞から受け取って。それもまた、規則正しく登園する照也や業がいるから朝起きる三毛縞との違いだった。
「今日は私が二人を送っていこう」
「時間は?」
「問題ない」
ならいい機会だ、と三毛縞は二人を黒柳に預けることにした。普段多忙な黒柳が二人と過ごす時間は貴重だ。二人も久々に車での登園を喜んでいるようで安心する、と同時に、自分が着々と所帯じみた喜びに満たされていくことに、三毛縞はいつだってほんの少しの戸惑いと、理由のない安心感を覚えていた。別にこの不可思議な関係性が――それも、他でもない〝黒柳誠〟相手に――構築されていくことに不満や、不快感はない。ただあるのは一抹の不安、それも三毛縞の心の奥底に身をひそめ、その姿かたちさえ見せないまま、いやな場所をくすぐり続けるような厄介な類の、不安である。その不安自体は、ほんの少しだけ希望にも似た形をしているのに、どうしてこうも落ち着かないのか。三毛縞はその正体を理解して、そのうえで見ないふりをする。
「じゃあ、まだ家出るまでに時間、あるよな?」
三毛縞は自らの内側にぽつりと落ちた不安のしずくが、ジワリ、ジワリと広がっていくまえにニッと笑って自分を誤魔化した。
*
「それは大変妙案ですわ」
メイド長は三毛縞の提案をいつも通りニッコリと笑って肯定する。その笑顔は忖度なくいつだって心からの肯定で、それがどれほど三毛縞を安心させていることだろう。彼女は三毛縞の相談通り、いつものティーセットが並んだ棚の、そのまた隣の棚を開けた。こちらはいつもの棚とは違いガラス張りではなく、三毛縞はその扉の奥をこの家に来て今日はじめて見た。茶器ほどの華やかさはそこにはなかったが、その代わり整然と並べられた水筒やタンブラーの姿があった。どれもこれも黒一色のその中に、まだ新しい、色とりどりのキャラクターが描かれた水筒がひとつ、場違いながららんらんとその色をひけらかしてたてられている。他でもない、照也の使う水筒の一つだった。
「水筒なんてこの家にあるんだ。やっぱ全部黒なのね……」
「もちろんございますとも。旦那様もお坊ちゃんもお使いになりますから。そうね、でも黒ならどんなデスクにおいても馴染みますわ」
「なるほどねえ…… ま、あるなら使わせてもらおうじゃないの」
三毛縞はきっちりと並べられた黒い魔法瓶の一つを受け取り、ここ数日で見慣れてきた台所に向き合った。
――ニルギリとは南インドは西ガーツ山脈の南部・ニルギリ丘陵で作られる紅茶の総称である。現地語でニルギリとは〝青い山〟を意味し、故にこの紅茶は〝紅茶のブルー・マウンテン〟と表現されることもある。ニルギリという土地はダージリン、アッサムと並ぶインドの銘紅茶産地である。三毛縞の前に現れた三日目の茶葉は、そんなニルギリにレモングラスを合わせたハーブ・ティーだった。レモングラスはインドをはじめスリランカ、インドシナ半島が原産で、熱帯アジアに多く自生するハーブである。インドの茶葉であるニルギリとの相性はいいだろう、とメイド長が言った通り、紅茶独特の渋みや強い香りのないニルギリはブレンドに適しているため、ミルクやレモンをはじめフレーバード・ティーとしてもよく使用される。名に〝レモン〟と付くがレモンの葉ではなくイネ科オガルカヤ属の多年草である。が、レモンと同じシトラールという成分を含有するため、レモンのような香りを放つ。ちなみに三毛縞は気づいていないが、かつて黒柳邸で栽培されていたハーブを猫草と思ってむしゃむしゃと食い荒らしたことがあるが、その草こそがこのレモングラスである。余談にはなるが、猫にレモングラスを大量摂取させると、リモネンやシアン配糖体という猫に毒性を示す成分が含まれており、中毒症状をひきおこすため管理が必要である。三毛縞も翌日、無事に腹を壊し散々な目にあった。
まだ慣れない手つきで湯を注ぎながら、今日は保温瓶にも湯を満たして温める。湯のなかでふわふわと踊る茶葉から香り立つさわやかなレモンの香りと、甘みのある紅茶のすっきりと爽やかで、三毛縞の中にズルズルと残るわずかな眠気をさっぱりと追い払うような香りが二人の間に広がっていく。
「いいね、今日持たせるにはいい香りじゃない」
「リフレッシュ効果がある、と言われていますからまさにピッタリね」
蒸らし終えた紅茶を漉しながら魔法瓶へ注ぎ、ふたを閉めると浮かぶのはやはり、これを渡した黒柳の顔で。
――裁判が無事終わりますように、なんて。さすがに柄じゃあないよねえ
握った瓶が熱くなるはずがないけれど、なんとなく手の熱も、込めた思いも、一緒に暖かいまま届けばいい。相変わらず、キッチンの外からは照也の荷物チェックにあくせくする声が聞こえてくる。
「ここまで聞こえてるのね……」
「そりゃもう、屋敷中に」笑う彼女に、三毛縞ははっとして握りしめた魔法瓶を渡した。
「締めすぎたかな、ねえこれ開けられる?」
あらやだ、びくともしないわ。今度は顔を真っ赤にして蓋をひねる彼女に、三毛縞は思わず天を仰いだ。
「てる! 車もたれねえの! あ、おい、ちょっと。これ、持っていきな」
行ってきます、いってきまあす、二人の声に返事をしながら三毛縞は黒柳を呼び止めた。ネクタイが曲がってるわよ、なんて間柄でもない上に、黒柳は相変わらずシャツの襟からジャケットの裾、スラックスのしわ一本さえ完璧で。その黒一色に統一された威圧感のある紳士の胸元に輝く一等星のようなバッジでさえ、くすみ一つない。一糸乱れぬ黒柳はしかし、三毛縞によって差し出された見慣れた黒いボトルを思わず受け取った。
「これは?」
「あー、まあ、ここ最近のアレだ。――法廷って飲食禁止? だったらなんか、昼飯の後でもよかったら」
法廷で飲み食いするやつがあるか、と黒柳は眉を顰め三毛縞を見上げたが、その手で水筒を鞄にしまう。三毛縞には、今この場で三毛縞に見えるよう鞄にしまった黒柳の態度だけでよかった。目の前の男がこの世で最も不器用で、それでいてとことん他人に甘いと知っていたからだ。
「今度傍聴にでも来るといい。たまには頭を使っておかないと老化するぞ」
黒柳は一言そう添えてから、改めて自分より少し上にある虎眼石を見上げた。眠たげなその虹彩は角度や感情によってその色をわずかに変える。黒柳がいつも見上げる瞳は、いつだって濃い蜂蜜のような色をしていた。
「だがまあ、ありがたく頂戴しよう。――夕飯には帰る」
それだけ言うと、黒柳は再び夜布を翻す様に三毛縞の前を去っていった。漆黒に染め上げられた精霊がV12エンジンを吼えさせながら出ていくまで、三毛縞はただその場に立ち尽くすこと以外できなかった。きっと、心臓さえ止まっていたように思う。空になった車庫の寒々しさを前にして漸く、はっと息を吸い込んだ。
「――さぁ…… っみい」
ブルリと身を震わせる。ただただ、内側で燃え上がる興奮に火照る肌に、十二月の風はあまりにも冷たすぎて。
「――残り、飲んじまうか」
カップに一杯分、それはいつものような華やかでお行儀のよいものではなく、黒柳邸に居場所を移した時与えられた、使い込んだマグカップに用意されている。暫く冷めてしまわないように、とメイド長が保温用の蓋をしてくれたそれは、まだ暖かさものこっているだろう。冬の甘く、鋭い空気を一度胸いっぱいに吸い込んで。火照る顔を何とか落ち着かせ漸く、三毛縞は肩を丸め急ぎ足で部屋に戻った。