ネヤネ 今日は朝から、照也と業が慌ただしく出かけていった。なんでも朝日奈家の姉妹に、遊びに誘われたらしい。妹・ねむは黒柳邸の子供二人といつも一緒で、いわゆる仲良しグループであり、彼女の姉・らむがそんな三人をまとめて面倒を見てくれると言う。最近公開された話題のアニメ映画を見にいくらしく、暫く迷った挙句に黒柳は、用意した金を姉のらむに渡すよう三毛縞に伝えた。
「悪いねえ、二人も面倒見させちまって……」
「いえいえ、私も賑やかだと楽しいですし。それにねむが喜びますから」
彼女はおっとりとした物事柔らかな性格ながら、やんちゃ盛りの照也と、マイペースな業を二人まとめて相手にしてしまう豪胆な一面もある女性だった。黒柳から受け取った金を彼女に渡しながら、よかったら四人で使って、と伝える。はじめは彼女も遠慮していたが、話し合いの末今ではニコリと笑って受け取ってくれるようになった。黒柳邸の人間としてはそも妹のねむともども預かれるようなことも少なく、返せる礼といえば専ら金程度しかない。とはいえ、三毛縞がこの家に来てからは時折三毛縞も交えて出かけることもあったが。
「それじゃ、てる、カルマ。いいか、困ったら朝日奈さんに相談すること。朝日奈さんの言うことはちゃんと聞くこと。いいな?」
はいよお、という調子のいい声と、控えめでお利口な〝はい〟という返事が返ってくる。それでもどこかワクワクを抑えきれない様子の声色二つに思わず呆れた三毛縞を、朝日奈らむは楽しそうに微笑んだ。
「そういえば、黒柳さんは? 今日はお仕事で?」
手に余るほど元気な子供に手を焼く僅かな照れ臭さを隠しながら、三毛縞は肩をすくめてらむに向き合った。
「ああ、今日は休み。昨日しこたま運動させたからな。まだ寝かせてるよ」
「まあ!」
らむはぽっと頬を染めながら、興奮気味に悲鳴をあげる。おとなしい淑女の彼女から想像し難い反応に、三毛縞は僅かに肩を揺らした。
「えっ、あっ!」
「あら、あらあら、ウフフ、やだ、ごめんなさいね」
「ちょっと! 朝日奈さん! 誤解してないかな!」
昨日公園にみんなで行って、照也たちに聞けばわかるからね、と叫ぶ三毛縞も笑顔であしらい、朝日奈らむはさも微笑ましげだと言いたげな表情で、子供たち三人を連れて行ってしまった。
「あら、起きてたの」
「――騒がしくて起きた、何事だ……」
三毛縞が朝日奈姉妹に二人の子供を預けてからいつも通り紅茶を運ぶ頃には、眠っていたはずの黒柳がまだ眠そうにしながらもベッドヘッドへ背を預けていた。が、やはりまだ少し眠たげで、いつもこの時間にはとっくに着替えて仕事に取り掛かるだとか、読書をするだとか活動していてもおかしくはない彼が、いまだぼんやりと腰掛けるだけで動き出そうとしないのは珍しいことで、特に三毛縞がこの家に来るようになってから目立つ珍事だった。寝ぼけたまま、差し出されるカップを受け取る黒柳はいつもよりわずかに幼く見えるものの、昨日の疲れがまだ残っていたせいか眉間のしわが消えることはなかった。
「いやあ…… さっき朝比奈のお嬢ちゃんに二人預けてきたんだけどよ……」
ちょっと誤解されちまったみたいで。黒柳が寝ぼけている隙に三毛縞は詳細を誤魔化す様にやんわりと返すと、これ以上は何も言うまい、と用意した自分のカップに口をつけた。今日のカップは、いつも三毛縞が選ばせてもらっているような繊細な細工の施されたものではない。厚みもあり大口のマグカップで用意したのはまだ寝ぼけた黒柳が落として割るんじゃないかという心配が少々と、起き抜けならなおさら、手に馴染み、握りしめられるものがいいだろうという三毛縞の選択によるものだ。目覚めてなお心地の良い眠りに誘おうとする暖かなベッドから出てしまえば、いくら室温を調整されているとはいえ肌寒く感じるものだ。三毛縞の狙い通り――黒柳は陶器に沁みる優しい温もりをぎゅっと握りしめる様に暖を取っている。恐らくだが朝の誤解――朝比奈は三毛縞を揶揄っただけだが――を黒柳に知られては、朝からこれでもかと機嫌を損ねるに違いない。三毛縞の狙い通り、黒柳もそれ以上この件について言及することもなく静かにひと口、爽やかなベルガモットの香りに誘われた。
アールグレイとは英語で〝グレイ伯爵〟を意味する通り、ひとの名がつけられた紅茶の一種である。とはいえダージリンやニルギリとは異なり正確には茶葉の品種名ではなく、先日のライチ・ティーと同じフレーバー・ティーの一種である。多くは中国茶のキーマン茶に、柑橘類の一種であるベルガモットの香りをつけたものであるが、最近では使用される茶葉も様々であり、ジャスミン・ティー同様多種多様な組み合わせで楽しむことができる。ジャスミン・ティーとの違いとしては、先述の通り茶葉に香りを吸わせるジャスミン・ティーに対し、アールグレイが香料や精油で着香されることだ。
アールグレイ最大の特徴であるベルガモットの爽やかな芳香は、冷やすと控えめになるという茶の香気成分に関与しないため、アイス・ティーとして楽しむことも多い。夏場であれば、三毛縞も冷やして飲むのもいいかと思ったが、ここ数日途端に冷え込むようになったため、ホット・ティーとして準備を進めた。しかし一方で、ベルガモットの芳香は温度が高ければ高くなるほど引き立つため、その加減が難しいのだと、メイド長は言う。実際、今回購入した茶葉もやや香りが強すぎたためどうしたものかと悩む三毛縞に、ミルク・ティーにしてはどうかと提案したのもメイド長だ。彼女の助力のおかげで、ミルクとも相性の良いベルガモットの香りをちょうどよく引き出すことに成功したのが、つい先ほどのことである。
三毛縞自身、あまり柑橘類が得意ではない。猫の性質であることは確かだが、半獣としても未だ克服できずにいる。その三毛縞でも、ミルクの柔らかい口当たりが、柑橘特有の苦みを抑えて飲みやすい。
「――アールグレイか……」
「お、わかんの? 匂いキツくて牛乳入れちまったけど」
「いや―― 悪くない」
ひと口、またひと口と飲み進める黒柳はだんだんと覚醒したようで、先ほどよりずっとはっきりとした目つきをしていた。黄色の瞳は朝寝を見守った太陽に照らされいつもよりなお明るく光っているし、いつもよりぐっすりと眠ったせいか僅かに血色も良くなっているように見える。三毛縞なら朝起きれば自由奔放に散らかる髪に悪戦苦闘する羽目になるのだが、そんな苦労などまるで知らないまっすぐな髪は、相変わらずしなやかに、艶やかに、項から肩へと流れていて。頬へ一筋垂れる毛束を、三毛縞は弄ぶようにそっと撫で退けた。ほんの少しの意外性と、習慣への第一歩という期待と興奮。かつては黒柳より早く起きることなど考えられなかったのに、こうして四六時中一緒にいることで見えてくる、黒柳の知らない一面を覗くことは、彼の固く閉ざされた扉を開かれ、ひとつ内側へと招かれているような心地さえする。隠されたものを暴くのは心地が良くて、そのサプライズを楽しむことを、見抜かれてしまうのはまだ気恥ずかしささえある。それに朝の誤解のこともあった。黒柳は覚えていないかもしれないが――いや、忘れるはずはないだろうが、それでも〝覚えておくに足りない些事〟か、または〝一刻も早く忘れてしまいたいバカな過ち〟とでも思っているかもしれない。確かにそうだ、学生時代によくあるような若気の至り。それでも今は、そんな記憶が脳裏にちらつくことさえなんとなく邪まなことを企んでいるようで。三毛縞はもだもだと絡まり合う思考をなんとか振り払おうと、優しい香りに鼻を寄せた。
「――っふ」
黒柳が突然、小さく笑った。ほほ笑むというよりは限りなく〝鼻で笑った〟ような感じではあったが、どこか気の抜けたような態度に、三毛縞は何事だと彼を見た。
「いや、レモングラスは丸坊主にするまで食い散らかす癖に、柑橘系はまだダメなのか、と思ってな」
思い出してまた笑う黒柳に、三毛縞は彼の寝乱してなお皺の一つもない敷かれた時と変わらぬシーツに腰かけた。
「懐かしいこと覚えてんねえ…… や、これは結構悪くねえよ。牛乳も入れてあるし」
熱いのはまだ無理だけど、となかなか飲み進まないマグを掲げれば、黒柳は伸ばした背筋をゆっくりとクッションへ預けゆったりとくつろぐと、またひと口流し込んだ。
「――急いで飲むものじゃないだろう、構わん」
そう言って三毛縞を映す黄色の瞳はどこかいつもより柔く見えて。一週間の最後の日――寒々しい冬の晴日さえもが愛おしく感じるような、穏やかな朝だった。