一週間の始まりは大抵どこも騒がしく、慌ただしいものである。黒柳には選りすぐられた新たな依頼人ができ、半事務所と化した黒柳邸に新たな資料や書類や証拠品がどっさりと届けられた。その倍以上は彼の黒柳法律事務所へと送られているというのだから、裁判にとって準備期間がいかに重要であるかが知れる。三毛縞は朝から黒柳とともに二人を幼稚園まで送り届け、その足でともに事務所へと向かった。書面のコピーなどが大量に入った箱をいくつか車に積み込むと、それをまた黒柳と一緒に自宅まで送り、せっせと重い紙束の入った箱を家の奥にある書斎まで運び届けた。これでもペーパーレス化でかなり少なくなった方だ、と黒柳は言う。が、彼自身少々アナログなところがあるせいか、紙がなくなるまでにはまだ少し時間がかかりそうだ。
そうして慌ただしい朝も終え、三毛縞は持て余す余暇の間、普段の礼とばかりにメイド長の雑事を手伝っていた。黒柳邸の年末に向けた大掃除は毎年それはもう盛大に行う。無論、日々積み重ねてきた丁寧な暮らしと行き届いた手入れのおかげで黒柳邸は毎度美しく保たれていることは確かだが、古くなったものを新しいものに入れ替え、普段以上に手入れしていくことで、新しい年をより良い心持で迎えられるというものだ。そのため黒柳邸の大掃除は大変に大掛かりで、一日や二日で終わるものではない。朝、書類を黒柳の書斎へ運び込み、彼を見送った三毛縞はそれからひたすら、この家にある食器の類をすべて棚から出し、並べ、欠けやクスミを探し、選別し、そうして残ったものを一つ一つ洗っては磨く、という大仕事に参加した。この年黒柳の家に来た三毛縞にとっては普段、何気なく出されるものだった。三毛縞にとって〝家〟の食器が美しいことは当たり前で、三毛縞にとって食器の美しさは些事だった。そも、食器の良しあしや美しさ、手入れの施しなど気にしたことさえなかった。――それが、こうして一つ一つ、ひとの手により丁寧に手入れされていくことの美しさよ。
「クリスマス前には皆休暇をいただきますの。年始にはご挨拶に伺う程度で、いつも皆に暇をくださいますから」
「へえ、じゃあみんな各々クリスマスを過ごすわけだ」
「ええ。ですからこそ、今この仕事は片付けておきませんと」
黒柳邸に使える人間はけして多くはない。少数精鋭のスペシャリストがいくらかいるだけで、故にこうして家のあらゆる場所を片付けるとなると毎年大忙しになるのだという。今年は男手である三毛縞が参加したことにより、おおがかりな掃除も行えるからやりがいがある、とメイドの一人が朗々と笑って言った。なぜそうまでして黒柳に使えるのだろうか。主人とするには厳格すぎて、息詰まりそうなのに。そう問うた三毛縞に彼女らはみな異口同音に〝わかってらっしゃるくせに〟と楽し気に笑った。確かにそうだ、と返す三毛縞は、ほんの少し、食器を磨くことの意味を見出した気がした。
「――寝たか?」
「ああ、照也は一瞬でな。業はかなり粘ったけど」
それはきっと本のチョイスが悪かったな、と黒柳は眼鏡をはずすと軽く眉間を揉みこんだ。三毛縞が絵本の題名どころか、読み聞かせをしたことさえ言っていないのに、そうして見抜いてしまう黒柳の、放任主義に見えて二人をよく知っているところに三毛縞はいつだって関心していた。普段、黒柳はあまり家に仕事を持ち込まない。家にというのはつまり就業時間を過ぎても、という意味で、ここ最近増えたリモートワークの日であっても、就業時間後には自分の時間を有意義に過ごすスタイルを崩すことは少ない。今日はそんな黒柳の中でも珍しく、夕飯の後も書斎にこもっている。大抵依頼を受けた頭は忙しいのだという。それでも夕食は四人そろっての時間であったし、その間黒柳が仕事を気にしたことは一度もなかった。かつて在学中、がむしゃらに勉学へ打ち込んでいた姿を見てきた三毛縞にしてみれば驚くほどの進歩である。漸く時間の使い方を学んだというか、生きやすくなったように見える。相変わらず癖付いたような眉間のしわが消えることはなかったが、表情だってかなり穏やかになったようにも見えた。
今日の茶葉はセイロンだったが、今三毛縞が運んできたポットからは瑞々しい果実の甘味が柔く香り立っている。果実の中でもことさら、甘やかな香りを放つそれは冬の桃で作ったコンポートのせいだ。三毛縞がいつも贔屓にしている商店街の青果店が、売り物にならない傷のついたそれで個人的に作ったというジャムをいくらか分けてもらったところ、メイド長にせっかくなら果実の紅茶にしてはどうか、と提案があったのがきっかけだった。冬に収穫する桃はわずかに小ぶりながら、ぎっしりと身が締り歯ごたえのある果肉が特徴である。収穫量が少ないながら、甘みの少ない等級の低いものや傷のあるものは商品にならず、味の質に関係なく廃棄するのも惜しいから、と砂糖とともに甘く煮詰められ、三毛縞の手に渡った。今、その桃は黒柳のもとに紅茶の香りをより瑞々しく、甘やかに彩っている。
「果肉が入ってるな」
「そ。冬に収穫する桃なんだと。結構イケんだろ?」
「――悪くないな」
ジャムになってるから、朝パンに塗ってもうまいぜ、と三毛縞は甘く煮詰めた果肉を食む。締まった果実は煮込まれてなお崩れることもなく確かな口当たりを残している。果実の瑞々しさを溶かした紅茶はどこか無邪気で。そんな紅茶を彩るカップは温かみのあるアイボリーの陶器が優しい。レリーフの様に浮き上がる果実や花の彫刻は見た目に美しく、華やかで〝祝祭〟を冠する名に相応しい。実用性も兼ね備えた強度と、テーブルウェアとしての華やかさを持った現代的なカップは、黒柳の家の様式にあっているような気もする。
「あ、そうだ」
飲み終わったカップを片付けている三毛縞が、思い出したようにポケットを探る。そうしてコロンと二つ、小さな包み紙が黒柳の書類の側に並べられた。少し袋の端がよれてしまってはいるが、手に取ったそれはわずかな暖かさにも溶け出すことなく形を保っていたようだった。
「それ、照也と業から。今日のカレンダーから出てきたやつ。仕事頑張ってるだろうから、って持ってきたんだよ」
健気だねえ、と笑う三毛縞はどこか愛おしそうで。並んだ小さな飴玉の袋は、二人が一日ひとつの楽しみを黒柳のためにと譲ったものだった。黄色い小さな飴玉を見て、二人の小さな子供が誰を思い出したかなんて三毛縞にはすぐに分かった。子供にとって目の前に出されたおやつが、どれほどの価値を持つかも三毛縞はわかっているつもりだ。それを差し出す子供の気持ちも。黒柳もそのことを、ちゃんと理解していることも。
「――おい」
黒柳は飴玉を二つ残していく三毛縞を呼び止めた。
「一つ貰っていけ」
一つはお前に渡されたものだろう。そう言って差し出された袋の一つ。三毛縞は受け取ると黄色の粒を取り出し口にほおり入れた。砂糖の甘さがどこか懐かしくて。同じように飴玉を頬張った黒柳の物珍しさを揶揄うふりをして、照れくささを誤魔化した。