「デカフェ?」
「ええ。ですからこれは就寝前でもいいかもしれませんね」
メイド長はそう言ってパッケージを眺めるのにかけた眼鏡をはずしながらニコリとほほ笑んだ。ラベンダー・ティーと書かれた包装からは、香油とは違うハーブそのものの香りがわずかに漏れ出し、その香り高さを物語っていた。
ラベンダー。その名の語源は〝lavo(洗う)〟から来ているともいわれ、古代ギリシャではすでに沐浴や洗濯時に殺菌と香りづけとして使用されていたのだという。またその香りは気分をリラックスさせる効果があり、現代ではテラピーや美容の分野にも使用される花である。
「そういえばこの前のミルクティは気に入っていただけたかしら」
「ああ、あのレモンの香りのヤツだっけ。アレは結構ウマかったよ」
でしたら、ラベンダー・ティーもミルクを加えるのがおすすめですのよ、と彼女は言う。ちょうどデカフェだから眠る前に飲めばよりいいだろう、と。その言葉に従い現在は午後十時半。子供たちを寝かしつけ、黒柳も夜長を少し楽しんでから眠ろうかと腰を落ち着けたころ合いに、三毛縞は黒柳の自室を訪れ、部屋の主は彼を招き入れた。
「デカフェ、って知ってるか?」
「――知っているが、これがそうなのか?」
三毛縞は少し自慢げに黒柳にそう問うたが、黒柳の返す反応は予想したものではなかった。実際ここ最近ではデカフェやノンカフェイン、カフェインレスの商品も増え、健康のための選択肢が増えてきていることも確かで、黒柳がそれを知らないはずがなかった。旧体の伝統と、新体の革新を黒柳は同じように大切にする。古めかしい男に見えて、存外に新しいもの好きなとことがあった。少し拗ねたように唇を尖らせた三毛縞に、漸く、自分が問われた意味を理解した黒柳だが、どうにも面白くて黙っておいた。それに、三毛縞とともにやってきた穏やかな香りが黒柳の心を落ち着かせてくれる。
雨が降っていた。外の空気はわずかばか雪のにおいを纏いながらつんと刺すように冷え切っており、もうじき雨が雪に変わっていくのだと知らせている。風はなく、ただしとしと、サアサアと雨粒の落ちる音が窓の外から伝わってくるのみの、静かな夜だった。暖かな部屋の中で、ほのかに結露付く窓の外を眺めながら三毛縞は今日あったことを思い出していた。子供二人は毎朝の日課であるカレンダーの箱を開けて、オレンジとチョコレートのクッキーに舌鼓を打って、ご機嫌で登園していったこと。獣ヶ丘の幼等部、照也たちの担任を務める保育士から〝照也君と業くんはいつも朝のアドベントカレンダーのこと、楽しそうに教えてくれるんですよ〟と言ってもらったこと。朝日奈の姉・らむからは紅茶の事で話が合い、紅茶に合うというクッキーを売っているカフェを聞いたこと。今日のおやつで出したクッキーはその店のものだったということ。他愛ないようなことばかりだった。取り立てて特別なことがあったわけでもない。ここ最近当たり前になった、不変で代り映えのない出来事ばかりだ。それでも、三毛縞は黒柳にそのことを話した。先日に引き続き、今日は物置の大掛かりな掃除をしたこと。その中で随分古い黒電話を見つけて、この家は電話まで黒いのかと驚いたこと。
「昔、あの電話が好きじゃなかった」
黒柳はぽつり、とそう話した。あの電話は音が大きく、屋敷の端から端まで鳴り響くベルが幼いながらにどこか恐ろしかったこと。あの電話が鳴ると父親は仕事へ出かけていくか、仕事に籠ってしまうかのどちらかで、それも面白くなかったこと。今は携帯電話があるし固定電話ももう使わないため、倉庫にしまってあったこと。それでも、あの電話は確かに黒柳に引き継がれた〝仕事〟の象徴のようで、捨てられなかったこと。カップに施された波打つレリーフの凹凸を指先で弄びながら、黒柳は少し、懐かしむような表情で語る。暖かな陶器に手を添わせ、そっとカップに鼻先を寄せた。乾燥ラベンダーの香りはエッセンシャルオイルのようなはっきりとした線のある香りではなく、優しく、黒柳の凍った心を溶かしていく。最後のひと口を飲み干す黒柳はどこか名残惜しそうに見えた。三毛縞がそう見たいと望んだからかもしれない。それでも確かに、三毛縞の目には黒柳が少し、寂しそうに見えた。
「明日は何が出てくるんだろうな」
さあな、とほんの少し安堵したように笑った黒柳に差し出されたカップを受け取りながら、今は解かれた黒髪にそっと指を通してみる。黒柳は抵抗することはなかったものの、僅かに驚いた表情で三毛縞を見上げた。指の間をすり抜けていく髪は見た目にたがわず艶やかで、柔らかい。掌に感じる地肌の体温はいつも通り三毛縞よりわずかに低くて、それでいて三毛縞にはない、品のいい香りがする。一度、二度、程、掌に収まってしまいそうな頭の形をなぞっている間、やはり黒柳は黙ってされるがままだった。
「業が言ってる、よく眠れるんだと。だから、いい夢見ろよ」
お休み、とトレイを抱えた三毛縞はそう残して黒柳の部屋を去る。そうすることしかできなかった。黒柳は明日もいつも通りの仕事があり、それに今日はよく眠ってほしいと思ったから、彼の眠りを寂しさで妨げるようなことはしたくなかった。それに、あんな目をした黒柳の側にいて、自分が今の生活を今まで通りのままでいられるとは思えなかったからだ。黒柳のためという口実と、臆病になった自分のエゴという事実に、せめてもの去り際黒柳の抱える得体の知らない孤独だけは、どうにか取り除いてやりたいと思った。だから、業が時折欲しがるように、黒柳に触れた。逃げるように部屋を出た三毛縞が――黒柳にとって、それが最適解だったことなど知る由もない。
幼い子供は自分が忘れてしまったとでも思ったのだろうか。それともここ最近は進んで世話を焼く三毛縞がいるから、機会がないのか遠慮でもしているのか。誰に似たのか随分と人の顔色を読む子供だった。それでも黒柳は忘れていない。忘れるわけがない。言い訳はいつだって〝怖い夢を見た〟だった。それがすべてその通りだったかは黒柳にはわからない。ただ時折、夜の薄暗い廊下を辿ってやってくる子供はそう言って黒柳の寝室にやってきた。夏の熱帯夜も、冬の雪降る夜でさえ。そして黒柳は黙って布団を持ち上げる。潜り込んでくる子供の高い体温を左側に感じながら、規則正しい小さな寝息を聞き届けると、見覚えのある黒い髪にそっと指を通すのだ。――眠っているのだとばかり思っていた、控えめに黒柳の寝着を掴んでいる子供は。今でも覚えているのだという。よく眠れるのだという。確かに、その通りなのかもしれないな、と。まだわずかに熱の残る髪に触れて、黒柳は静かに目を閉じた。