「ねむちゃんおはよう! どうぶつえんいこ!」
「お、はよう………… なによ、きゅうに」
駆け出す照也の後ろを慌てて業が走ってついていく。正門前で捕まった少女はこの時期からある程度の年齢まで、同年代の男子よりもずっと大人びて見えるものだ。こと、照也は良くも悪くも〝年相応〟の無邪気さがある。彼女の姉・らむはそんな元気全開の照也をにこにこと微笑みながら見つめている。こちらに手を振りながら登園していく三人の子供を見送った後、三毛縞は〝それで……〟と隣の女性に振り返った。
「今度の土曜か日曜に、ちょいと足伸ばして愛知の動物園に行こうかって話になってね」
良ければお二人もどうだろう。急な誘いになってしまって、と気まずそうにする三毛縞をらむははっとしたように見上げると、思い出したように〝トナカイね〟と笑った。
「昨日ねむちゃんが、カルマくんに教えてもらったって言ってましたから」
「ハハ、そうそう。もう見にいくの一点張りでね…… いつも連れ出してもらってるお礼もしたいし。まあ、って言ってもこっちは野郎ばっかりになっちまうけどそれでもよければ是非どうかな」
三毛縞の誘いに、らむはふたつ返事で頷いた。ねむも喜ぶ、と嬉しそうに語る彼女はいつだって三毛縞が感心するほど妹想いで立派な保護者だ。詳細はまた追って、と彼女と別れてから、参加者が増えたと黒柳に連絡すれば、暫くして了解した、といういつも通りのかたっ苦しい返事が返ってきた。
大人が三人、子供が三人。普段より賑やかになるだろう車内は、普段黒柳が使っている車では少し狭いだろう。磨き上げられた漆黒の流線形はスポーティーで、そのボディや機能性、螺子の一本までもが芸術品である。三毛縞は車庫に眠る獅子をひと撫でしながらその前を通り過ぎる。隣で静かに眠るその巨体を、目覚めさせるようにそっと触れる。黒柳家の中にある格式高く繊細なものの中で唯一、野趣のあるもののようで三毛縞はこの車が好きだった。とはいっても普段黒柳が乗り回しているクーペのような繊細さよりも、圧倒的な存在感と黒光りする威圧感を持ったバンは市街地だろうが高速道路だろうが周囲にとてつもない緊張感を持たせることに間違いはないのだが。
「洗ってやってもいいけど…… 寒いしなぁ……」
洗車連れてくかぁ…… 諦めたような言い方をするくせに、三毛縞はどこか楽しそうで。まるで岩のような車が、子供のはしゃぐ声で満たされる。想像するだけで、この仏頂面もどこか嬉しそうに見えた。
「っつーことで、当日は朝日奈のお嬢さん方が参加することになりました、と」
「了解した。運転は?」
「俺かね、バンの方も洗車行ってきたし」
ご苦労、と差し出された紅茶を受け取る黒柳は、どこか急いたように香りを楽しむ。それはどこかこの時間を待ちきれないようにさえ見えて、三毛縞の心を弄ぶように擽った。
「これは?」
「これは今日貰ったリンゴ」
「悪くない」
あいつら半分ずつ剥いてやったら一瞬で食っちまうから焦ったぜ。思い出すように笑う三毛縞の笑顔で、黒柳にもその景色が見えるようだった。今、そのリンゴは薄くスライスされアッサムティーの中で揺れている。これは三毛縞が夕飯のあとすぐに仕込んだものだ。
ところで、アレンジ・ティーにはあっさりと癖のない紅茶――つまりニルギリやディンブラなどを掛け合わせるとよい、というのは誤りである。合わせる花や果物に合わせ必要な要素を持った茶葉を合わせることが必要である。幸いにも紅茶に詳しいメイド長のおかげで、三毛縞は今日のリンゴをコクがあり、しかし渋みの少ないこのアッサムと掛け合わせる最適解にたどり着けたというわけである。リンゴと掛け合わせるのにコクのない紅茶を選んでしまうと、紅茶ではなくリンゴの風味がついた湯のような味気のないものになってしまう。紅茶が負けても、掛け合わせるフレーバーが負けてもいけない、知識とセンスが問われるのがアレンジ・ティーの難しいところである。そんなメイド長の教えにしたがい、リンゴの風味がこっくりと紅茶に溶け出すよう半時間近く漬け込んだのが今、黒柳のもとに届けられたそれである。
「ッハハ、これは?」
意味ありげな表情で渡されたティースプーンで、カップをひとかきした黒柳がたまらず肩を震わせた。すくいあげたスプーンの上には、星の形にくりぬかれたリンゴが乗っている。
「それ、アイツらが型抜きしたやつ」
「可愛らしいな」
「ま、その抜いた残りはぜーんぶアイツらが食っちまったけど」
おそらく、その残りを狙ってきたのだろうが、その愛おしい光景は想像するだけで黒柳の脳裏に無邪気に映る。瑞々しいリンゴの香りと、深みのあるアッサムが暖かく香る夜はまだ長い。