ほら、と差し出されたマグカップは雑に入れられたティーバッグが僅かに色を滲ませながらも、まだほとんど湯のままの状態に近かった。ただ全身の骨まで刺すような寒さの中で、三毛縞が寄越したマグカップの湯気をもくもくとたてるそれは、手のひらの凍ってしまった細胞を溶かし尽くすような確かな温もりを持っている。歯の根が合わないなんて生まれて初めての経験だった。小さな小さな――とはいえ黒柳が見た中では冗談かと疑うほど大きなマグカップだけが、今黒柳を生かす温もりのようにさえ感じられて、ただ必死で、その最低最悪の紅茶にしがみついていた。
紅茶は嫌いじゃない。それでも黒柳が好むものは女子供が好んで飲むような甘ったるく、着せられたような華やかさのあるフレーバー・ティーではない。厳選された産地、選び抜かれた茶葉、そしてその素材を人の手により加工する技術。その芸術と叡智を最も完璧な状態で抽出する一滴にこだわる美しさが好きだった。今、目の前に浮かぶ茶葉は甘ったるく強すぎる人工的な香りが茶葉本来の風味をぶち壊し、無駄に加えられたスパイス――おそらく、シナモンだろうその香りが全てを誤魔化すためだけに使われている。黒柳は再び、今度はせっせと毛布を運んできた三毛縞を一度睨むと、もうじゅうぶん色のでたティーバッグを引き上げて見せながら、その置き場を口外に要求した。
「ああ…… そうだな、適当にゴミ箱にでも捨てといてくれや」
そう言って差し出されたビニル袋に、黒柳はもう溜息さえ吐くことも出来ず、ただ黙ってそのぐず濡れの茶葉を捨てるしかなかった。
黒柳がこの男の部屋に来たのは、これが初めてというわけではない。それでもけして数が多いとは言えないだろう。無論、彼に言わせれば〝一度たりとも来たくはなかった〟ような汚く、狭く、落ち着かない最悪の部屋だ。それがどうして、彼は再びこの部屋に来ている。いつも通される寝乱されたままのベッド、であろうマットレスに座り、かび臭いエアコンが必死で吐き出す温風になんとか身体を温めようと身を震わせて。借りた毛布なんて毛布とも言えぬ保温性能で、しかしないよりはマシ、と渋々借りているだけだ。何よりも腹立たしいことは、黒柳自身これほどまでこの部屋も、目の前で発泡酒の缶を開けるストリッパーも、心底嫌いなはずなのに、この部屋に来なければいけない理由が思い浮かばないことだ。断る理由ならいくらでもあった。相変わらず黒柳を店に誘う恩師の誘いを断れないことはまだしも、大雪で電車もタクシーもまるで捕まらなかった事が帰れない理由になるはずがない。黒柳は電話を一本かけるだけで、日本中のどこにいても、いやたとえ国外にいたとしても、即座に彼のために帰路を作る者がいる。だから黒柳はあの瞬間に〝帰れない〟はずがなかった。恩師――今はもう恩師とも呼ぶには烏滸がましいような享楽主義の男が、店の一人と近場のラブホテルへ行くのに呆れながら、電話を一本かけ、その間ほんの少し店に置いてもらうだけでよかった。始発まで泊まってけ、という言葉に、頷く必要などなかった。この部屋に来ないための言い訳や理由や理屈は溢れるほどに出てくるはずなのに、この部屋に来なければいけない理由はひとつも思い浮かばない。なのに今、嫌悪すべき男の部屋に黒柳はいる。悲しくも見慣れてしまった破廉恥極まりない格好ではなく、ラフなシャツとデニムのパンツだけでくつろぎ、上機嫌で酒を飲む男を眺めながら、男のにおいがする毛布をかぶって震えているのだ。
「最悪だ……」
甘ったるいアップルシナモンの紅茶擬きも、この部屋の乱雑に散らかる惨状も、理屈の通らぬ状況も、何もかもが。
「ハハ、まあそう言うなよ。いくら金持ちでも天気までは操れねえだろ」
店じゃ顔色ひとつ変えず客の望むまま酒を浴びる男が、今は僅かに頬を赤らめ、普段よりなお一層眠たげな目をとろんとさせている。酒のアテのつもりなのだろうか、店で余った豆を袋から直接つまみながら、三毛縞はうまいうまいと上機嫌で酒を煽る。
「まさに悪夢だ……」
においのきつい紅茶をひとくち飲み込んだ黒柳の悲壮をたっぷりと含んだ言葉に、三毛縞はにゃははとめいっぱい楽しそうに笑った。