「まいったな、こりゃ……」
三毛縞はくしゃりと一度後ろ髪を乱暴にかき混ぜながら、目の前に並ぶそれらを忘れる様に目を背けた。ここは街のはずれ。先日三毛縞たちが通り過ぎた華々しく活気があり、人の往来が絶えぬ街の中心とは、まるで別世界の様に寂れた場所だ。街まで戻ればそもそも三毛縞は今寂れた宿の共同台所で、宿屋の主人に貰った紅茶の缶を持て余してにらみつけることもなかった。頼りの女主人は三毛縞に顎で台所を指す以上のことをするつもりはないようで、とっとと彼女の部屋だか、買い物だかに行ってしまって頼れない。それでも三毛縞には、紅茶――と、いうよりも何か暖かく、味のついた飲み物を用意する必要があったのだ。
そも、三毛縞には紅茶の淹れ方がわからぬ。三毛縞は、淫奔を司る悪魔である。性を食らい、人間と遊んで暮らしてきた。けれども、妙な縁を築いてしまった自らの主人・黒柳の不調に対しては、悪魔一倍敏感であった。三毛縞がこの古宿で目を覚ましたのには理由があった。先日の悪魔狩りで三毛縞が不意の傷を負ったことが原因である。油断をしたわけではなかったが、黒柳に向かって放たれた攻撃を咄嗟にかばって負った傷だった。三毛縞自身、同族殺しであり、人間でもある黒柳を咄嗟にかばったことを驚いてはいたが、それ以上に黒柳は動揺していたように思う。三毛縞はその後歯向かう悪魔を粉みじんに殺し尽くしたことまでは記憶にあった。ただ、夢か現か、黒柳の与える力――彼の精力を朦朧としたまま貪った。実際三毛縞が目を覚ました時、黒柳は普段の浅い眠りが嘘のように深く眠り込んでおり、塞がった自らの傷にあの夢が夢ではなく現実だったのだと知ったのだ。シーツに隠れていたものの、黒柳の細く、血の気の引いた首筋に痛々しい傷がちらりと見えた。魔力を得れば死に至るような傷でさえ完治してしまう悪魔の三毛縞とは違う。黒柳の体は長い長い時間をかける必要があり、痕が残ることさえあった。それが人間の脆さであり、愛おしいとさえ思っていたはずなのに。朝、夢が現実になったのだと確信した瞬間、彼の体を見ることを三毛縞は怖いと思った。薄いシーツに隠された細い体が、自分が咄嗟に守りたいと庇った体に、自らが傷を施したのかと思うと無性に腹が立って仕方なかった。だから逃げるようにベッドを飛び出し少しでも、遺憾の意はあれど契約を交わした主人の庇護に感謝し、礼をできればという気持ちがふつと湧き始めればもう止められなかった。せめて、三毛縞が全快するほど貪ってしまった魔力を少しでも返すことができれば。そのために血を分け与えよう、とまでは考えたものの、今だ血を口にすることに抵抗がある黒柳のため、口直しに何か飲み物を、と主人に頼んだまではよかった。問題は、三毛縞が紅茶を淹れたことがなかったことだ。
しかし、あまり悠長に悩んでいる時間もない。できれば取りたくなかった手段だが――三毛縞は目を伏せると嫌々、渋々呼びかけた。
「凛、ちょっといいか」
一度目の呼びかけには何の応答もなかった。凛、おおい、寝てんのか、聞こえてんだろ、と散々呼びかけ、十五回目で漸く帰ってきた返事は彼女らしくない怒号。
〝うるっさい! 何!〟
キン、と脳に突き刺さる様な高い声に、三毛縞は思わず意味もなく耳を塞いだ。どうやら取り込み中らしく、最初の怒号以降彼女はひそひそと囁くように応えかけてくる。
「ちょいとピンチでな」
〝何、さっさと言って。くだらない理由だったら殺すわよ〟
紅茶ってどうやって淹れるんだ。そう問うた三毛縞に、彼女は脳をグラリと揺するほどの怒鳴り声でお湯に茶葉突っ込めばいいのよバカ猫! と吐き捨てた。三毛縞の声を遮断する間際、彼女は
〝今度こんなくだらない理由で私を呼び出したらアンタの背中にクソ野郎(神)の名前を彫ってやる〟
――地を這うような声で吐き捨てた。
「こんなにマズい紅茶を飲んだのは初めてだ…………」
「ハハ……」
黒柳はげっそりとそう漏らすと何とか飲み干したマグを三毛縞に押し付けた。結局、三毛縞が淹れた紅茶は粗悪な茶葉を限界まで煮だした渋みの強いものになってしまったが、それ以上に三毛縞の魔力を、彼の腕につけた傷から啜った血なまぐさい口の中をなんとかすっきりさせたい黒柳には必要なものだった。慣れない味がまだ喉の奥にこびり付いているような気がして顔は顰め面のままだったが、それでもほんの少し顔に血の気が戻ってきたことに三毛縞は密かに安堵する。
捨て置けばよかったのに、とはなんとなく言い出せなかった。三毛縞があの悪魔と相打ちのまま消滅すれば、黒柳との契約も破棄になるはずだ。黒柳が未だ、あの日の瞬間に交わされた契約を後悔していることは知っていた。三毛縞自身黒柳の魂を今更手放すにはあまりに惜しいが、神前悔いる黒柳を見るとどうにか契約を変更してやれないものかと思わないでもない。――今更どうにもできないことを後悔するのは三毛縞らしくないことだが。
「ちょっと顔、マシになったな」
「まだ目の前がグラグラする……」
恨みがましく睨み付けながら再びベッドへ戻る黒柳に手を伸ばしたのは無意識だった。そっと触れた髪の想像よりずっと柔らかい手触りに、そしてまたすぐに寝息を立て始めたことにも驚いた。相当疲弊させたのだろうという反省と、自分の側で無防備に眠る黒柳の、信頼――と、でも呼べばいいのだろうか。するりと指の間を抜けていく艶のある髪を、手放すことが妙に惜しくて。
「――調子狂うんだよなあ……」
ぽつり、と部屋に落ちた三毛縞の言葉も、今は応える相手もなく冬の空気に溶けて消えていった。