殺してくれ 彼が言うには、明日、月から新しい「彼」が来るらしい。
ワンルームの小さなアパート。小さな冷蔵庫と机、水色のカーテンのほか、目立つものはない。規則正しい四角の中で生きている俺に、突拍子もないことを言ってのけるアイツは、腹が減ったから飯を寄越せと言ったかのような、当たり前の顔をしてそこに立っていた。
「え……?」
「だから、それまでに死ななきゃなんねえ」
死ぬ、という言葉は、音に出してしまえばなんて軽い響きなのだろう。ずしりと心臓が重くなり、首の後ろがひんやりとする。鉛を飲み込むような喉の気持ち悪さにも、アイツは微動だにしなかった。
「死ぬ、って」
「だから、身体の交代なんだよ。魂は同じだから気にすんな」
気にしない方が無理な話だ。彼が何を言っているのか何もわからない。
「な、なあ、ひとつずつ説明してくれ。オマエが何を言ってるのかサッパリなんだ」
震える手で彼の肩をさわった。人間の体温だ。がっしりした筋肉と骨。俺と変わらない、人間の男性としての身体。
「だから」
嫌々、という態度を全身で表しながら、溜息を吐く。死ぬだなんて言葉、軽率に使ってほしくないのに。というか、命の重みくらい、コイツだって知っているはずなのに。
「明日、月から新しいオレ様が来る。それまでに今のオレ様が死んどかねーと、魂のヒキツギができねえんだよ」
「引き継ぎって……死ななきゃいけない、ってなんだよ、何もわかんねーよ……」
大体、月から来るということがわからない。コイツが月夜をしょっちゅう見上げていたことも、満月の度に出歩いていたことも、新月の度に体調を崩していたことも知っていたけれど。月と同じ色の目をした彼は、真剣な表情でこちらを見ている。
「自分で自分を殺しちゃなんねえって掟なんだ。だからチビがオレ様を殺せ」
「は…………」
俺の、血の気の引いた真っ青な指先を掴み、アイツは自分の首元へ運ぶ。
「明日になったらこのことは忘れてるし、オレ様も今までと同じように生きてくから、何も心配はねーよ」
「そうじゃない、そういうことじゃなくて」
殺さなきゃいけない理由が、わからない。いくら説明されても、何度同じことを言われてもきっとわからない。
「……チビにしかこんなこと頼めねーんだよ。オレ様がわざわざ頼んでやってんだから、光栄に思え」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
嫌だ。俺にはそんなことできない。人を殺すことなんてできない。ましてやアイツだなんて。納得できないまま、アイツは俺の手の上から力をこめる。
「やめてくれ」
「オレ様の頼みなのに聞けねーのかよ」
「やめてくれ……!」
振り払おうとしても、何故か全く力が入らない。アイツに吸い込まれていきそうな無力感に、背筋がぞっとした。俺は、何もできないのか。アイツに言えることは、他にないのか。
「……き、なんだ」
「あ? 聞こえねーよ」
「好きなんだ、オマエのことが」
涙は頬をぐっしょり濡らし、そのまま肩を、胸を、床を汚していった。自分の中に渦巻く本音を無理やり喉から押し出して、嗚咽の合間に吐いてしまいそうだった。
「好きだ。好きなんだ。だから殺せない。いかないでくれ。オマエに死なれたらどうしたらいいかわからない。オマエが好きだ、好きだ……」
頼りげない膝は笑い、そのままアイツに倒れこむ。アイツは動揺したのか、俺の手を掴むのをやめ、そっと背中に手を回す。
「……明日のオレ様に伝えとく」
「死なないでくれ……」
「もう一回、明日のオレ様に言え」
「いかないでくれ、置いていかないでくれ」
「チビ」
背中に回していた手が、ぐっと頬を持ち上げた。そのままアイツの吐息が近付いてきて、乱暴な唇が唇にあたる。
キスだ。はじめてのキス。アイツの熱が移ってきそうな、熱いものだった。
「どこにもいかねーよ。ここにいる」
「本当だな」
「ずっとチビの側にいるから」
「ずっとだぞ、いなくなるなよ」
「だから」
その先は、聞きたくなかった。俺は意識を失う直前まで抵抗した。アイツは笑っていた。アイツの首は白かった。俺の手よりもずっと、やわらかかった。