青幕綺譚/ガスウィル青幕綺譚
【ダンス】
瞼を閉じると、するすると分厚い舞台の幕が上がる音がする。ほっと胸をなでおろした。幕は自分では上げられないからだ。
耳を澄まし、そのまま顔を上げる。瞼を通して月明りが瞳に広がっていくのがわかる。明るくなっていく、といつも思う。しかし、舞台はいつも決まって夜だ。上がったブルーカーテンが空に幾重にもなって広がっている夜空は青みの強い黒色をしていて、瞬く月や星は水面にうつる光の落とし物のように揺れている。不思議な世界だ。まあ、夢なのだから、なんでもありといえばありなのだけれど。
「お待たせしました。さあ、お手を取って」
瞼を上げ、宙に手を差し出す。ふわっと世界が揺れたように感じて、仮面の奥で目を細めた。レディ・オーキッドは夜に馴染むやわらかな紫色の花弁を揺らして、差し出した指先を楽しそうに撫でた。
にこりと微笑み、小さく、夜に溶かすようにワンと唱える。ツー、まっすぐに前をみる。スリー、揺れ動く紫に白い輝きが透けた。ダンスが始まる。この世界には音が少ない。わずかに草木が風でこすれるばかりだ。
「うまく踊れていますか?」
少し気取った口調で尋ねてみる。
――貴公子の方、とってもおじょうず。
レディ・オーキッドが花弁のドレスを鮮やかにひるがえしながら答えた。貴公子なんて呼ばれてしまうと少し照れ臭いが、同時に身が引き締まるような心地にもなる。
ステップを踏み、世界を何回も何回もゆっくりと回す。心をかき乱すように、風が強く吹いていた。彼女はくすくすとドレスを揺らす。待ちきれず、足を止めた。
――もうおしまいなの、残念だわ。
彼女はいつも、笑ってからかう。
――でも、ずっと待っているものね。しかたないわ。今回も、王様にお譲りしてあげる。
手を離し、おじぎをした。彼女は花弁を満開に広げ、ふわっと夜の空気に溶けていく。彼女はとても優しい。
「おいおい、女性を邪険にして大丈夫なのか?」
どこからともなく声が聞こえ、ついっと顔を上げた。声はまるで風のようで、あらゆるところから話しかけてくるようだった。
呆れて、ため息を吐いた。
「どっちが。せっつくように風を吹かしていたのはお前だろ」
「ははっ、気づかれてたんだな」
「気づかないわけない。何度同じやり取りをしていると思っているんだよ」
答えたと同時に、腰を抱かれた。どこからともなく表れた男の手つきは、自身の気持ち次第で優雅といえば優雅で、乱暴といえば乱暴にもなる。そういうたぐいのものだ。
「さあ、今夜も踊ろうぜ」
彼は顔を近づけて言った。いつもどおり、答えなんて聞く気はないらしい、堂々とした声だった。細められた緑色の瞳が月の光を取り込んで強い輝きを放っていた。
「貴公子クンは日に日にうまくなるな」
「……女性パートがな。俺だって上手に踊れるわけじゃないのに」
「それは悪かったって。ダンスはさ、こう……苦手なんだ。触れないわけにはいかないだろう?」
「……ああ」
「ああって、俺の言いたいことが分かるのか?」
「……………………人に触られるのが苦手なんだろ?」
「いやいや、それなら今の状態はどうなんだよ」
「夢だから平気なんじゃないか?」
「夢だろうが現実だろうが、苦手って意識は持ってるんだし、それは関係ないと思うぜ。そうじゃなくて、お前とダンスできる理由はもっと単純なやつ」
「ふうん」
「ふうんって、もっと興味持ってくれたっていいだろ。俺は、お前ともっと仲良くしたいって思ってるのに」
それからしばらくダンスをした。変わらずブルーの夜が懇々と続いていた。ここでは木や花が風でなびくときはあっても、月や星は陰りもしなければ欠けることもない。そこに変わらずあるだけで、変化のあるものは自分と、彼に関するものだけだ。
「なあ」
彼が声をかけてきた。胸を寄せて、ゆっくりとステップを踏んでいるときだった。顔が近い。
「なんだよ」
そのとき強引に体を引き寄せられ押し倒された。体がふわっと宙に浮き、背中に手のひらの熱を感じた。真上に、今にも落ちてきそうな動かない丸い月がのぼっている。理由を説明するつもりもないのか黙ったまま時間だけが過ぎていき、手のひらの熱さに触発されて心臓だけが熱心に動いていた。
落ち着かない。このまま動かないつもりなのか。
そんな疑問がふと思い浮かんだ。諦めの心地で仮面の奥から彼の表情をうかがいみると、瞬きの間に、彼の整えているらしい前髪がはらっと揺れて、月明りを滑らせた。目を奪われるほど、きれいだと思った。光が透けると金色みたいにみえる。じゃあ、俺もお前みたいに美しくみえているといいな。彼はレディ・オーキッドのドレスよりもやわらかすぎる声をだした。聞こえなかったふりをした。
「なあ、今日は終わらせないでくれよ」
鼻先が当たった。
聞き飽きた言葉だった。
「ごめん、無理だ」
するすると夜が始まるときに似た音がした。
そして瞬きのあとにすぐ、夜は落ちてくる。ばさばさと鷹が翼を動かしているような音を立てながら、一気に夜が落ちてしまう。夜空はブルーのカーテンで、幕が下りると終わってしまう。
その幕を下ろせるのは、自分だけなのだ。
「また次の夜に――」
彼は言った。
まだ動き続けている唇が、知るはずのない自分の名前を呼んでいるようだった。
【秘密の足先】
夜を昼に変えることはできなくても、舞台を変えることはたやすい。たとえば、森を海に、街を廃墟に、舞踏会をゴンドラの上にする。そういったことだ。夢というのはいつだってみたくてみるものでもないし、続きを望んだところで続きがある保証はない。だから、これは夢であって夢ではない。もっと、物理的になにかの干渉を受けている世界なのだと考えている。たとえば、サブスタンスとか。
「おいおい、考えごとをするなんてひどいじゃないか。俺がこんなに話しかけてるっていうのに」
文句と一緒に、体がスッと抵抗することなく前に進んでいく。今日も、静かで明るい夜の日だった。ブルーカーテンは空を覆い幾重にもなって広がり、目を細めて眺める、ずっと遠くの海を思わせる黒青色をしている。
「……ちゃんと聞いてたよ」
「じゃあ、返事をしてくれ。けっこう寂しいだぜ?」
派手なファーのついたマントに王冠をつけ、いかにもないで立ちをしているいつもの彼は、今日に限っては爽やかな水辺の街に住む案内人に扮している。ゴンドラを漕いでいるのだ。今それに揺られているのだが、目的地はとくにないので、水辺に落ちた月の周りを踊るようにくるくると回っている。
「ダンスの練習、今日はしないんだな」
彼の言葉に、心底呆れた。
どこに足場があるというのだろう。
「水辺の街にした張本人がよく言うな」
「いやぁ、たまには変化球でいくのもいいかなと思ってさ。そうしたら素顔を見せてくれるかもーとか、考えたんだ」
「素顔って、俺の?」
「そう。俺はちゃーんといつも顔を見せてるっていうのに、お前ときたらいつまで経っても仮面を取ろうとしないだろ」
「だって、見せる必要……ないと思うし」
「俺はみたいけどな。こうやって、この夜で毎日を過ごしているわけだし」
「……取らないからな」
「いやいや! むりやりは取らねえって! こうみえてさ、気長に待つのも悪くないかなって思ってるんだ」
彼と会う夢をみるようになって、ひと月が経とうとしている。紫のドレスをまとうレディ・オーキッドとダンスの練習をしていると、どこからともなく彼が現れダンスに誘われるのだ。気取った口調で、ときに強引にダンスを始めてしまう。いつも流されてしまっているけど、ダンスに付き合っているし、夜をすぐに終わらせないのがこの時間を嫌っていないというなによりの証拠だと自分で分かっていた。
「なあ、足を水に浸してみないか?」
「水に?」
「そう。気持ちがいいからさ」
彼はゴンドラを止め、真正面に腰掛けた。慣れたように靴を脱ぎ、ゴンドラから足を差し出して水に落とす。円形の波紋がゆっくりと広がった。どうしてか、ゴンドラが揺れたような気がした。
「ほら、こうやってやればいい。靴は、脱げるか? それとも、脱がしてやろうか」
試すような口調で彼は言う。細められた視線には抗えない魅力みたいなものがあり、反抗するかのような態度をとるのも癪だったので、できる、と短く答えた。彼はそれで十分らしかった。
ブーツを脱ぎ、そうっと彼の真似をしてゴンドラから足を差し出し、水に浸した。最初は親指が水面に触れた。想像したよりもずっと冷たく、肌は思っていたよりも熱を持っていた。はぁ、と息を吐きながらゆっくりと足を落としていく。波紋が広がっていた。
しばらく足を浸してすごした。水はきんと冷たく、皮膚をさらさらとした質感でくるんでいた。ときおり、隣の彼が足を揺り動かして振動が伝わってきたが、それさえも心地の良いものだった。
「じゃあ、足を貸してくれ」
「は?」
「そのままじゃブーツははけないだろ? 乾くまでのあいだに、これを塗ってやる」
「なんだよ、それ」
「ペディキュアっていうらしいぜ」
「いや、そうじゃなくて」
けっきょく彼の言うとおりにしてしまった。水滴がいくつもの玉となって足を濡らしていた。耳を澄ますと葉擦れの音がしている。ぬるい、けれど心地よい風が肌をなでていく。これならすぐに肌もネイルも乾ききってしまうだろう。
塗られたネイルは鮮やかなグリーンだった。真剣なまなざしで人の爪の色を変えている姿をみつめながら、どこかのだれかの持っている色に似ているなと思っていた。ほら、貴公子クンは植物が好きだって言ってただろ、だからグリーンにしたんだ。新緑の色。彼の言葉は聞こえなかったふりをした。
ゴンドラがゆっくりと水面を泳ぐ。緑の鮮やかさと、ツンと鼻を刺激するようなにおいが風に流されていく。
先頭がトンと音を立てて、どこかの降り場にたどり着いたらしかった。夢なのだから、どこかは分からないが、夢なのだから問題はなかった。
「素顔は知らないけど」
顔を上げると、彼は笑っているようだった。ブルーカーテンの夜空の下で、彼の真っ白な衣装が艶やかに光っている。
「すくなくとも、そのブーツの下の爪の色は、俺しか知らないわけだ」
「……」
「なんてな」
ははっ、と彼は笑った。
爪先をみて、また彼をみる。照れ臭そうに髪を掻き上げた奥にみえた瞳が鮮やかな爪先の色をしていることを、きっと彼も知らないのだ。
【すてきなもの】
レディ・オーキッドがすてきなものをみせてほしいと言った。いきなりのことに驚きながらも、すてきなものってたとえば? と聞き返したのだ。彼女はやわらかな紫色を躍らせながら、あかいろと、あおいろと、そしてきいろね、と答え軽やかにステップを踏んでいる。甘い、花のかおりが立ち込めた。
変わりばえのない、静かな深い青の夜の日だ。いつかのゴンドラの上ではなく、いたって普通の足場のある、穏やかな広場。舞台を選んでいるのはおそらく彼なのだが、たいてい周りは様々な草木や花に囲まれ、静かに風がそよいでいる。いわく、好きだから、だそうだ。だれが、とは聞かなかったけれど。
「それでは、次に会うときにおみせしましょうか」
気取って答えると、ええ楽しみにしているわ、とレディ・オーキッドはドレスを揺らしてほほえんだ。
「ということがあったんだ」
「へえ。それで? すてきなものってなんなんだ? 俺もみてみたいな」
レディ・オーキッドとのダンスの途中、いつもどおり風を吹かせて存在を主張していた王様の彼は、彼女が姿を夜に溶かしたとたんにどこからともなく表れ、腰を抱いた。練習の続きに付き合うぜ、と軽口を叩き、風を取り巻き木々を揺らしてダンスをするための音楽を奏でる。それはひどくゆったりとした曲調で、まるでゆりかごに揺られているみたいな心地になるのだが、実際のところ彼が躍るのは男性パートなので練習相手としてはいまいちだった。
「……なにがいいか迷ったから、相談したんだけど」
相談し甲斐のない返答にため息をこぼす。じとっとした視線を向けてしまいそうだったので下を向き、地面に縫い付けられた黒々とした影を見つめた。夢の中の夜は真冬の空気みたいなすっきりとした青に、墨汁という日本の書道で使うインクを垂らして筆ですいすいと伸ばしたような色をしている。だからか、月はとても黄色が美しく映えるし、影はその光をもって地面でいつも楽しそうにダンスをしている。が、今はどうだろう。地面にぴたっと影が止まっている。ということは、二人も止まっているということだ。
そろっと顔を上げた。どうやら彼は驚いているらしかった。
「お、おお!? そうだったのか」
「な、なんだよ、その反応」
「いやいや、まさか相談されるとは思わなかったから……ちょっと感激した。わりぃな。今からちゃんと考えるな」
その反応に、戸惑ったのは自分のほうだった。すぐさま言葉を足す。いつもながら、彼と話すときはどうしてか言葉が足りなくなってしまう。
「……こっちこそ、最初にちゃんと相談したいって言えばよかったし。ごめん」
「はは、なんでお前が謝るんだよ」
風が吹き、木々が揺れた。彼は緑色の瞳を細めていた。
しばし見つめ合いながら、密やかな気配が漂っている、と思う。目に見えるものでも、匂いも、音も、感触もない、ほんのわずかな気配。それは目の前の彼の視線がそう教えてくれているような気もしたし、逆に自分がそういったたぐいのものを出しているのかもしれない。けれど、ちゃんと気づけるもので、それはきっと特別な時間のことを言うのだと、なんとなく考えた。
「赤といえばリンゴか」
彼の言葉に、ふっと連想したものがあった。
「じゃあ、黄色はバナナとか」
「んー、それだと青が思いつかなくないか?」
「青い食べ物といえば、アイスとか?」
「それだとフルーツって枠から外れるだろ」
「べつにフルーツ括りってわけでもないんだけど」
思いつくままに会話をつないでいく。赤、青、黄色のすてきなもの。一つ一つであれば思いつくけれど、三つ同時にというと意外とむずかしく頭を悩ませた。
ダンスの再開を告げるように、重なった手のひらに熱がともった。わずかに外に手を引かれ、足が自然と動き出す。月が、ちょうど真上にあるようだった。のびのびとした影が視界の端で踊っている。
「……すてきなもの、か」
彼ははっきりとした声で言った。その声は「すてきなもの」を知っている声に違いなかった。
「なにか思いついたのか?」
期待に満ちたまなざしで見つめる。おお、と彼の唇がわずかに開いた。また、驚いているようだった。
「思いついたというか、これは、俺のすてきなものっていうかさ」
「俺の?」
「おう、俺がそう思ったってだけのもの。でもまあ、貴公子クンもすてきと思うかもしれないな」
「なんだよそれ」
尋ねると、彼は顔を近づけてきた。緑色の瞳に映っている自分の顔が見えてしまいそうなほどだった。熱い空気が立ち込める。近づきすぎて、お互いの胸が重なりあっていた。さらに熱っぽい空気が耳をくすぐり、口元が緩む。
――――。
彼の放った言葉は、とてつもなくすてきなものだと思えた。
わずかに主張の強い風に吹かれながら、レディ・オーキッドと一緒に夢の中を歩いていた。今夜の世界はおあつらえ向きのように花壇に囲まれた広々とした広場で、月は花壇の真上にのぼってスポットライトのように丸く光を落としていた。その前で立ち止まり、こちらへどうぞ、と手を差し出す。手のひらを彼女の手が触れた。
花壇には木が植わっていた。といっても、大木になるようなものではなく、人によっては茎や蔓といってしまうほどの大きさのものだ。そこにはいくつもの花のつぼみがついていて、玉のような雫が葉や額に溜まり月明りを弾いてきらきらと輝いていた。
「ここをよく見ていてくださいね」
言ったあと、一つ、つぼみの頭をやわく撫でる。何度も何度も繰り返していると、わずかに指先が熱を帯びてくる。もう少しだった。小さいころ、早くきれいな姿をみたくて何度も固く閉じたつぼみを撫でていたことを思い出しながら、耳を澄まし、力を込めた。気持ちが逸り始める。
ひときわ優しく、風が吹いた。そして、ささやかにつぼみが開く音を聞いた。それはレディ・オーキッドとダンスをしているときを思い起こさせた。ふわふわと風に乗って舞うドレスが立てる音にとても似ている。
――まあ、まっかなバラ!
彼女がドレスを揺らした。ふっと息を吐いて、次のつぼみに指先を伸ばす。
バラを次々と咲かせた。赤と、青と、そして黄色のバラ。それはだれかにとってのすてきなもので、もしかしたら彼女にとってもすてきになりえるものだった。
「気に入ってくださいましたか?」
気取って尋ねた。彼女がスカートを揺らす。花が満開に咲き誇るように。
――ええ、とっても! 王様は、とてもすてきな方なのね。
「あれ。ご存じでしたか?」
――もちろん。私はいつも、あなたと一緒だもの。いつまでも、ずっと一緒におどっているの。
レディ・オーキッドはふわりとほほえんで、つぼみに触れた右手を撫でた。ああ、と気づく。
ふと、夢では持つことのない持ちなれたハンマーの感触がよみがえった気がした。
▽▽▽
目覚ましが鳴った。まだ眠気を存分にふくんだ腕を伸ばし、まずは目覚ましを止める。時間をかけてまぶたを上げていると、すこしずつ頭が冴えてくるのは部屋のいたるところにおいた植物たちのおかげかもしれない。緑の生き生きとした匂いはとても清潔で、体の中をきれいに入れ替えてくれるみたいだ。
まだだるい体を何とか起こし、伸びをする。朝の六時。パトロールまではまだ時間があるので、日課にしている植物のお世話をすることにした。同室で幼なじみのアキラはまだ夢の中で起きる気配はない。静かにベッドを降り、着替えを済ませ、まずは屋上の植え込みに向かうことにした。戻ってきても起きてなかったら、容赦なく起こすからな、と心の中で言い置いて部屋をでた。
夢が不思議なこと以外、いたって普通の毎日だ。
毎日同じ夢を見るので、一応ブラッドやヴィクターに相談をしているが、原因解明には至っていない。とはいえ、夢を見るためのきっかけをウィルが持っているわけではないのでどうしようもないのだけれど。
「お、ウィルじゃないか。おつかれ」
パトロールが終わり、エリオスタワーに帰るところだった。場所はレッドサウスの大通り、カフェや雑貨屋が立ち並ぶ道の途中。後ろから追いかけるように声を掛けられ、おもわず立ち止まってしまった。
しまったな、と思ったところで遅かった。振り返り、声の主を確認する。そこには思ったとおりの人物がめずらしく手に花束を抱えて立っていた。
「……おつかれ」
「おう。なあ、帰るなら一緒に帰ろうぜ」
「……」
「な、帰ろうぜ」
「べつに、構わない」
「よっし」
歩きなれたレッドサウスのありふれた喧騒にまきこまれながら、二人でもくもくと歩いていた。ガストはなにかと話題を振っていたが、うまい返しができずによく会話は打ち切られていた。多少はガストも気にしているようだったが、どうしてもまだ、うまくやり取りすることがむずかしい。
「それ、どうしたんだ?」
会話を打ち切ってばかりなのが申し訳なくなり、なんとなしに話題を振った。彼の手にはウィルの実家の名前が印刷された包み紙のバラの花束があった。購入したばかりなのか、花はひんやりとした甘い匂いを放っている。
「すてきなもの」
ガストが言った。
「え?」
「花束をもらったとき、うれしかったからさ。買ってみたんだ。赤と、青と黄色。それに緑。いいだろ?」
そのとき、ふと夢の中での会話を思い出した。
――俺の思うすてきなものっていうのはさ、花束。
――花束? って、あの花束か?
――あのってなんだよ……花束っていったら一つしかないだろ。
――それはそうだけど、なんか意外で。
――おいおい、ひどいこというなよ……俺にとって、すごく良い思い出なんだ。だから教えたんだぜ。
毎日、不思議な夢を見ている。
そこに、いつもガストがいることを知っている。
彼はウィルに気づいていないけれど、それでも良いと思っていた。仲が良いわけでもないし、自分がどうしても彼の前だと落ち着かないことを自分でも分かっていたからだ。
けれどいま、現実と夢が重なった。
いつまでも夢を続けるわけにはいかないだろうけれど、もう少しだけ、ガストと一緒に夢を見るのも悪くないと思える。この考えは、すてきなものになりえるだろうか。
息を吸い込んだ。健やかな風が、緑と花のにおいを運ぶ。
「いいと思うよ。とても」
ウィルがはっきりとした声で答えると、ガストは一瞬驚いたようなそぶりをみせたあと、うれしそうに笑った。