Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    かわな

    もろもろ載せます
    ましゅまろ→https://marshmallow-qa.com/tukyat1112
    wavebox→https://wavebox.me/wave/cqjyioz3nns6292j/

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🌹 🐶 💚 💛
    POIPOI 16

    かわな

    ☆quiet follow

    高校卒業したあとの二人がくっつくまでの両片思いの話。渡米リョータと大学生彩ちゃん。リョに告白されたことのある善性モブ女あり。細かいことは気にしない人向け。しんどさ0、やまたになしのゆるふわハッピーエンド。

    #リョ彩
    ryo-sai

    アイラブユー、ミートゥー/リョ彩高い天井。明るい照明。その真下にある、磨かれたコート。
    人々の歓声が波のように押し寄せてきて、圧倒された。それでも前に進めたのは、目の前にずっと見ていたいものが伸ばせば手に入りそうな距離にあったからだった。
    いけるところまで進む。応援にきていたらしいファンが、何事かを言っている。応援の言葉だろうか。それとも怒りの言葉だろうか。あれだけ英語の勉強をしていたというのに、いざとなると意外と聞き取れない。
    でも、仕方のないことだったのかもしれない。
    だって、いまどちらのチームが勝っているかもわからないのだから。
    とん、とお腹に軽い衝撃がきた。手すりがコートと今いる場所を阻んでいた。少しでも近くでみたくて、身を乗り出す。そのとき、コートの中でひときわ小さい彼にボールが渡った。
    なつかしさが背中を押して、あたしはさらに夢中になった。

    「行けっ! リョータっ!!」

    彼はボールを宙高くに放り投げた。
    虹が架かる瞬間をみたような気分だった。
    虹のふもとには大切なものがあるというけれど、ぐんぐん伸びていくボールの軌道の終わりがゴールであるならば、それはバスケットマンにとってとてもすばらしいものではないのかと思った。
    ボールを追って、視線が走り続けていく。記憶のなかにあるシーンと重なると、自然と胸が逸る。そうだ、あのときもドキドキとしていた。ありありと思い出せる。
    まばゆいコートの中、ボールはそのまま誰か知らない人の手に触れて、ゴールに吸い込まれていった。一瞬静まり返った会場で、ぎしぎしとゴールボードが音を立てる。カメラのシャッターを押すみたいに瞬いた。
    次の瞬間には、歓声が沸き起こっていた。ゴールボードと一緒に、世界が揺れているような気がした。




    ▽▽▽
    三年・春


    「このまま鬼キャプテンで行く気?」

    開かれたままだった部室の扉に寄りかかり、部屋の中で地べたに座り込んでいた宮城リョータに彩子は声をかけた。本を読んでいたのだろう。あぐらをかいた太ももの上には本が広げられており、顔を上げたときにパサッと音を立てて床に落ちた。

    「アヤちゃん!」
    「おつかれさま、リョータ」
    「お、おつかれさま。まだ残ってたんだ。そうだ、こっち座る?」
    「そうする」

    部室の電気は彼の座っていた奥側だけ灯っていて、彩子はパチパチと簡単に電気をつけた。そう広くもない部室を歩いていき、適度な距離を開けて隣に腰を下ろす。床は思ったとおり、少しだけひんやりしていた。

    「暗いなかで本なんて読んで、目が悪くなったらどうするのよ」
    「ごめん。あんまり気にしてなかったかも」
    「でしょうね。まだ着替えも済んでないみたいだし」

    部活が終わってそれなりの時間が経っていた。中には自主練をしていた部員もいたが、その数人も体育館をあとにしている。それぐらい時間が経っていたのに、キャプテンである彼はまだ自分の身支度はなにもしていない。部活中は汗をたっぷりかいて熱いかもしれないけど、まだまだ夜になると空気は冷たい。春はまだやってきたばかりなのだ。

    「アヤちゃんだって、まだ着替えてない」

    彼は言った。彩子は肩をすくめたあと、床に落ちたままだった本を手に取る。立派なキャプテンになる方法。だれだ、こんなものを書いたのは。

    「どこかの誰かさんが部室から出てこないから、着替えられなかったのよ」
    「え、うそ!?」
    「冗談よ」
    「あ、アヤちゃん……っ」

    パラパラと本をめくりながら、流れていく文字を追う。隣に座っているリョータが、うかがうように、そしてちょっとの期待をちらつかせながら身を寄せてきた。ちらりと様子をうかがうと、視線を泳がせて「ど、どうしたの?」と言う。彩子はまた本に視線を落とし、もう一度彼に問いかけた。

    「このまま鬼キャプテンで行く気?」

    浮つきかけていた空気が、春の夜に溶けていく。春の空気は冷たすぎず、熱されているものを心地よくほぐしてくれる、そんな柔らかさがあると思う。
    リョータが頭を掻きながら、壁に背中を預けた。あー、と唸り声をあげる。

    「やっぱり似合わない?」
    「似合わないというより、リョータらしくない」
    「えー……そうかな。ダンナっぽくて理想的だったんだけど」
    「そりゃ先輩はすてきだったけど、もうキャプテンはアンタなのよ。同じことしたってだめよ」
    「ぐっ……それ、三井サンにも言われた」
    「知ってる。アンタたち、気が合うのか合わないのか、分かんないわよね」
    「合ってないって。すくなくとも、試合のとき以外は」
    「どうかしらね~」

    言ってはみたものの、たしかに思い浮かんだメンバーは仲良しこよしというわけじゃなかった。冬の選抜まで部活に残っていた三井のことを、リョータは「目の上のたんこぶ」と言っていたことも知っている。それでも、バスケットが好きで、目指していたものが一緒だった。だからうまくいっていた。むしろ、ここが一緒だったからこそ信頼できていたのかもしれない。

    全国制覇。

    もちろん、今年もその夢は変わっていない。

    「そもそも、先輩みたいに威厳ある雰囲気なんてださなくていいのよ」
    「い、いげん……?」
    「堂々として、いかめしいこと」

    指先でページをめくりながら、彩子は答えた。人に舐められるべからず。やっぱり、あまりあてにはならない本だと思う。

    「でもさ、ビシッとしてるほうが統率も取れそうじゃない?」
    「統率って、そんなことしなくても、いまのバスケ部は活気があるじゃない。練習だって真面目だし」

    そりゃ、昨年のインターハイをみて入部してきた子たちは元気だけど、元気の種類が違う。どこぞの問題児軍団とは違うのだ。現にリョータと同じ学年の安田、潮崎、角田達は主張がとりたてて強いわけじゃない。だからって、何でも黙ってみているわけでもない。試合中はいつも癖の強い先輩や後輩に囲まれて気づかなかったかもしれないけど、みんな熱いものを持っている。それは今同じコートに立っている彼自身が一番わかっているはずだ。

    「……たしかに」

    リョータの神妙な声が、やけにおかしかった。

    「だから、リョータが鬼キャプテンにならなくたって、良いと思えばちゃーんとついてくるのよ、みんな」
    「うん……そうかもしれない」
    「でしょう?」

    本を閉じて、彼の視界に入らないよう端に追いやる。これは明日、あたしが図書室にちゃんと返しておこう。彩子は心の中でうんうんと頷く。
    三井も言っていたが、リョータはちょっと変な方向に気張りすぎていたきらいがあったように思っていた。それは前キャプテンだった赤木への尊敬でもあったし、本人が言っていたとおり理想なのもあったのだろう。だけど、リョータはリョータなのだ。彼らしく、チームを強くするべきだ。去年の癖の強いメンバーの中で、道を切り開いてパスをつないできたのはリョータなのだから、もっと自分に自信を持っていい。

    たまーに、しおらしくなっちゃうのよね。こうやって弱さを見せることも、珍しいけど。

    彩子は考えながら、天井を見上げているリョータをちらりと見た。そろそろ部室を出ないと、見回りの警備員に怒られてしまうかもしれない。話すことに夢中になっていたけれど、もうすっかり夜なのだ。
    うーん、と伸びをして立ちあがる。

    「そろそろ帰りましょう」
    「あ、アヤちゃん。待って」

    ロッカーに向かって歩き始めたとき、後ろからリョータが呼びかけた。振り返ると、ゆっくりと立ちあがった彼の後ろに、窓枠に引っ掛かるようにして月が輝いていた。彼はまっすぐな視線を向けて「アヤちゃんも」と言った。
    開け放ったままだった窓から、散ってしまった桜の甘い空気が流れ込んでくる。言葉の続きを、静かに息を吐きながら待った。

    「アヤちゃんも、オレについてきてくれる?」

    気付いたら、手が自然とハリセンをつかんで、リョータの頭にベシッとぶつけていた。

    「イッテェーッ! な、なにすんのアヤちゃん!?」
    「いま私と話したこと忘れたの!?」
    「お、覚えてるって! アヤちゃんと話したことはぜんぶ覚えてる!! ぜったいに忘れっこない!」
    「じゃあ、明日リョータがしたいことは?」
    「このチームで勝つための練習!」
    「グッド!」

    彩子はつかつかと歩いていき、自分のロッカーから一冊のノートを取り出した。本当は明日見せようかと思っていたけれど、あまりにも当たり前のことを聞かれてしまってむしゃくしゃとしてしまったのかもしれない。
    ノートを差し出す。おそるおそるノートと彩子を見比べたあと、リョータはそうっとノートを手に取った。まじまじと見つめながら、小首をかしげる。

    「これなに?」
    「マル秘ノートよ」
    「マル秘ノートぉ? アヤちゃんの?」

    中を見てみるように促す。一ページ目には、筆ペンで「全国制覇」と書かれていて、二ページ目からは、部員たちの今までのデータが入っている。得点の内訳や、シュート成功率。ファウル数、リバウンド……試合から分かるいろいろなものを、改めて今回きちんとまとめ直したものだ。

    「すごい……アヤちゃんがまとめたの? これ」
    「ええ。ハルコちゃんに手伝ってもらってね。ほら、あの子、桜木花道の特訓に付き合ってたでしょ? そのとき、どこの角度からのシュート成功率が良かったのかデータに残してたらしいのよ」
    「へえ」

    ゆっくりとページをめくっていく。注がれる視線は真剣そのもので、彩子に満足感が広がっていった。これが彼に役立つと良い、そう考えながら作ったのだ。赤木がゴール下で安心感をもたらしてくれたように、リョータならば自分のところまでパスをつないでくれるという信頼の糧になればいい。

    「役に立ちそうかしら?」

    彩子が聞いた。押し付けがましかっただろうかと少し不安だったが、顔を上げたリョータが不敵な笑みを浮かべた。他人がみればおちょくられているような表情にみえるかもしれない。けれど、彩子にしてみればこれほど安心感のある顔はない。
    リョータがノートを閉じた。視線を一瞬落としたあと、右手をグッと握る。風に押されるように、はっきりとした声が彩子の耳に届いた。

    「任して、アヤちゃん。連れてくよ、全国にさ」
    「あったり前でしょ。全国制覇よ!」
    「おう!」

    これ、オレも気づいたこと書いていいかな。ええ、もちろん。なんだか、交換日記みたいでドキドキする。
    そんなことを話していると、警備員が見回りにきて怒られた。まさか変なことしていないだろうね? という質問にリョータはわたわたと慌てていたのが怪しかったのか、早く帰るようにと何度も念押しをされてしまった。アヤちゃんは部室使って、とリョータが荷物を両手に抱えて部室を飛び出した。アンタはどこで着替えるのよ。問いかけには、コート、と走り抜けていくような返事があった。どうか、警備員のおじさんに見つかりませんようにと祈っておいた。


    家まで送ってもらう道すがら、バスケの話と、勉強の話をした。冬の選抜はなんとか回避できたけれど、これからも赤点は絶対に回避しなければならなくて、リョータはたまに授業中にうなされることがあるのだという。授業中に寝るな、とちゃんと突っ込んでおいたが守れるかどうかは微妙なところだ。

    「ここでいいわよ。ありがとう」

    隣を歩くリョータを追い越して、振り返った。リョータは残念そうに肩を落として、もう少し歩かない? と言った。彩子は笑って首を振った。どうせあと半日もしないうちに顔を合わせるのだ。

    「あ、じゃあ、最後にさ、アヤちゃんに聞きたいことがあるんだけど」

    それでもリョータは食い下がらなかった。一つだけだからさ、と言って歩き始めたことに「はいはい、なによ」と呆れた顔をして隣に並ぶ。いつもこうだ。

    「アヤちゃん」

    リョータが妙に生真面目な声で名前を呼んだ。おもわず振り向くと、月明りに照らされた顔の輪郭がぼやけてきらめいてみえた。なんだか、初めてみるような顔にドキッとした。彼のくちびるが震える。

    「さっき部室でさ、アヤちゃん。ダンナのこと、す……」
    「す?」
    「す、すてきって言ってたけど……それって、好きってこと?」

    落ち着かない息遣い。頼りなさげに下がった眉。静かな道に、リョータの心細そうな声が響いていた。どっと疲れが押し寄せてくる。

    ドキッとして損した。

    そんなことも知らない彼は下からうかがうように、じいっと彩子を見つめながら返事を待っている。思いっきり、ため息を吐いた。

    「……はぁー」
    「は、はぁーってどういうこと、アヤちゃん……っ」
    「うるせーうるせー」
    「うるせーってひどいよ、アヤちゃんっ。やっぱり好きなんだ、ダンナのこと!」
    「あー、もう。そういうんじゃないわよ、そういうのじゃ」
    「ほんとに!?」
    「うそついてどうすんのよ」
    「信じるからね!?」
    「そうしてちょうだい」

    なにをどうみたら私が先輩を好きだと思うのだろう、と彩子は思う。もちろん、先輩たちはすてきな人だ。でも、すてきだからといって好きになるわけじゃない。リョータには分からないのかしら。ちらりと視線を向けると、彼の目は少しうるんでいた。久しぶりにこの顔を見たような気がする。

    情けない顔ね。試合とは大違い。

    そんなことを、リョータがしくしくと悲しそうにしているのを眺めながら考えた。
    肩の力を抜き、息をもらす。まっすぐ続く道の先には空に月が浮かんでいる。明るく照らされていて、道がとても広々としてみえる。この道のように、彼の進みたい道が広々と自由に広がっているといいと最近はよく思う。
    下ろした髪を耳にかけるふりをして、またリョータをみた。
    春らしい甘さのある風が、二人のあいだをゆっくりと吹き抜けていた。




    ▽▽▽
    三年・夏


    「え、うそ!」

    おもわず声に出してしまった言葉は、案の定、隣で話しかけるタイミングを図っていたリョータに聞こえていた。ちっともたいしたことじゃないのに、とてつもない大事が起きたみたいにすっ飛んでくる彼はいつもと同じように大きな声で名前を呼ぶ。

    「どうしたのアヤちゃん!」

    こんなとき、いつも彩子は「うるせーうるせー」と心の中で思う。去年までは口に出して言っていたけど、春になって新入生が入部してきてからはなるべく控えるようにしていた。少し離れたところでボール磨きをしていた下級生たちが、うかがうように投げてくる視線がちくちく痛い。だから、付き合ってないってば。言っているのに、リョータの態度のせいで説得力がないらしい。それもこれも、マネージャーの晴子や同学年の安田たちが援護してくれないせいだ。

    「たいしたことじゃないわ、大丈夫よ。一年生たち見てて」

    彩子はシャープペンシルをかちかちと親指で押した。引っ掛からずに軽い音がする。やっぱり壊れているみたいだ。部誌にそうっとペンシルを当ててみると、芯がぽろりと転がった。

    気に入ってたんだけどなぁ。

    ため息を吐くと、部誌に落ちていた影が大きく、深くなった。

    「じゃあ、教えてよ。どうしたの?」

    顔をあげると、真剣な顔をしたリョータがまっすぐに彩子を見下ろしていた。一歩も引かないからね、とでも言いたげな表情にため息がこぼれた。

    「はぁー……もう」

    左手で頭を押さえる。たぶん、こういうところだ。リョータははっきり好きだとか言わないくせに、分かりやすいぐらいに好意は隠さない。

    「……シャーペンが壊れたのよ」
    「シャーペン?」
    「そうよ。ただ、それだけ」

    身をかがめるようにしてリョータが彩子の持っていたペンシルをのぞき込むので、見やすいように机の上に置いた。オレンジ色の細いスマートなデザインのそれは、ノックボタンから小さなバスケットボールのキーホルダーがぶら下がっている。手にしっかり馴染んで、持ちやすく、書きやすい。なにより、バスケットボールが気に入って一目ぼれして買ったのだ。

    「あー、芯が出てこないんだ」

    リョータが手に取り、カチカチと音を鳴らす。やっぱり音が軽い気がする。体育館の端で初心者のドリブルをみていた晴子に視線を送るが、胸の前で両手をぎゅっと握るポーズをされた。諦めの心地で、両手で頬杖をついた。

    「気に入ってたの、それ」

    壊れているのはノックした感覚で分かりそうなものなのに、あきらめていないのか、隣の椅子に腰を下ろしたリョータはシャープペンシルを分解し始めた。望遠鏡をのぞくみたいに小さな空洞に向かって目を細めている横顔は真剣そのものだ。

    「バスケットボールだから?」

    リョータが言った。トントンとペン先を机で叩いている。

    「そうよ。よくわかったわね」
    「そりゃ分かるって。アヤちゃんのことだからさ」
    「じゃあ、たいしたことじゃないのも分かったわよね」
    「んー……アヤちゃんのことでたいしたことじゃないのってないからなあ。わかんねえや」

    気持ちがいいぐらいにきっぱりと言い切った。が、すぐにすまなそうに彩子に向き直る。

    「でも、このシャーペンは直りそうにないみたいだ。ごめんね、アヤちゃん」
    「それこそリョータが謝ることじゃないわよ。壊れるときは壊れるものだしね」

    きちんと元通りに戻されたシャープペンシルを差し出され、受け取る。いつもと違う感触がするのは最近とくに蒸し暑くなってきた体育館のせいだと言い聞かせた。
    そんなことを話していると、体育館にひび割れたチャイムの音が響いた。開け放った窓の外からも、校舎のずっしりと重い鐘の音が流れ込んでくる。
    八時のチャイムだ。
    弾かれたように、リョータが「片付けー!」と言った。ボールが弾む音と、キュッと床を擦るバッシュの音が止まる。そうしてすぐに、もう終わりかー、という残念そうな声が体育館に広がっていく。
    春に比べてこういった言葉が聞かれるようになった。夏に向かってゆっくりと外の気温が上がっていくみたいに、体育館にいるみんなの気持ちも確実に熱気を帯びていくのが分かる。それはとても心地の良い空間だった。
    彩子も椅子から立ち上がる。部誌は、あとから家でゆっくり書こう。

    「さ、私たちも片づけましょ。ハルコちゃーん、そっち手伝うわ!」
    「はーい!」

    部室に仕舞うため、椅子を机の上に重ねる。晴子のところまで持ち運んで、一緒にボールを片づけて、それから部室に戻せばいいか。

    「オレが持っていくよ」

    リョータが机を手に取り、軽々と持ち上げた。

    「ありがと。でも、いいわよ。リョータだって片づけがあるでしょ」
    「もうほとんど済んでるって」

    周りを見渡すと、たしかにコートはほとんど片付いていた。今年は三年が四人になったからか役割分担がうまくできていて、備品のチェックや部員の相談ごとといった様々なことが、春からはとくに上手に連携できている。そのおこぼれが、この部活の速やかな片づけにも生き始めているらしい。

    「ほらね」

    満足気にリョータがニッと笑う。
    おそらく言っても聞かないだろう。彩子は小さく息を吐いた。

    「じゃあ、お願いするわ。ありがとう」
    「どういたしまして。ものはついでに、もう一つ、お願いされたいんだけど」

    ガタガタと音を言わせながら歩き始めたリョータの問いかけに、いぶかしげに首を傾げた。なにか、ほかにお願いするようなことってあっただろうか。

    「なんのこと?」
    「シャーペンだよ。良かったらさ、買いにいかない?」
    「一緒に?」
    「そう。ほら、このあいだのミーティングで、そろそろ備品が足りなくなりそうって言ってたからさ」

    声には分かりやすい期待が満ちていた。けれど、はっきりとした希望を口に出したら断られてしまうという気持ちがあるからか、ちらちらと横目にしながら、手に握られたシャープペンシルと彩子の瞳を視線がいったりきたりしている。

    ガラガラと大きな音が鳴り響いた。そして、ジーと鳴く虫の声が聞こえた。だれかが体育館と外をつなぐ扉を開いたらしく、風が吹き抜けていった。それなのに、リョータの表情は火照っているようにみえた。
    そわそわと落ち着きのない様子の彼の背中を「アヤコさーん!こっちもう大丈夫ですよーう」と晴子の声が押す。重いものを持ってわずかに前のめりだった背中が一瞬にして伸びた。静けさが落ちてくる。お互いの呼吸がやけに響いているのに気づいたら、いつのまにか体育館に二人きりになっていた。そのことに気づいてしまったら、まあいいか、と思ってしまった。

    「いいわよ」

    思ったよりも、満足気な声がでた。
    パッとリョータの表情が緩む。

    「え!? いいの? ほんとに!?」
    「しつこいわね。ただ、買う物たくさんあるから荷物重いわよ!」
    「いいよ、それぐらい。むしろ大歓迎!」
    「もう、調子がいいんだから」
    「へへっ、だってさ。一緒に出掛けるのって初めてじゃない?」
    「そうだっけ?」
    「そうだよ。あー、楽しみだなー。いつにする? 今度の部活が休みの日でいい?」
    「それでいいわ」

    帰る前に、二人で備品のチェックをした。テーピング、湿布、コールドスプレーについでだから氷嚢も買い足そうということになった。部員が増えるといろいろなものが、とても速いスピードで消費されていく。

    「ね、アヤちゃん。これ、ノートに書いてもいいかな?」
    「ノートって、マル秘ノートのこと?」
    「そう。コピーはヤスたち用にファイリングしてるし、これはオレとアヤちゃんの交換日記みたいなものだから」
    「交換日記じゃないわよ」
    「みたいなものだって」

    リョータがロッカーから見慣れたノートを取り出して、もう一度「書いてもいい?」と聞いた。断る理由なんてない。どちらにせよメモを取っておくつもりだったのだ。それがノートになっただけだ。

    「どうぞ」

    答えを確認すると、リョータはいそいそとノートを部室の椅子に置いて、ロッカーの中で転がっていたボールペンを手に持った。

    7月28日(日)
    テーピング5。
    冷湿布10。
    コールドスプレー3。
    氷嚢2。
    シャープペンシル重。

    隣にしゃがみこみ、ノートを覗き込んだ。思ったよりも丁寧に書かれた文字に、授業のノートもこれぐらいの出来栄えならいいのにと考えながら横顔を眺めた。彼の真剣な表情には楽しいという気持ちが含まれている。だから今の表情に悪い気はしない。初めて会ったときからこの気持ちは変わっていない。

    「シャープペンシルの隣に書かれた重ってなんなの?」
    「ああ、これ?」

    分かりやすいようにだろうか。メモ書きを四角い枠で囲んでいるリョータはこともなげに言った。

    「これはさ、重要の重。アヤちゃんのシャーペンを買うのはオレにとって大切なことだからちゃんと書き足しとくんだ」
    「ほかの備品も重要じゃない」
    「まあね。でも、シャーペンが、オレにとっては大事だから」
    「あっそう」
    「そうだ。アヤちゃん、待ち合わせは駅に十時でいいかな?」
    「いいわよー、それで」
    「オーケー。これも書いとこ。記念に」
    「なんの記念よ……」

    小さく書かれた「デート」の文字には、気づかなかったふりをした。肯定も否定も今はしない。

    「それにしても暑いわねえ」

    開け放った窓から外をのぞくと、校舎はずんとした黒い生き物のように寝そべっていた。ときおりちらちらと明るいものが動いていて、そろそろ警備員の見回りがくるだろうなと考えた。耳を澄まさなくても、葉擦れの音がする。ジー、という虫の声も。海から流れてきているからか風はとても強いのに、夏の風はいくら吹いたって暑い。

    「帰りにアイスでも食べない?」

    リョータが期待に満ちた声で言った。振り返ると、汗が気になったのかTシャツの裾で顔を乱暴に拭っていた。

    「いいわね。賛成」
    「やった! じゃあ、早く帰る準備しよう。警備員のおっさん、最近なにかとうるせーんだよなぁ」
    「応援してくれてるのよ。このあいだ、スポドリの差し入れいただいちゃったし」
    「それはそうだけど……オレはオオカミじゃないというか、いやじゃないわけじゃないけど……」
    「なにぶつぶつ言ってるのよ」
    「へへっ、なんでもないよアヤちゃん!」

    体育館を出ると、少し欠けた黄色の月が深い藍色の夜空に輝いていた。
    月がきれいだね。
    という授業で習ったベタなことをそわそわしながらリョータが言ったので、そうね、私もそう思うわ、と自分の言葉で返しておいた。すごく、月がきれいね。


    週末、買い出しという名のデートをした。
    シャープペンシルをプレゼントしてもらった。
    みんな頑張っているから、もう一度買い出しが必要になるかもしれないわね。じゃあ、またデートができるね。と、笑って話しながらアイスクリームを食べた。涼しくなると体を動かしたくならない? というへたくそな誘い文句に乗って学校へ行くと、みんながなぜかそろってバスケをしていた。
    楽しかった。とても、楽しかった。

    そして、あっというまに夏は終わった。



    ▽▽▽

    三年・秋



    まだまだ外は暑いというのに、学校の中はめっきり秋になった。とはいえ、こんなことを考えているのは三年生ぐらいかもしれない。

    進路希望調査。その原因はこのたった一枚の紙きれのせいだ。

    夏が居座っている世界に合わせて半袖の制服を着ているのに、先生たちは急かすように秋を押し出してくる。時間はあっという間にすぎていくからな! が口癖で、そして最後はいつも受験のことを口に出しては三年生の心を容赦なく冷やしていく。焦りは禁物だとか言うのはどの口だ! とたまに言いたくなる。

    「ねー、彩子。宮城くんは?」

    放課後の教室でまだ何も埋めていない進路希望調査表を睨みつけていた彩子は、うんざりしながら顔を上げた。この質問は聞き飽きている。

    「部活よ、部活」
    「え? でも、彩子は行ってないじゃん。部活」
    「私は引退したのよ。リョータは冬まで」
    「ふうーん、そうだったんだ。なんだか意外だね」

    意外っていうのはどういうことだろう。というのは口が裂けても言わない。部活が同じだったことを差し引いても、一緒に過ごしている時間はそれなりにあったと思っているし、なによりリョータは彩子への好意を隠していない。いつでも一緒に行動していると思っている先生たちも少なくはないからだ。

    「ねえね、付き合わないの?」
    「なんのことー?」
    「あ、その口ぶりだと宮城くんの気持ちに応えるつもりあるんだ」

    彼女はクラスメートがすでに下校しているのを良いことに、彩子の前の席の椅子を引いて、よっこいしょとわざとらしく言いながら座った。机に広げたままだった進路希望調査表に影が落ちたのを横目に見たあと、視線を移す。憎らしいほどに可愛い顔と目が合った。はっきりとした目鼻立ちに、セミロングのストレートヘア。さっぱりした性格で、オレンジ色のリップがよく似合っている。この子は、前にリョータに告白されたことがあるのだ。

    「なんでそうなるのよ」

    ムッと眉根を寄せて言い返すと、ますます笑顔になって可愛くなる。リョータの好みが「笑顔が可愛い人」というのはクラスメート全員が知っていて、これまでにこの子を含めて十回ほどフラれているのもやっぱりみんな知っていた。

    「だって、付き合わないのって質問に、なんのことーなんて返さないよ。部活行かないのって私は聞いたでしょ。付き合うのは、部活。話の流れ」

    初歩的な誘導尋問ですよ、と彼女は言った。今にも鼻歌を歌いだしそうなほどご機嫌な声だ。

    「だから、彩子は付き合わないのって言葉に、宮城くんと恋人になる選択肢があるんだなーって思ったんだ。こっちは意外じゃないな、うんうん」
    「ちょっと、勝手に憶測をするな!」

    机に落ちた影が邪魔で、彼女の額に人差し指を押し当てた。ぐぅっと力をこめて影が調査表の外に出るまで追いやったあと、罰として指で軽く弾く。ペシッと軽い音がした。

    「イテッ! もぅ、小突くのやめてよ。計算式忘れちゃう」
    「もう一度覚え直せばいいでしょ」
    「えー、ひどい! 私の努力!」

    数人しか残っていない教室に彼女のケラケラと笑う声が響く。ちっとも彩子の態度に堪えていないのは、これまでに何度も似たようなやり取りをしてきたからだ。彼女がリョータの告白を断った理由は「彩子を好きじゃない宮城くんって想像がつかない。そこが嫌だ」だったし、断ったあとに彩子に文句を言いに来たこともある。「好きだって告白されたのに、大事にされるビジョンが見えないって致命的だよね」と言った彼女の言葉は、その当時の彩子にはなんとなく分かるような気がしたのを覚えている。

    「進路希望なんて、やっかいだねえ」

    人の机を使って堂々と頬杖をつき、彼女は窓の外を眺めながら他人事みたいに言った。彩子はシャープペンシルをくるくると回しながら彼女の言葉と、自分の鳴らすカラカラという音に耳を傾けていた。机の上で動くシャープペンシルの影の色がゆっくりと深くなって、日が傾き始めていることに気づく。暑いけれど、やっぱり秋は潜んでいる。
    カラカラ。カラカラ。
    シャープペンシルが回る音がする。

    「そのシャーペン、お気に入りだね」

    彼女が向き直り、くるくる回っているシャープペンシルのキーホルダーを見つめる。少し歪な「7」と書かれた赤いユニフォーム型のキーホルダーが、誰にも追いつけないスピードで元気に宙を走り抜けている。

    「まあね」
    「宮城くんからもらったんだって? 誕生日、夏だっけ?」
    「誕生日なのはリョータよ。リョータの誕生日プレゼントに、リョータからもらったの」
    「なんじゃそりゃ」

    彼女は呆れた声を出した。彩子も実際にプレゼントをしたいとリョータに言われたときは驚きというより呆れたことを思い出す。
    カーテンがバサバサと大きな音を立てた。吹き抜けていく秋の風が、心の奥底に仕舞ってあった買い出しついでのデートの日のことを心の真ん中まで追いやってきて、追い払えなかった。

    ――アヤちゃん、これどう? 
    ――どれどれ。うん、いいわね。持ちやすいし、形も前に使ってたものと似てる。
    ――同じ形の新シリーズらしいよ。ほら、ここにキーホルダーをつける穴がある。
    ――へえ、好きなのを付け替えできるのね。
    ――そうそう、だからさ。これ、どうかな?
    ――かわいい! ユニフォームね。
    ――赤もあるんだ、あのさ。これに「7」って書いて、プレゼントしてもいいかな?

    あの日の期待に満ちたリョータの声も、店の冷房の冷たさも、体の熱さも全部覚えている。まだ二カ月も経っていないのに、ずいぶんと昔のことのように思う。
    ペンシルを回していた手を止めた。赤いユニフォームが、窓から差し込む柔らかくなった日の光を弾いて煌めいている。眩しくて思わず目を細め、息を吐いた。ため息を吐いたのは、しょうがないなって気持ちが込み上げたからだ。

    「自分の誕生日プレゼントに、私にプレゼントしたかったんだって。ご褒美だって言ってたわ」
    「愛されてんね~」
    「そうよね」
    「そして、独占欲も人一倍ある」
    「それもそう」
    「でも、彩子はそれが良いんだね」
    「なんでそう思うのよ」
    「だって、授業中に可愛い顔してキーホルダーつついてるの見ちゃった。赤い7番の男は有名人だからね」

    初歩的な盗み見ですよ、と彼女はにっこりと笑った。頬杖をついて、顔の横でピースサインなんて作っているのに憎らしいほど可愛らしい。

    「盗み見に初歩も玄人もあるわけないでしょ!」

    ペシッと再び額を指ではじいた。イテッと彼女は声を上げ、横暴だとか英単語を忘れちゃうだとか言ったけれど「聞こえないわね」と一蹴した。いつものやり取りだから、彼女はほんの数秒後には笑っていた。

    彼女の進路希望調査についての持論を聴きながら、とりあえず紙に自分の名前を書いた。お気に入りのシャープペンシルで中途半端なことをするのは嫌だったので、しっかりと丁寧に書いた。あいかわらず、良い文字書くね、と彼女は彩子を褒めた。そうして、今考えていることをそのまま書くといいよ、とまたどこぞの探偵みたいなことを言ってあっけなく帰っていった。


    ♢♢♢

    表面を温かいものが撫でていく。けれどその内側はもっと熱いものが渦巻いていて、内側の中心、ちょうどお腹と心臓のあたりに一つだけとても冷たいものがある。ああ、今は試合中なんだ、とそこで気づく。

    コートには目が眩みそうになるほどのライトが降り注いでいた。客席の熱気と外の外気が混じり合って肌には妙な温かさがあり、内側はコートで戦っているみんなを応援する気持ちが火を噴くような勢いで燃え上がっている。けれど、真ん中にあるのはこぶし一つ分ぐらいの冷たさを持つ冷静な思考だ。

    観客でも、選手でもない。
    私はマネージャーなのだ。

    応援するだけじゃだめ。プレイに命を懸けるだけでもだめ。どちらもバランスよくもっていないと、あたしはこの場に立つことができない。
    ストップウオッチを握る手が冷たい。コートと手のひら、交互に視線を動かしながら、そのたびに秒数が刻々と試合終了に近づいていくのを憎く思う。声を張り上げてみんなの力になるのなら、喜んでそうする。
    でも、このコートはそれぞれが優劣なんてつけられないぐらい努力した人たちのための舞台なのだ。勝つときもあれば、負けるときもある。悲しいぐらいに、強く突き付けられる。それは何度経験しても、うれしいものであるし、辛いものなのだということを、いつも試合が終わって思い出す。




    まぶたが重く、不思議に思いながらゆっくりと持ち上げた。視界の中に、赤い夕陽の色と机の地平線がみえて、夢をみていたのだと分かった。どのくらい眠っていたのか分からないけれど、気づいてしまえば、筋肉がぎしぎしと固まっていることを体が気づく。足先から順番に伸ばしていく。まだ頭がぼんやりしているのか、足の長さを見誤って前の席の椅子を蹴飛ばした。うおっ、と声が上がって、頭がすっかり覚めた。


    「リョータ?」

    机に引っ付いていた体を起こすと、Tシャツに短パン姿のリョータが座っていた。夏までは毎日のように見ていたのに、すでに懐かしさを覚える。オンオフは上手に切り分けられると思っていたけど、そう簡単なものでもないらしい。
    へへっ、と頬をかきながらリョータが視線をわずかに外に向けた。つられて外をみると、すっかり大きな夕日が窓ガラスを赤く染め上げていた。

    「おはよう、アヤちゃん」

    ちらりと彩子をみたリョータの、わずかに傾いた首すじに沿って陽の光が流れていく。耳元でピアスがきれいに光っていた。

    「おはよう。部活は?」

    ぼんやりと、いつからここにいたのだろうと考えていると、リョータはトントンと机を指で叩いた。そこには丁寧に名前だけが書かれた進路希望調査表がある。なんとなく、しくじったな、と思った。

    「これ。忘れてたから取りに来た。親のサインがいるって知らなくってさ」
    「リョータもまだ提出してなかったの?」
    「うん。まあ、ちょっと……ね」
    「ふうん」

    夏のインターハイが終わったあと、リョータは冬まで部活に残ると言った。同学年ではリョータだけがその道を選び、彩子や安田たちはその決断を応援した。毎日を一緒に過ごしていく中で、彼がバスケットのことばかり考えていることを十分に分かっていたからだ。
    だから、迷うことなく、アメリカへのバスケット留学の奨学金を受けるのだと思っていた。資格は満たしていたし、顧問の安西にも相談していることも知っていたからなおさらだ。

    「アヤちゃんはどうなの?」

    リョータが、まっすぐに彩子を見つめながら言った。彩子は進路希望調査表を丁寧に折り曲げて、シャープペンシルを筆箱に仕舞う。筆箱は細めのデザインで、シャープペンシルはいつも窮屈そうにみえる。

    「あたし? なんのことよ」
    「進路。いつもオレばっかり背中を押してもらってるからさ」
    「そんなことないわ。決めてるのはいつもリョータだもの。自分で選んでるじゃない」
    「そっか。じゃあ、アヤちゃんはすごいや。いつもオレが心で思ってるけど言えない言葉を引き出してくれる」

    リョータは目を細め、ふいに視線を落とした。広げられた右手がゆっくりと握られるのを見るのは、久しぶりな気がする。
    けれど、すぐに視線は戻ってきた。

    「というわけで」

    そう言ったリョータの声は少し照れ臭そうで、はにかんだ顔によく似合っていた。

    「実は、ちょっと頼られてみたかったりして」
    「頼られたいって、リョータだってまだ未提出じゃない」
    「ウッ……! それはそうなんだけどさ! オレはまあ、ほぼ決まってるってのもあったから」
    「じゃあ、さっさと提出しなさい!」
    「あした、明日するつもりだったんだよ。本当に!」

    リョータの情けない声が教室に響いて、彩子は思いっきり息を吐いた。本当に分かってるのよね、とじろりと彼の瞳をのぞき込むと、きゅっと瞳孔が動いた気がした。

    頼られたいってなによ。
    それなら、そういう関係にさせてみなさいよ!

    心にうずまく気持ちを抑え込み、リョータの頬をつねってみる。部活中の肌は汗でしっとりして、ほどよく熱くて、触っていると気持ちがいい。

    「アヤちゃん、なんでつねるの!?」
    「さあ、なんででしょうね~」

    開け放たれた窓から、グラウンドで練習をしている野球部やサッカー部の掛け声と、吹奏楽部の調律を合わせる気の抜けるような音が風に乗って運ばれてくる。こんな放課後があと何回ぐらいやってくるのだろう。受験勉強を始める自分と、部活を頑張る彼が放課後を過ごすには、たまたまを待つか、それかお互いに時間を合わせるかだ。けれど、後者は選べない。

    「やっかいよねえ、本当に」

    ため息交じりに彩子が言った。その言葉を聞いたリョータが「やっかいって、オレのこと!?」と慌てふためいていた。「違うわよ」と答えて、つねった頬を指先で撫でたあとに離した。それなのに名残惜しさがくっついてきた。本当にやっかいだと彩子は思う。

    「アヤちゃんがしたいことをオレは応援するよ。だから、今考えていることを書くといいよ。もしなにか言われたらオレがそいつぶん殴ってやるからさ」
    「もう、ぶん殴らなくてもいいわよ。でも、ありがと」
    「どういたしまして」

    本当になにもない? とリョータがしつこく聞いてくるのを、目下の悩みは明日の英語の小テストね、と答えた。ウゲッといううめき声に笑いながら、彼をいつまでもここに引き留めておくわけにはいかないので席を立つ。筆箱と調査表を忘れずにカバンに仕舞うと、「下まで送っていくよ」とリョータは言って立ちあがった。これには甘えておいた。

    「そうだ、アヤちゃん」

    差し込む光で影が細長く伸びた廊下を歩きながら、リョータが神妙な声を出した。影の彼はちっとも動じておらず、ひたすらまっすぐに伸びている。どんな顔をしているのだろうと想像しながら返事をした。

    「なに?」
    「あのね、この学校の半分は男なんだ」

    言われている意味が分からなかった。

    「分かってるわよ。クラスだって半分は男子じゃない」
    「うん。それに、教師だって半分以上は男」
    「そうよ。それがなに?」
    「だからさ、いくら教室だからって無防備に寝てちゃだめだってこと」

    真剣すぎるぐらいの声。けれど、想像もしていなかった言葉にびっくりするほど一気に力が抜けてしまった。

    「……ああ、そういうこと」
    「ああ、そういうことって。アブナイんだよ! 男はオオカミなんだからさ!」
    「あー、はいはい。わかった、わかった」
    「あーもー、適当な言い方して。心配してるのに!」
    「わかってるわよ。心配してくれて、ありがと」

    適当に相槌をしながら、でも、と心のなかで考える。
    まっすぐに伸びた影を持つこの男が、そんな何かが起こるようなことを許すだろうか。許さないだろうし、それでいいとも思っている。あたしにとってのオオカミは一人なんだから、ほかのやつに簡単に食べられるつもりもない。

    「だけど、リョータが助けてくれるでしょ。前も、そうしてくれたじゃない」

    顔を上げ、振り返る。
    にっこりと笑って、付け加えた。

    「まあ、誤解して飛び掛かったこともあったけど」
    「そ、それは……違うんだよ、アヤちゃん! あれは花道がさぁ」
    「人のせいにしないのー」
    「そんなぁ」

    さっきまでの真剣すぎる声とは正反対の、情けない声を上げるリョータに笑いを噛みしめながら、

    「頼りにしてるわよ、いつもね」

    と伝えた。心からの本心だったので、すんなり言葉は口から飛び出した。まるで、ずっと言いたがっていたみたいだった。
    案の定、リョータは彩子の思い描いていたとおりに驚いて、そして顔中の筋肉が緩み切ってしまったみたいにだらしない表情でもう一度をねだった。しょうがないんだから、という気持ちを抱きながらも願望は跳ねのけた。大切なことは一度言えば十分なのだ。一度だけだから、ずっと心に残ることもある。
    そして、何度も口に出して良い言葉は惜しみなく伝えるべきだ。

    「リョータ、部活頑張るのよ」

    校門と体育館の分かれ道で、右の手のひらを掲げた。ニッとリョータは笑って、同じように手を掲げた。秋の高い空に手が触れあった音が気持ちよく響く。
    触れた手のひらはやけどしそうなほど熱くて、それがとてもうれしい。


    家に帰ったあと、進路希望調査表に大学と志望学科を書いた。両親はじっと紙を見つめたあと、すんなりと印鑑を押した。
    「バスケット好きねえ」
    と笑い混じりに言われた。淹れたばかりの紅茶の甘い香りがする。一口含むと、頭がすっきりしたような気がした。



    ▽▽▽
    三年・冬


    ハロー、ハウアーユー! フーアーユー! オフコース! サンキュー、ベリーマッチ! ノーセンキュー! ディスイズ、バスケットボール! エクスキューズミー! イエス、イエス、イエス!

    それいつ使うのよ、と言いたくなるような英語を口にしながら、リョータがノートに単語を書き記していく。つづりもところどころ間違っていて、こんなのでアメリカに行って大丈夫なのかしら、と彩子は真剣にノートと向き合っている彼を眺めていた。
    二月中旬。
    冬になると大半の授業が自習になるとは聞いていたけど、まさかここまでとは。
    すでに受験を終え気楽に会話を楽しんでいるグループと、あと数日で本番を迎える受験組で、教室はまるでモーセが海を割ったみたいに真っ二つに割れている。そのちょうど真ん中で、リョータと彩子は向き合って勉強をしていた。集中力はたいしたもので、この教室の騒音にも屈しておらず、リョータはときおり頭をシャープペンシルで書いたあと、ひらめいたようにペンを走らせる。その英語が実際に役立つかどうかは分からないけれど、熱心なのは良いことだ。

    「リョータ、そこmanyは使えないわよ」

    彩子がトントンと指先でノートを叩く。リョータが「交換日記みたいなもの」と称していたマル秘ノートはこの数か月で一気に書き込まれて、残りのページのほうが少なくなっていた。

    「え、うそ! なんで!?」
    「迷ったら辞書でしょ」
    「オッケー。待ってろよ、many~!」
    「はぁ……なに言ってんのよ、もう」

    リョータが唸り声をあげ、机の中から和英辞書を引っ張り出した。たくさん、たくさん……と念仏のように唱えているのは怖いけれど、こんなに勉強に向き合っているのは去年のインターハイ振りかもしれない。

    「あー……そっか。水だからか。ハンバーガーならmanyが使える」
    「なんでハンバーガー?」
    「んー……なんかアメリカっぽいから」
    「安直ね~」
    「いいのいいの。好きなことで覚えたほうがさ、絶対に良いんだって」
    「それもそうね」
    「ちなみに、今のオレは冴えてるよ。なんてったって、アヤちゃんと一緒に勉強してるからさ」
    「あー、はいはい」
    「うっ、またアヤちゃんオレのことそうやってスルーする」

    時間はあっという間に過ぎていくからな、と言った先生の言ったとおり、推薦で受験に望んだ一部のクラスメートたちと一緒に期末試験と受験勉強にスパートをかけていたら、気づいたらクリスマスで、あっというまにお正月も終わってしまった。

    彩子はすでに推薦で進学が確定していて、同時に、リョータがアメリカの大学に進むことも決まっている。だからといって教室の半分たちと盛り上がる気にならず、かといって熱心に勉強を続けているもう半分にも加われないのは、その両方を少しずつ両手に持っているからだ。進路が決まっている安心感と、この先に待ち受けているであろう未知のものに対する不安。多少なり勉強することで気持ちが楽になるのなら、していて損はない。と、思いはするが、今している英語の勉強は習い事のCMで聞くような単純なものばかりで実践で役に立つとは到底思えないから不安はあまり軽くならない。

    そりゃ、日本の英語は向こうじゃ通用しないっても聞いたことあるけど。

    辞書に貼っているふせんに視線を落とす。今の時点で五枚ほど同じページにふせんがあって、アメリカに行くころには何枚ほど増えるのだろうと考えた。
    それでもある程度は話せないと、コミュニケーションもとれない。バスケットはチームプレーなのだ。仲良くなくたって、お互いの考えや目的が一緒であればおのずとチームは強くなるかもしれないけれど、話せることはぜったいに有利だ。リョータはカッとなりやすいからなおさらだ。

    一人、教室からだれかが抜け出した。一人がいなくなると、誘われるようにまた一人と席を立つ。ガラッと教室のドアが開いて、冬の冷たい空気が流れ込んでくると、リョータは自然と眉根を寄せる。こっちに引っ越してずいぶんと経つらしいのに、寒いのはどうにも慣れないらしいと聞いたのはつい最近のことだ。大晦日の夜、冷え冷えとした夜空の下で並んでお参りをしたときに聞いた。

    「うるせーよな、みんな」

    リョータが苦笑いしながら言った。いつもうるさい筆頭のくせに、一丁前に大人っぽい表情をしているのがおかしい。

    「まあ、勉強漬けだったから仕方ないのかもね。あたしも合格通知をみたときは気が抜けたもの」
    「アヤちゃんが? それはちょっと見てみたかったな」
    「いやよ。だらしないのは誰にもみせないの」
    「じゃあ、いつか見せてもいいって思われるようにならないと」

    次々と廊下に受験組が吐き出されていく。うるささに耐えかねて、図書室か、もしくは空き教室に向かうのだろう。そんなことを考えながら、素知らぬ顔をしていた。ノートには「アイラブユー」と英語で書きこまれている。ノートの罫線をはみ出さないぐらいの大きさで、きゅっと肩を縮こませているような文字は、彩子の前で好意を示すリョータを思い起こさせる。分かってほしいと言っているのに、はっきりと言わない。

    「アヤちゃんはさ、ライクとラブの違いってなんだと思う?」

    リョータが言った。辞書をパラパラとめくっていきながら、頬杖をついていた。時計は一時四十分を指していて、そろそろ午後の一回目の自習が終わるころだった。

    「そうねえ」

    彩子は答えながら、筆箱からシャープペンシルを取り出した。カラカラと赤いユニフォームが人差し指を撫でてくすぐったい。ノートを引き寄せ、丸を描いた。二本の曲線と横棒を書き足す。辞書が捲れていく音が止む。
    アイラブユーの隣にバスケットボールのイラストを描いた。

    「ユーラブバスケットボール!」

    彩子がにっこりと笑ってみせると、彼は一瞬目を開いたあと、ニッと口元を緩ませる。

    「イエス! イエス! イエス!」

    雑音だらけの教室の中で、イエスの声ははっきりと彩子に届いた。そうして、ほんの数十分前にリョータがぶつぶつと言いながら書き記していた英単語がさっそく役に立つとは思わず笑ってしまった。あははっ、と口元を抑えながら背中を丸める。少しお腹も痛くなってきた。

    「なんで笑うの!?」
    「だって、まさかそんなふうに答えるなんて思わないわよ!」
    「でもさ、イエスしかないって、トーゼン!」
    「それはそうだけど!」

    笑いすぎたのか目じりから涙が流れた。考えなくても分かるのに、はっきりと言われると嬉しさと楽しさが一気に膨れ上がる。やっぱり、バスケットが大好きなリョータを好きだと強く思う。

    「あー、笑った。こうやって話してみると、なんとかなりそうな気がしてくるわね」

    そこまで単純な話ではけっしてないだろうけれど、熱量と勢いというのも大事だ。
    思い出すとまだ笑えるイエスのコールを思い出しながら、指先で目じりを拭う。視線を感じ、そっと正面をうかがいみると、じっと彩子を見つめているリョータと目が合った。

    「アヤちゃん、ドゥーユーラブバスケットボール?」

    ニッと笑った口元から白い歯が見えた。実際に聞かれてみると、本当に一つしか答えが浮かんでこないからさらに笑いが込み上げてくる。
    一度口をきゅっと閉じることで笑いを押し込め、自信たっぷりに答えた。

    「イエス、オフコース」

    リョータはすぐにうれしそうに目を細めた。自分の声も負けないぐらいうれしそうに響いていた。彼の口元はきゅっと小さくなって、アヒルみたいにわずかに尖る。これまでに何度も喜んでいる姿をみてきたけれど、ここまで間近で見たのは初めてかもしれない。

    「アヤちゃんがラブだって言った」

    うっとりとした言葉に彩子は呆れてため息を吐く。

    「ラブなのはバスケットボールよ」
    「わかってるって。でも、すっげえ聞けてよかった」
    「それは同感ね。私も聞けてよかったわ」
    「なにを?」

    顔を近づけて、下からうかがうようにリョータを見つめた。

    「リョータがバスケットを愛してるってこと。ずっと応援したいって思ったわよ」
    「あ、アヤちゃん~!」
    「それはそうと、イエスのあとはオフコースをつけてみると良いんじゃない? あと、英語でアヤちゃんはおかしいんじゃないかしら」
    「……切り替えはやいね、アヤちゃん……でも、ちゃんとメモっとくよ!」

    バスケットボールをラブと定義するのなら、ライクはなんだろうと二人で話した。それこそハンバーガーのことだとリョータが言って、話の成り行きで学校の帰りにハンバーガーを食べて帰ることになった。ポテトもライク。ハンバーガーと一緒に飲むジンジャーエールもライク。考えてみると、ライクと言えるものはたくさんあった。

    「ラブって特別なんだなー。愛だもんな」
    「きっと、そんなになくてもいいのよ。特別なものなんだから」

    器用に椅子を浮かせて体を揺らしているリョータを眺めながら、彩子は言った。二人にとって愛しているがバスケットボールならば、なにをしても許してしまう強さや魅力があるものがきっと愛なのだ。許せるというより、バスケットに関するものはなんでもありと言ったほうが正しいのかもしれない。
    勝ち負けも、ケガや挫折も、悲しみも喜びも。
    与えられるものが全部ありになってしまう。これまで先輩たちや、後輩を見ていて感じた。そして一緒に過ごしていくなかで、リョータを見ているとその感覚がさらに強くなった。

    「リョータ。手、貸して」
    「ん?」

    当然のように右手を差し出された。いつかの試合を思い出して、口元が緩んだ気がした。気が付いているのかいないのか、正面に座っているリョータはやけに姿勢を正して生真面目な顔をしている。

    あいかわらず教室は騒がしく、思い出したように誰かが教室を抜け出しては冷たい空気が流れ込んでくる。それでも、差し出された右手はやけどしそうなほどに熱い。手のひらを重ねてみる。ビクッと体が揺れたのが手のひらを伝ってくる。笑いがこらえきれず、フフッと笑った。

    「リョータの右手はバスケットボールのためのものね」

    そう言って、彩子は手を丸く握った。子どものころ、手遊びで作った目玉焼きみたいだ。手の大きさが違うからとてもお似合いにみえた。

    「アヤちゃん、これなに?」
    「バスケットボールよ」
    「……じゃあ、触ってもいい?」
    「ええ、もちろん。いいわよ」

    手の甲に彼の手のひらが触れた。同じ手のひらのはずなのに、自分の手がボールだと思うと変な感じだった。手を包み込まれて、手の大きさや、乾いた皮膚や、すりむいた痕があることに気づく。

    「ちっちぇー」

    柔らかな声と一緒に、いつもボールが受け取っているだろう彼の熱が手の甲を伝い染み込んでいく。それはだれかに自慢したくなるような、ほんの少しいい気分を彩子にもたらしたけれど、今はまだ胸に大切にしまっておくべきものだ。

    「本物を触りたくなった?」
    「それもあるけど、今はいいよ。今はアヤちゃんといたいからさ」
    「バスケットは、これからずっと一緒だものね」

    彩子の言葉に、リョータはわずかに視線を落とした。そこには二人の重なった手があり、リョータはなにかを言いたそうに唇を尖らせていた。

    「本物、触りに行きましょう」

    声を掛けると、弾かれたように顔を上げた。

    「今から?」
    「そう。体育館は無理だけど、部室なら構わないわよ。こっそり行きましょ」

    喧騒に紛れて、こっそりとドアを開けて教室を抜け出した。廊下は冬らしく冷え冷えとしていて、急ぎ足で部室へと向かった。三年生の教室がある二階はどこもうるさくて、ああ受験生なんだな、ということを思い出した。

    「リョータ、見送りに行ってもいい?」

    彩子は尋ねた。リョータは想像通り喜んで、何度も頷いていた。
    日付と出発時間。到着時間まで教えてもらった。頭にしっかり叩き込んで、部室へと歩いていく。毅然と、二人並んで歩いていく。スカートが揺れて膝をくすぐる。もうここを歩くこともないかもしれないと考えて、悲しくなった。

    もうすぐリョータはアメリカに行ってしまう。




    空港に向かおうと家を出たら、なぜか近くの電信柱に寄りかかっていたリョータがいた。せっかくだからさ、迎えにきたんだ。そんなリョータの言葉に、なんだかちぐはぐね、と彩子は笑った。けれど、少しでも長く過ごせるのは良いことだ。ありがとう、と言って歩き出した。彼の肩には大きめのバッグがかけられていて、ときおり音を立てていた。

    歩きなれた道を、当たり前のように慣れた足取りで歩いていく。大通りにでると、ぽつぽつと桜のつぼみがふくらみ始めている木が増えていた。駅に向かって、電車に乗り、流れる景色を隣に並んで眺めながら前に進んでいく。今日はとても晴れた日だった。一面に青がすみずみまで広がっていて、空が高くみえるからか、電車の走っている音がよく響いて耳の奥で流れていた。

    「荷物は送ったの?」

    彩子が聞いた。真正面の窓ガラスに映ったリョータが振り向いた。

    「うん。学校が始まるまで半年以上あるし、絶対に必要なものだけバッグで、あとは全部段ボール」
    「荷ほどき大変そうねえ」
    「詰めるのも大変だったよ」

    向こうで買うこともできるのだから何もかもを持って行かなくていいと分かってはいたけれど、いざ荷造りを始めると持って行きたいものはたくさんあったのだと、リョータは笑って答えた。へえ、それでバッグには何をつめたの? 彩子が尋ねると、彼は目を泳がせたあと、ナイショ、と言った。これはやましいことがある顔だとすぐに分かった。
    話をしていると、空港まであっという間だった。荷物を預けてくるというリョータを送り出して、空港に流れ込んでくる人々を眺めて待っていた。いろんな人がいて、別れたり、再会したり、旅行にいったり、仕事にいったりするのだろう。映画やドラマだと感動的なシーンにみえるのに、思ったよりも空港は雑多でごちゃごちゃしている。

    保安検査場の近くの椅子に座って他愛もない話をしていると、彼の家族がやってきて、あいさつをした。話をしていると、リョータがとても照れ臭そうに「もういいって」と言っていた。びっくりするほど時間が早く過ぎて、時間ぎりぎりまで粘ったのに、検査場を通る最終時間が迫ってきた。
    リョータは「アヤちゃん」とそわそわとした声を出す。彼の妹であるアンナがニヤニヤと笑ってこぶしを突き上げて、お母さんは少しだけびっくりした顔をしている。それもそのはずで、名前を呼ばれたと同時に彼が彩子の手を取り歩き出したからだった。

    「リョータ? どうしたのよ」
    「アヤちゃん。あのさ」

    広々とした空港の真ん中まで歩いていった。まるで、そこが世界の中心のようだった。行きかう人々が視界に入っては消えて、残像になっていく。はっきりと見えるのはリョータだけで、その表情はいつかの夜の日のことを思い起こさせたけれど、あの日よりも頼もしそうにみえるのは、きっと気のせいじゃない。

    「向こうに着いたら電話してもいいかな」
    「いいわよ」
    「手紙も書いていい?」
    「もちろん」
    「オレ、いまどんな風にみえる?」
    「カッコよくみえてるわよ。頼もしくも、みえるわね」
    「それ、初めて言われた」
    「そうかもね。聞かれなかったし」
    「そんなぁ……聞けばよかった」

    がっくりと肩を落としたリョータが残念そうに彩子をじっと見つめる。後ろから、最終アナウンスが急かすように流れていた。聞こえているはずなのに、手は一向に離れる気配がなく、離す気もなかなか訪れない。

    「ほら、そろそろ行かなくちゃ」

    つとめて明るい声で彩子は言った。寂しいか寂しくないかで答えるなら当然寂しいし、「好きだ」と告白されるのなら「私も好きよ」という言葉の準備はしていた。

    そう、あたしは宮城リョータが好きなのだ。

    「このままアヤちゃんを引っ張っていったら怒られるかな」
    「そりゃ怒られるわよ」
    「あーあ、やっぱりか」

    残念そうな声に柔らかな心臓をくすぐられる。繋がっていた手を離したら、リョータがわずかに傷ついた顔をした。しかたないわねという気持ちが湧いてきたと同時に、寂しさがどんどん膨らんでいく。押しつぶされないようにしっかりと足を踏みしめても、まだまだ足元は安定しているとはいえない。けれど、ぜんぜん悪い気はしない。むしろ、心地が良いぐらいだ。好きな人が好きなものに夢中になっている。自分でもびっくりするほど、その事実に幸せを感じている。

    「試合のときと一緒だと思えばいいのよ」
    「試合?」

    彩子の言葉にリョータが首を傾げる。

    「名前を呼ばれて、ベンチのみんなと手を合わせてコートに入るでしょ。こうやって、手を差し出して」

    右手を胸より高い位置で掲げた。リョータは目を開いて、数回瞬きをした。
    窓が大きくとってある館内は、太陽の光と天井から降りそそぐ電灯の光で明るく照らされている。行きかう人々の喧騒は試合前の雰囲気に似ているような気がした。わくわくと胸のざわめきと、少しの悲しみが混じり合っている空気。いつも、こうやってリョータを待っていた。どんなときでも自信たっぷりな表情をしている彼をみるのがなにより好きだった。

    「背番号七。宮城リョータ」

    ニッと歯をみせてリョータが笑う。彩子もにっこりと笑った。
    軽やかに手が合わさる。パチンと高らかに音が響く。手をつないでいたときより、一瞬触れた手のひらの方がずっと熱く感じた。

    「負けるなよ、リョータ!」
    「……任してアヤちゃん!」

    案内員がボードを掲げて「こちらの便の方はお申しつけください!」といくつもの国の名前を叫び始めた。そろそろ、本当に時間がない。だれかが手を挙げて走っていくのが視界の端に映っている。

    「オレ、アヤちゃんの笑った顔が好きだよ」

    リョータが言った。

    「だからまた、いつかアヤちゃんを笑わせる。オレがチームを強くしてさ」

    行ってくるね。

    そう言ったョータの声が遠くで聞こえた。
    背中を向けて走っていく。返事も言わせずに、どんどん遠ざかっていく。案内員に注意をされているのか、ぺこぺこと頭を下げている。だれか知らない、スーツを着た男の人が後ろに並んだ。リョータの姿が見えなくなった。それでも目を離せずにいた。見えなくなるまでは、ううん、飛行機が飛び立つまでは。考えながら、保安検査場のゲートを眺めていた。

    「リョーちゃん。あんな格好つけなんだ」

    と、アンナが楽しそうに声を弾ませた。控えめな、けれどどこか優し気な笑い声が重なっている。

    「妹だから言うわけじゃないんですけど、リョーちゃんは身を引くなんてタイプじゃないですよ」

    フォローもされた。おかしくて笑ってしまった。
    そんなに心配されるような顔をしていただろうか。

    「ありがとう。でも、大丈夫」

    ゆっくりと振り返る。目の前にはリョータの家族が立っていて、その後ろには大きな窓があり、広々とした青が広がっている。飛行機が飛び、まっしろな一本道を描いていく。ぐんぐん伸びていく。
    旅立つには良い日だと、本当に思う。リョータにぴったりだ。

    「実は」

    彩子はもったいぶるように言った。彼の母親と妹が、顔を見合わせて「実は?」と口をそろえた。
    期待に満ちた声に、心がくすぐられる。

    「あたしも、引く気はないんです」

    驚くほど自信たっぷりの声で言い切った。そして、三人で声をあげて笑った。
    えー、そうなの!? リョーちゃん、聞いてけばよかったのにー。アンナが後ろ手に組みながら歩き出す。ほんとう、聞いてたら写真も新しいのにできたのにね。と、彼女の母も同意した。写真ってなんのことですか? と彩子は意味が分からず問いかけた。リョーちゃんに絶対に必要なものだよ。二人は言った。それ以上は教えてくれなかった。やっぱり、あのバッグの中身はやましいものだったのかもしれない。



    家に帰ると、机の上にマル秘ノートが置いてあった。母親に尋ねると、ポストの中に入っていたのだという。全国制覇って一ページ目に書いてあるから、すぐにあなたのだって分かったわよ、と母は笑った。
    温かいカフェオレを淹れて、自室の机に座り、ノートを開いてみる。全国制覇から始まり、最初の数ページはみんなのことが書いてある。得点の内訳や、シュート成功率。ファウル数、リバウンド……新しいノートには、成長した彼らのデータが書き記されているのだろう。今年の目標も全国制覇だ。頼もしい後輩たちの姿が思い浮かぶ。
    ページをめくる。読むだけで、どの季節かすぐに分かってしまう。交換日記みたいなものだと言っていたけれど、どちらかというと日記だ。リョータと過ごしたことが、なんでも分かる。
    ふと思い出して、ページを進めた。ユーラブバスケットボール! を見つけた。アイラブユーの文字も見つけた。そうして、ちょっとした違いに気が付いた。

    ――I LOVE YOU! アヤちゃん!

    あのときにはなかった言葉だ。きっと、リョータがあとから書き足したのだろう。

    「リョータったら、さっさと返事させなさいよね」

    思ったよりも明るい声だった。寂しいけれど、ずっと元気だ。
    立ちあがり、窓を開ける。思いっきり伸びをして、息を吸い込む。まだ桜は咲いていないけれど、春らしい甘い風が吹いていた。もしかしたら、どこかのだれかみたいに、はやさ自慢の桜が咲いているのかもしれない。
    そのとき、ふわっと桜の花びらが視界に飛び込んだ。びっくりした。それ以上にうれしかった。

    どこまでも目で追っていく。
    それはゆっくりと丸を描いて、気持ちよさそうに風に吹かれて飛んでいった。



    ▽▽▽

    四月に入ってすぐにポストカードが届いた。きれいな外国の街並みが小さな四角の中に収められていて、見慣れない景色はどこか物語りめいてみえる。裏を返すと、見知った名前が書いてあった。もう一度裏返して、遠い外国の景色を眺めてみる。これからは彼の地で生きていくのだろうな、と考えるとわくわくと寂しさが押し寄せてきた。
    フォトスタンドを買いに行き、机の上に届いたポストカードを飾る。一緒に桜のカードを買って、返事を書いた。お元気ですか? とお決まりの言葉を書こうとしてやめた。聞かなくても元気だろうと思ったし、かしこまった書き方は他人行儀な気がしたからだ。

    手紙は月に一度のペースで届いた。
    そのあいだに電話もかかってきて、ほんの少しの時間ではあるけれど話をした。電話先のリョータはいつも緊張の声で「彩子さん、いますか?」と言う。それを聞くのが楽しみで、家の電話に出るのはいつのまにか彩子の役目になったことを彼は知らない。
    春を夏が追い越して、秋が迫り、冬に包まれる。そうして、春がまた芽吹く。
    こうやって彼と適度な距離感で過ごしているとあっという間に時間は過ぎていく。あいかわらず彼は彩子にバスケットの話をするし、彩子は彼のバスケットの話が好きだ。恋愛のことについて探りを入れるような会話はうるさく感じるけれど、まあ慣れているから我慢できる。むしろ、やりとりに懐かしさを感じる暇もなく当たり前の空気になることが心地いい。
    大事なことは、いま頑張りたいことは何なのかを忘れないことだ。遠く離れていても、お互いの様子が分からなくても、前を向いてしっかり歩いているということを報告し合えることは特別なのだということ。
    それを忘れなければ、これから先もきっと大丈夫。そう思っている。




    ▽▽▽
    三年後


    シラバスを持ってキャンパスを歩いていた。必修の講義とはべつに選択したい授業があり、詳しい一学年上の先輩を探していたところだった。部室に行けば会えるだろうか。いや、それとも授業中かしら。そんなことを考えていると、探していた先輩にばったり出くわした。相談に乗ってもらおうと口を開きかけたところで、先輩にバスケットの試合を見に行こうと誘われた。寝耳に水だった。
    NCAAのチケット。
    対戦校はとてもよく知っている名前で、いつか応援に行きたいと思っていた。それなのに、なんとなくあいまいな返事になってしまったのはどうしてだろう。

    「行かないなら捨てることになるピョン」
    「え! どうして!?」
    「そんなの簡単だピョン。俺と、君のためのものだからだれかに譲るわけにはいかないピョン」
    「なんですかぁ、それ……」

    差し出されていたチケットに視線を落とす。行きたいか、行きたくないかと聞かれたら、絶対に行きたい。
    素直に手を伸ばした。頭の中で、別に「私が行かないとは言っていない」と言い訳をしていた。そうだ。行きたいと思ったら行動していいのだ。
    指先にチケットが触れる。こんなに薄っぺらいのに、触れただけで胸が逸った。

    「パスポートは大丈夫だピョン?」

    先輩がリバイバルブームだと言って最近使用している妙な語尾で尋ねてきた。
    しっかりと頷いた。

    「ええ。パスポートは、高校を卒業したときに取っておいたので」


    それから一週間後に日本を発った。あまりにとんとん拍子に事が進んで、なんだか都合の良い夢をみているみたいだった。
    たどり着いた会場はすさまじい熱気と歓声に包まれて、圧倒された。

    そしてやっぱり、リョータと、リョータのバスケが好きなのだと思った。




    心臓がばくばくと音を立てている。日本でも試合を間近で見るけれど、あらゆるスケールが桁違いだと感じた。試合が終わって、観客が徐々に少なくなっても、椅子から立ち上がるのに時間がかかった。まだ、ボールの描くパスの軌道が瞳の中に残っていた。
    ふっと意識が戻ったのは、肩を軽く叩かれたからだ。振り返ると、大学の先輩である深津がいつもと変わらない表情で立っていた。

    「あ、すみません! なんだか興奮しちゃって」
    「別にいいピョン。それより、後輩に挨拶に行くけど、一緒に行くピョン?」
    「後輩?」
    「沢北だピョン。今回のチケットはアイツからもらったピョン」
    「ああ! なるほど、それで」

    なかなか手に入らない試合のチケットをどうやって深津が手に入れたのだろうと思っていたが、沢北が絡んでいたのだ。それならば納得がいく。けれど、今日の相手チームに沢北がいたことにちっとも気づかなかった。

    「すみません! なんだかちょっと、疲れたので先に戻っててもいいです?」

    彩子はだれもいなくなってしまったコートに視線を移したあと、ぺこっと頭を下げた。もちろん沢北のところにいけば、相手チームへの橋渡しをしてくれるかもしれない。それでも気が進まないのは、沢北の対戦チームにいた、リョータの活躍があったからだ。想像していたよりも、ビデオテープで見たよりも、実際はずっとバスケがうまくなっていた。明日の試合のチケットもあるのだから、ここで水を差すのはもったいない気がする……というのは建前で、会うのが少し怖かった。
    深津はじっと目を細め、彩子を見つめる。この先輩は口数が多いということもないけれど、だれよりも周りをみている。派手さはないが、試合でもまるでそこに行くのが当然のようにパスが通っていくのは堅実でいて、忠実さを覚える。

    「先輩は会ってきてくださいよ。久しぶりなんですよね」
    「……まあ、いいピョン」
    「へへ、すみません。ありがとうございます」

    ホテルまでの道のりを地図で確認して、会場を出た。時計を確認すると午後の四時を少し過ぎたところで、空には灰色の雲がゆっくりと風に流されていた。荷物はそのままホテルに送ってしまったし、日本でアメリカの天気なんて教えてくれるはずもなく、手持ちはノートが入るぐらいの小さなバッグ一つだけだ。本格的に雨が降り出す前に、なんとかホテルに帰り着きたい。

    歩いていると、少しずつ人々の塊が見え始めた。みんなバスケのユニフォームを着ていて会話を楽しんでいた。その人たちの中に「7番」を見つけて、いつの時代の7番なのかは分からなかったけれど誇らしい気持ちになった。

    試合を見ないってこういうことなんだわ。

    彩子はまっすぐに前を見つめて、ずんずんと歩いていく。歩いていないと、なんだか置いていかれてしまうような心地だった。連絡は取っていた。ときおり、ビデオテープも送られてきた。けれど、本物は比較にならない。高校生のころよりも、ずっと動きが大きく、大胆になっていた。パスなんて、まるで相手の手のひらに吸い込まれるようにコートを駆け抜けていく。思い出すだけで、胸がきゅっとつまる。

    会場を囲う塀が終わり、植物の種類が背の低いものから高いものに変わる。日本では見慣れない色の壁が道に沿って並び、かわいらしい手書きの文字の看板には湯気を出す大きなマグカップと「コーヒー」と英語で書かれていた。その先には本屋や雑貨屋もあるらしく、店先で従業員が空を見上げては慌ただしそうにしていた。
    そのとき、前を歩く男の人の一人が声をあげ、立ち止まった。

    「え?」

    周りがざわざわとどよめきだして、誰かが横を走り抜けていく。「rain」となんとか聞き取った。雨が降り出したのだろうか。「君も急いだほうがいいよ」と言われた気がした。前を向くと、誘導するかのように大きく手を振っている男の人と、その手を取って走っていく女の人がいる。
    まるで映画を観ている気分だった。街並みが違い、人種が違い、恋人かどうかは分からないけれど、男女のコミュニケーションが日本よりも大げさに見えたからかもしれない。空を見上げると、灰色の雲はずいぶんと重たい色をしていて、ずっしりとした図体になっている。
    動き出す間もなく、ぽつりと雨粒が空から落ちてきた。目の下の柔らかなところに落ちて、すーっと流れていくのを指先で掬ったとき、声をかけられた。

    「アヤちゃん泣いてる!?」

    勢いよく引っ張られ、体も景色も思いっきり揺れた。左手首がじんじんと熱い。雨が降りそうだわ、なんて考えがどこかに弾き飛ばされて、代わりに目の前に見知った顔が飛び込んできた。

    「リョ、リョータ!?」
    「そうだよ! てか、なんでアヤちゃん会場にいないの!?」
    「そ、そりゃ、試合終わったからでしょ」
    「でもオレに会ってない」

    適当にジャージを羽織ってきたのか、まるで部活終わりのようないで立ちで、不機嫌な顔のままじろっと彩子を見つめている。

    「とりあえずさ、こっち行こう」
    「ちょ、ちょっと、どこ行くのよ!」
    「雨がしのげるところ。最近異常に暑いときがあって、通り雨が多いんだ。ここらへん」

    少し前にみた光景を思い出した。手を引かれて、隣に並ぶ女性の後ろ姿だ。たしか、こっちの公園で雨宿りできるはずだけどなぁー。リョータが彩子の顔を覗き込み、走れる? と聞いた。わずかに高さのあるパンプスをはいていたけれど、走る分には問題ない。頷いて答えると、彼は掴んでいた手首を離して、手を握り直す。そういえば、最後に会ったときも手を引っ張られていたっけ。ずんずんと歩く背中は前にみたときと変わらず、彩子にはちゃんと頼もしくみえる。

    「濡れてない?」
    「大丈夫。リョータこそ平気? 試合あとなのに冷えたら大変だわ」
    「へへ、大丈夫。心配してくれてありがと、アヤちゃん」

    逃げ込んだのは、広々とした公園の中にある、幹を大きく広げた木の下だった。日本とはだいぶ趣の違うそこはブランコも鉄棒もなかったけれど、木々や植物がきれいに整備され、広々ととられた芝生ではランニングやヨガをするのだろうと想像できた。少し歩けばバスケットができるスペースもあるらしい。さすがアメリカだと妙に感心しながらあたりを見回していると、同じように木の下に逃げ込んでいる人や、キッチンカーのカフェスペースに避難している人がみえた。

    「あ! ご、ごめん……っ!」
    「なにが?」
    「いや、あの……手、握ったままだったからさ」

    リョータが照れ臭そうに言い足して、手をパッと離した。胸の前で広げて、やましいことなんてないんだというアピールをしているみたいだった。べつに初めてでもないし、嫌がったこともない。それなのにがっかりした気分になるのは、やはり離れていた時間がそれなりになるからだろうか。
    雨に濡れないギリギリのところまで歩いていき、そうっと空を見上げる。重そうな鼠色の雲はまだそこに浮いていたけれど、遠くの方は雲の隙間から光がさしていた。

    「ね。通り雨なんだ」

    リョータが適度な距離感を持って隣に並ぶ。雨が降っているからか、空気が湿ってリョータの気配をとても近くに感じた。試合が終わったあとの熱気と汗のにおい。じわっと空気ににじんで彩子の周りにただよっている。

    「なんで泣いてたの?」

    優しい声だと思った。心配されていると感じた。わずかに首を傾けると、まっすぐな視線に貫かれて、おかしくて笑ってしまった。さきほど見せた不機嫌さは走ったときに振り落としてしまったのかもしれない。
    フフッと体が揺れ、口元を抑える。そのあいだも、リョータの視線はずっと彩子に注がれていた。しかたないわねえ、という気持ちが久しぶりに湧いた。変わっていないところがあって、安心した。

    「泣いてないわよ。雨が落ちてきただけ」
    「へ……? え、えーーー、うそ!?」
    「あいかわらず早とちりねえ」

    呆れたふうを装って呼吸を整え、あっけにとられていたリョータを真正面から見つめた。髪は少し乱れているけどばっちり決まっているし、筋肉もついて体つきがたくましくなっていた。けれど、彩子を見つめる瞳は変わらない。よかったぁ、アヤちゃん。心底安心したといった声音に、きゅっと詰まっていた心地がほぐされていく。

    なんでここにいるのだとか、どうして会場にいなかったのだとかのあいだに、電話や手紙でやり取りをした話題が織り交ぜられていく。先輩にチケットをもらったのだとか、ちょっと興奮したから会場を出ちゃったのよだとかの返事をしながら、元気だったとか試験勉強がんばってるとか、そういう会話をした。何度も話した内容が、顔を見合わせて話すだけでとても新鮮に感じて、気づけば雨音がずいぶんと遠くに感じた。風がびゅっと吹き抜けて、葉についた雨粒を地面に落とす。見上げると、きれいな緑色が太陽の光を反射しながら揺れている。本当に通り雨だったらしい。

    「ねえ、アヤちゃん。今日の試合……どうだった?」

    リョータが振り向いた気配がした。視線がまつげの先でちらちらと揺れているのを感じる。

    「格好良かったわよ。すごかった」
    「本当に?」
    「ええ、本当に」
    「へへっ、やった。今でもさ、たまに思うんだよ。オレの相手はいつも手強すぎんだろって。身長なんて日本の比じゃないぐらいに差があるしさ。でも、アヤちゃんがカッコイイって言ってくれたから、オレの直観は正しかったのかも」
    「どういうこと?」

    ゆっくりと振り返る。二人の視線が交わると、彼はニッと歯を見せて笑った。

    「実は、ぜんぜん負ける気がしない」

    彩子は首をわずかに傾げ、うかがうように見つめた。鏡を見なくても分かるぐらい、顔が緩んだのが分かる。

    「余裕そうね」
    「まあね。オレにはさ、右手に特別があるから」

    開いた右手にそっとリョータが視線を落とす。そこにはただの手のひらがあるばかりなのに、彼はいつもそこにある何かを見て、大切そうにぎゅっと握り込む。空気がピンと張りつめた。試合の前の静けさのようだった。彼はいつも大事なシーンで、いつも右手をみていた。

    「好きだよ。オレ、ずっとアヤちゃんが好きだ」

    視線が迷うことなくまっすぐに彩子の胸を貫いた。おもわず、手を伸ばして彼の左手を握った。びっくりしたのだろう。目の前の彼は目をパチッと開いたあと、へ、と気の抜けた声を出した。体の奥底にずっと重なり続けていたものがゆっくりと這い上がってきていた。

    「あ、アヤちゃん……?」

    握った手から皮膚を伝って、彼の声が体中に響いている。大切にしていたものが、胸の中でゆっくりと熱くなって、飛び出したがっている。澄んだ空気を思いきり吸い込み、胸を張った。もう、逃がしてなるものか!

    「あたしもリョータが好き」

    彩子の声をきちんと届けるように、風がゆっくりと吹き抜けた。

    「ずっと、リョータが好きよ」

    締まらないって、こういうことを言うのだろうな。真正面で棒立ちしているリョータを見つめながら彩子は思う。けれど、気持ちは晴れ晴れとしてすっきりしていた。満足感もある。

    「リョータ」

    呼びかける。リョータの耳がカッと赤くなったのをみた。手を下に引っ張り、強引に一歩前に引き寄せた。

    「ねえ、ちゃんと聞こえたの? あたし、返事をしたわよ」
    「え、えっと……まじで?」
    「疑ってるの?」
    「いや、いやいやいや! 疑いたくない! すっげーうれしいし!」
    「そ。それならよかった。って、リョータってば泣いてるの!?」
    「だって、だってすっげえうれしいしいいい」
    「あー、もう。しかたないわねえ。せっかく雨には濡れなかったのに」

    バッグからハンカチを取り出そうと掴んでいた手を離そうとした。しかし手は絡めとられ引き寄せられた。胸が合わさる。心臓の音も重なる。ゆっくりと呼吸する音が耳元で響いている。

    「ダサいから顔を隠しといてくれない?」

    湿った声が耳をくすぐった。彩子は額を彼の肩に押し当てて、ことさら残念そうに言った。

    「なーんだ。抱きしめたかったからじゃないのね」
    「……アヤちゃん。もしかして、素直に言ったほうがうれしかったりする?」
    「ええ。リョータはいつも肝心なことは言わないんだもの」
    「そっか。じゃあ、抱きしめていたいから今はこのままで」

    うれしいんだけど、という前置きを二回ほど繰り返してリョータが尋ねた。なんでさっき急に手を握ったの? だって、リョータってばいつも返事を言わせないし。彩子は答えた。これまでに返事を言わせなかった思い出を彼の胸の中で次々と披露していると、リョータが情けない声をあげたのでやめてあげた。続きはこれからいつでも話すことができるはずだ。

    それからリョータの気が済むまで抱きしめられていた。背中に手を回したいと思っていたけれど、右手はつないだままだったし、左手はバッグが邪魔でうまくできなかった。伝えてみると体が揺れた。くくっと笑う声と葉擦れの音が、雨粒と一緒に心地よいリズムを伴って降ってきた。
    細く柔らかな雨を太陽の光が弾く。知らない誰かと犬が走り抜けていく。ワン、と高らかな声で犬が鳴いた。そのときやっとで、ここが外で、ただの広々とした公園だったことを思い出した。
    照れくささと期待に満ちた表情で、

    「アヤちゃん、座って話をしようよ」

    とリョータが優しくエスコートする。そのときには足を一歩踏み出していて、隣を並んで歩いた。体を離しても手は繋いだままで、繋いだままで良いという事実は彩子の体に心地よい甘さとなって広がり、適度ではなく気安い距離で座る心地よさを教えてくれる。

    「そういえば、どうしてあたしが試合を観てたって知ってたのよ。言ってなかったわよね」

    会場はとても広く、観客も数えきれないほどだった。上下左右関係なく、あらゆるところからコートに向けて歓声が打ち寄せていた。隣の人の声だってかき消されるほどの熱気に包まれた場所で、はたして、たった一人の存在に気づけるものだろうか。不思議に思っていると、なんともない声で答えがあった。

    「名前呼んだでしょ。リョータって。ちゃんと聞こえてたよ」
    「え、うそ。あの会場で?」
    「もう、バッチリ聞こえた。それに、アリウープしたの覚えてる? あのとき、オレずっとアヤちゃんをみてたよ」
    「……あたし、ずっとボール追いかけてた」
    「だと思った。めずらしく、目が合わないなーって思ったからさ」

    リョータが振り向いた気配がした。彩子も同じように振り返ると、眩しそうに目を細める彼と視線が交わる。彼はいつも、こんな顔をしていたのだろうか。

    「オレは、いつだってアヤちゃんの声を聞き逃したりしないよ。アヤちゃんの言葉でオレは立ち止まって考えるし、アヤちゃんの言葉で前に進む。今までも、これからも」
    「本当に? リョータがあたしの声で立ち止まったときってケンカのときばっかりじゃない」
    「そ、そんなことないって……! たぶん、たぶんね!」
    「ふうん。まあ、いいわよ。それでも」

    にっこりとほほ笑んだ。ほんとだからね、と念を押しているリョータの言葉を聞きながら勉強をがんばろうと彩子は思う。
    先輩である赤木が足首を痛めたとき。
    後輩の桜木が背中を打ったとき。
    どのような言葉をかけるのが良かったのだろうと今でも考える。きっと何を言ったとしても聞かなかっただろう。それでも、ふがいなさを感じなかったかと言われたらうそになる。選手でも、ファンでもない。支えるという立場を選び、これからもそこに立って歩いていきたいのなら、背中を押すためだけじゃだめなのだ。その先を見通して、言葉を尽くさなければならない。バスケットが与えてくれるものを受け入れられるように。
    たとえ選ぶのは自分ではなくても。たとえ大切に思っている相手でも。そうできるように、今もずっと歩いている。

    「あ、雨が止んだみたいだ」

    促され前を向くと、広々とした公園の木々を縫って木漏れ日が落ちていた。蒸気に反射して波のように揺れ動き、わずかにできた水たまりが光を弾いて輝いている。道が明るく照らし出され、ずっと遠くまで見渡せた。

    「アヤちゃんまだ時間あるよね? ていうか、いつまでこっち? あとさ、隣に座ってた男誰!?」

    すごい剣幕で言葉をまくし立てられ呆気にとられた。深々とため息を吐いて、首を振る。

    「あー、もう。うるせーうるせー」
    「うるせーってひどいよ、アヤちゃん! オレは心配してるのに!」
    「わかってるわよ。ちゃんとわかってる!」
    「ほんとに!? じゃあ、隣の男は誰!」

    ぎゅっと握られた手と、真剣すぎるぐらいの瞳にしかたないわねという気持ちが湧いた。心は気持ちよく揺れていて、リョータの必死な声でさえ格好良く聞こえてしまう始末だ。

    あたしって、思った以上にリョータのこと好きだったんだわ。

    と自分に呆れてしまいそうになる。けれど、ちっとも悪くない。それ以上に幸せを感じている。

    「隣の人は深津さんよ」
    「深津って、あの山王の!?」
    「そう。いま、同じ大学のバスケ部なの。それで、このあと時間はあるし、一応、明日の試合も見るつもりで、明後日には帰る予定」
    「そっか。あんまり時間がないな……行きたいとこがあんだけど」
    「行きたいところってどこ?」
    「レストランとか、あとはおもしろいところ。ていっても、すぐそこなんだけどね」
    「わかった! それってバスケができるところでしょ」
    「当たり。今日はボール持ってきてないから行ってもなー……あ、でも学校近いし取りに行ってもいいかも。いやいや、やっぱりレストラン……」

    生真面目な顔をしてぶつぶつと考えているのを眺めていた。これまで何度も同じように向き合って話してきたけれど、今までと違って見えるのは「好き」と伝えてしまったからだろうか。やけにリョータがキラキラとまぶしく見える。

    「ねえ、リョータ」
    「ん?」

    視線が交わる。口元が、聞きなれた「アヤちゃん」と形作ろうとしている。気安い距離はほんのわずか動くだけでずっと相手を身近に感じることができるから便利だ。ちょっとだけ腰を浮かせて身を寄せれば、簡単にキスができてしまう。

    「リョータがもう少し居たらって言ってくれたら、二日ぐらい延長してもいいかなって思ってるわよ」

    鼻先を触れ合わせる。初めてのキスは、あたしからだったわね。彩子はくすくすと笑い混じりに言って、もう一度唇を押し付けた。リョータとのキスは、想像していたよりも柔らかくて気持ちがいい。

    「違うよ。初めてのキスは、オレから」
    「え?」
    「あのさ、アヤちゃん。男はオオカミなんだって、オレ言ったよ」

    始めてのキスは、アヤちゃんが教室で寝てたときだ。

    風がふわっと吹き抜ける。お互いの背中を押すように、木々の音が心地よく上から降ってきて気分を盛り上げてくれているようだった。期待で濡れている彼の瞳を見つめ、にっこりとほほ笑む。
    この表情が、彼の好きな笑ったあたしであると良いと思いながら。

    「オオカミさん。それじゃあ、どうする?」

    彼の答えは、彩子の期待通りだった。



    けっきょく、レストランの予約は取れなかった。電話をしたけれど、人気店なのか一年先まで埋まってしまっていて、ただの学生である二人では予約をこじ開けるなんてことはできなかったのだ。
    差し出された左手をうれしく思いながら、手をつないで馴染みのないアメリカの街並みを歩いて回る。卒業をしたらどうするのだとか、国家試験はいつだとか、そういう近い未来の話をした。高すぎるビルも、海の近くない街も、どこも馴染みがないけれど、もしかしたら馴染む日がくるのかもしれないということを考えるのは早すぎるだろうか。
    歩いていると、電話が鳴った。先ほどかけたレストランらしい。どうしても諦めきれなかったリョータは一年後に予約を入れたいと申し出た。その返事がきたのだろう。
    流暢になっている英語に耳を傾けていると、予約が取れたとリョータはほくほくしながら電話を切った。よっぽどうれしかったのか、顔がにやついてる。

    そこ、そんなにいいお店なの?
    さあ、知らない。でもさ、チームメイトが言うにはプロポーズするならそこしかないって言ってたから。

    彩子の問いかけに、リョータはこともなげに言った。一年後、ぜったいに来てよ。オレはもっと強くなってるから。そう言って、手をぎゅっと握る。まるでそこに心臓があるかのように、触れあう肌から熱と鼓動が流れ込んでくる。
    メモを取ってもいい? 
    そう言いたい気分だった。右手に持ったバッグには、高校時代の彼の望み通り「交換日記」にしたマル秘ノートが入っている。そこに一年後の日付と時間と予定、重要の重を書きこんで四角で囲みたい。けれど、今は出さないほうがいいかもしれない。楽しみは試験のご褒美にするのもいいかもしれない。

    ――I LOVE YOU! アヤちゃん!

    ノートに書かれた言葉を思い出す。
    そして、その隣に書いた返事の言葉も。

    彩子はバッグの取っ手を強く握りこみ、隣を歩くリョータを見た。春らしい甘さのある風が、二人のあいだをゆっくり吹き抜けている。
    我慢できずに、笑ってしまった。

    「オレ、やっぱりアヤちゃんの笑った顔が好きだな」

    リョータが言った。へへっと笑う彼の横顔を眺めながら、さっき見せてくれた余裕そうな表情を思い出した。胸がきゅっと詰まる。

    「あたしは、バスケットを大好きなリョータが好きよ」

    彩子は答えた。

    だから、あともう少しだけ。
    きっと、ずっと大好きだから、プロポーズの返事はもう少しだけナイショにしておこう。





    ▽▽▽

    丸く収まったみたいだピョン。

    一行だけの簡素な報告メールに、持ち上げていたコップをテーブルに置いた。向かい側に座って、スーパーで買った焼き鳥をレンジで温めるかグリルで焼き直すか迷っていたらしい木暮が顔をあげ、怪訝そうな声で三井の名前を呼ぶ。ニヤッと口の端を持ち上げると、察したらしく焼き鳥はあっけなくレンジに突っ込まれた。ブォーンと鈍い音が部屋に響く。楽しい話題には早急につまみが必要だということを、木暮はきちんと分かっている。

    「おい、赤木も来いよ。とうとう来たぜ、深津から」

    狭いキッチンででかい体を縮こませてスティックにするためのキュウリを適当に切っていた赤木が振り返り、あとちょっと待て、と勢いよくトントンと包丁を鳴らしている。三井は立ち上がり、冷蔵庫からマヨネーズと一味と醤油を取り出した。適当に出しておけば、それぞれが好き勝手に食べる。宅飲みの良いところはその自由さにあると三井は思っている。そのあいだに、温まったらしい焼き鳥がテーブルの真ん中に置かれた。甘じょっぱい匂いが立ち込めるなか、三人がそれぞれ定位置に座り、本日何度目かの乾杯を行う。グラスの重なる音は小気味よく響いて景気が良い。

    「それで、なんだって?」

    行儀悪く肘をついた木暮が聞いた。めずらしくビールを煽って、赤い顔をしていた。

    「丸く収まった、だとよ」

    三井は焼き鳥を手に取り、てっぺんのネギをかじった。赤木がこれみよがしにため息を吐き、キュウリにべっとりとマヨネーズを乗せる。

    「そんな分かりきってたことを聞くために深津に連絡を取ってたのか」
    「分かりきってたって、結果ぐらい知っときたいだろ。こっちは影の功労者なんだからよ」
    「影の功労者って……勝手にしたことだろ」

    三井の言葉に、木暮が笑い混じりに言葉を返した。本気で責める気も、悪いことをしたとも思っていないので、言葉尻は柔らかく、むしろねぎらいさえ感じる。

    「まあ、卒業したら付き合うと思っていたからな」

    赤木がしみじみと答えた。二人もそれに頷く。

    「付き合うと思うよなー。だってよ、どうかんがえても彩子は宮城を好きだっただろ」
    「オレたちが引退したぐらいは分からないなぁ。ただ、どうみたって特別だったとは感じてたよ」
    「ほらみろ。オレからすりゃあ、あの状態で今まで過ごしてきたことのほうが驚きなんだよ。赤木は聞いてなかったのか、晴子から」
    「別に聞いとらん。ただ、仲良しだとは言っていた」
    「……晴子は鈍いのか、それとも大物なのか。今度はあっちか……」
    「おい三井、人の妹を呼び捨てにするな。あと、あっちとはなんだ、あっちとは」
    「あっちはあっちだろ。まさか分からねーなんて言わねえよな?」
    「まあまあ、いいじゃないか。祝いの席なんだからさ。勝手にやってるだけだけど」

    高校の後輩である宮城と彩子は卒業をしたら付き合うと思っていたのは三人の共通認識だった。日頃から宮城は彩子を好きだと言って憚らなかったし、彩子は彩子でそれを受け入れているように思えた。だから、宮城がきちんと告白をすれば事は丸く収まると思っていたのだ。三年前までは。

    「あれで告白してなかったとか、うそだろ」

    三井が新しい缶ビールを開け、自分のコップに手酌したあと赤木のコップに残りを注ぎきる。

    「本人的には告白してたつもりなんじゃないか? 振り向いてくれないって安田や桜木にこぼしてたらしいし」

    木暮が眼鏡の位置を直しながら答える。とにもかくにも、二人がやっとで好意を伝え合ったのはいいことだ。それ以上のことは聞かなくていいし、知らなくてもいい。今は二人がうまくいったという事実でおいしく酒が飲めればそれでいいのだ。

    「次はオレたちも行くか、アメリカ」
    「いいな。次こそは宮城にチケット送ってもらおうぜ。ついでにNBAの試合も取らせりゃいいだろ」
    「できるのか? そんなこと」
    「知らねーよ。でもまあ、影の功労者だからなオレたちは。やってもらうしかねーだろ」
    「……はぁ。まったくお前らは……」

    木暮の言葉に三井がどこのチームの試合がみたいと言い始め、赤木は呆れたようにため息を吐いた。それでも、この提案を悪くないと思うぐらいのことはしたつもりだ。宮城に気づかれないように深津を介して彩子をアメリカに送ったのは、かつて湘北高校のバスケ部だったメンバー全員なのだから。

    「そうだ。安田には連絡! 一番の被害者はあいつだったろ。彩子に男ができないようにとにかくなんでも報告しろとか厄介すぎだっつうの」

    三井が言って、携帯電話を取り出す。赤い顔をして、電話を耳に押し当てる。こんなことを言いながらも、二人が付き合い始めたということを三人の中で一番喜んでいるのは三井だ。赤木と木暮が引退したあとも、三井は冬の選抜まで部活に残っていた。だからか、思うところはたくさんあるらしい。二人は顔を見合わせ、肩をすくめる。
    数回のコールのあと、安田が「もしもし」と言ったらしいのが聞こえた。

    「お、安田か? 宮城と彩子のことだけどよ……」

    酔いの回った気持ちよさそうな声で話始めてまもなく、三井がげらげらと笑い始めた。驚いたけれど、笑っているということは良いニュースなのだろう。赤木と木暮は、おぼろげに聞こえる電話に耳を傾けながら再び乾杯をした。

    「ナイスパス」
    「……ああ、ナイスパスだ」



    一年後、宮城が彩子にプロポーズを予告したと教えてもらったのは、それからすぐのことだった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖☺🙏💖💖🙏😍😍🙏💖💖💖💖💖🙏☺💕💕🌋💖💖💖💖💖☺🙏💖💖💖💖💗💗💗💗💗💗💗💗💗👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works

    pagupagu14

    DONE蛇の誘惑/愛忠
    暦をダシにイチャつく愛忠。ヤキモチを妬く愛之介様のお話です。強かな受けが好き
    蛇の誘惑 愛忠

     愛之介用の軽食は忠お手製のサンドイッチでSの後に食べてもらうことにしよう。当の本人はスノーとのビーフに夢中だし、と言うわけで忠は一人その光景を見つめながらファーストフード店とハンバーガーに齧り付いていた。たまに、こう言った安っぽい味が無性に食べたくなるのだ。こう言う価値観はきっと愛之介に理解されないと知っているからこうやって忠は目を盗んで食べていたのだがそれに近づく存在、暦がいた。
    「美味そうなの食べてるな」
    「…君か」
    はぁ…ため息を吐くと暦は何なんだよ!と声を上げる。
    「君もスノーが取られて暇なのか」
    「いや…そういうわけじゃ、いや…そう、なのか?」
    「私が知るか」
    そう言いながら忠は食い入るようにモニター越しに愛之介を見つめる。
    「…あんた、ほんと愛抱夢のこと好きなんだな」
    「当たり前だ」
    顔色ひとつ変えずさも当然のように忠は返す。
    「私にとって愛抱夢様は唯一無二に等しく、人間にとっての酸素と同じだ。愛抱夢様がいなければ息をすることなど出来ず私は死んでしまうだろう」
    熱烈な愛の告白を淡々と紡ぐ忠に若干引き気味の暦に楽しそうに忠は笑う。
    「君には分からないでいい 1675

    hinoki_a3_tdr

    DONEガスウィル
    別れようとしたウィルと荒療治でつなぎとめることにしたガスト
    「別れてくれ」
     たった一言。それだけで、世界から一人と残されたような、うら寂しさがあった。
     俺とアドラーは恋人同士というものだった。俺は、アドラーが好きだった。アキラの一件があったのにも関わらず、俺はアドラーに惹かれていた。そんなときに、アドラーに告白されたのだ。嬉しかった。が、同時に怖くなった。だって、俺の中にあるアドラーへの感情はプラスのものだけではなかったから。
     アドラーへの恋心と一緒に、彼への恨みのような感情もまだあった。そして、それが今後消えないだろうことも、なんとなく分かっていたのだ。こんな俺では、いつかきっと振られる。今が良くても、いずれ破綻することだろう。そんな想像から、俺はアドラーを先に振った。そうすれば、無駄に傷つくことはないと。
     だが、アドラーは諦めなかった。何度も何度も俺に告白してきて、その度に俺は、アドラーを振って。傷つきたくないからと始めたことが、どんどん傷を増やしていく。俺だけじゃなくて、アドラーにも。それは、本意ではなかった。だから、受け入れることにしたのだ。アドラーの粘り勝ちと言ってもいいだろう。
     大喜びするアドラーに、これで正解だったのかも 4699