あなたの名字になるわたし　「よぉ、真面目ちゃん」
　お昼休み、廊下を歩いている時に、ふいに頭上から呼び止められた。

　おそらく教室からわたしを見かけて声をかけてくれたのだろう。

　見上げなくても分かる。
　その声を聞き間違えるはずはない。

　それに…わたしをそんな風に呼ぶのはたった一人だ。

　御影小次郎先生…わたしの好きな人……

　「御影先生、なんですか？」
　見上げながら、少しだけ小首を傾ける。
　少しでも、少しでも、御影先生の目にわたしが可愛く映りますように。
　祈るような気持ちを込める。

　「あのな、今日用事とかあるか？」
　「ないです、ないです用事なんて全然ない」
　少し食い気味に答えてしまって気恥ずかしさで頬が熱くなる。

　一緒に帰る約束かな…放課後に下駄箱や正門で偶然会って何度か一緒に帰ったことがある。
　だけど、昼休みに誘って貰えるなんて初めてで正直すっごく嬉しい。

　もし一緒に帰れるなら、お茶に誘ったりしてみてもいいかな、先生の好きな料理とか好きな音楽とか質問してみたい。
　
　「大切な、話があるんだ、今夜おまえの家に行くからいい子で待っててくれ、な？　おうちの方には話してあるから」

　真剣な目に吸い込まれてしまいそう。

　お昼休みの廊下なんて騒がしくて当たり前で、先ほどまでは確かにその喧騒に包まれていた、でも今は一切の音が遠くにあるだけで、静寂が広がっているような気すらする。

　ただ先生の言葉に、首をコクコク振って頷くのが精一杯だった。

　「んじゃ、頼むなー」
　わたしの頭をポンポンと二回撫でて、ニコッと笑う。
　他のたくさんの生徒たちにかけられる声に答えながら遠ざかっていく大きな背中。いつまでも目が離せない。

　顔、……あっ、つい……。
　
　今夜おまえの家に行く。
　確かにそう言っていた。

　え？　え？　え？　なんで？
　脳の処理速度はとっくに超えてしまっている。

　大切な話ってなんだろ…

　お嬢さんを僕に下さい…？
　ボンッと大きな爆発音が響いた……気がしたけど、それはわたしの脳内でだけで、周りの誰も爆発音には気付いていない。

　いつの間にか廊下はいつも通りの喧騒を取り戻していたけれど、わたしだけがそのままその場から一歩も動けずにいた。

　結局お昼は食べ損ねたけどお腹が不満を訴えることはなかった。
　多分全然それどころじゃなかったから。

　5時間目も6時間目も昼休みの出来事を脳内で反芻しながらただ時間が通り過ぎるのを待った。

　お嬢さんを僕に下さい、は…ないかな
　だって先生とわたしはお付き合いをしている訳じゃないし。

　三者面談…一番現実的ではある。
　でもそれは普通は学校で行われることだから、夜に自宅でなんて聞いたことがない。

　あ、もしかして先生も秘かにわたしのことを…すす好き…だったりなんかして？
＝＝＝
　義理堅く、親の許可を得てから交際を…とか？　あり得る気がする。

　美奈子さんとの、結婚を前提とした交際を認めてください、とか言われちゃうのかも。どうしよう。嬉しい。

　とにかく、今夜、うちに御影先生が来る。
　
　□　□　□

　わたしが家に帰った時、ママはまだ帰ってきていなかった。

　「ただいま、お父さん」
　写真の中で微笑むお父さんは年を取らない。

　11年前仲良しの男の子が急に遠い国に行ってしまったと泣くわたしを抱き上げ、お父さんはずっと美奈子と一緒だぞ、と笑った嘘つきのお父さん

　ちょっと天然でおっちょこちょいだけど明るくて優しくてお料理上手なママと二人で仲良く楽しく暮らしているのでどうか見守ってて、もしかしたら今日はヤキモキしちゃうことがあるかもしれないから覚悟しておいてね……手を合わせるのもそこそこに自室へ引き上げる。
　
　みちるちゃんの情報だと、先生はセクシーな服装が好みらしい…何を着よう、少しでも、先生の理想に近づきたい。

　肩ひもチュニック…レザースカート…に、チェック柄のティアードチュニック、薄くメイクもして、目の前のフォトフレームの写真に問いかける。

　「どうですか？　みか……小次郎…さん？」

　カッコいいなぁ…隠し撮りなのにちゃんとカメラ目線で笑っている先生の写真にそっと口付ける。
　硬くて冷たい感触のキス…もし…もしも直接触れたら、どんな感じなんだろう。

　「やっぱりこのノートの威力なのかな…」
　小さく独り言を呟きながら、引き出しからノートを取り出し、机の上に広げる。

　真新しいノートに、緑色のペンで好きな人の名字と自分の名前を書く。
　一日一回真夜中に名前を書くのを百回続けられたら…願いが叶うというおまじない……

　御影美奈子
　御影美奈子
　御影美奈子

　ノートには、九十九回分の願いが綴られている。
　指でそっと撫でる。

　先生に話しかけられてスーパーでスペシャルな無敵な気分で書いた名前がある。
　他の女生徒と仲良さげに話している姿をみて泣きそうな気持ちで書いた名前がある。

　今夜が百回目……
　
　「ただいまー、美奈ちゃーん、いるー？」
　階下からのママの呼び掛けに「いるよー」とだけ答える。

　ご飯の支度をしているであろうママのお手伝いに行くのが気恥ずかしくて、階下に行くことが出来なかった。
　だって今日、生まれて初めてプロポーズされるかもしれない…プロポーズはちょっと気が早いかもだけど。

　嬉しいです？　わたしも好きです？
　頭の中で、プロポーズへの返事を妄想する。
　今までだって何度も妄想をしていた。

　例えば理科準備室でふいに触れた先生の大きな手にぎゅっと力が込められたら…
　例えば夕焼けの教室で抱き締められたら…
　いつも恥ずかしくて、きゃーとなる、その先が今日……

　ピンポーン

　チャイムの音に飛び上がる。
　どうしよう、どんな顔で出迎えたらいいの？

　「あらー、先生どーも、いらっしゃいませ。どうぞあがって、もうすぐご飯出来ますから」
　「あ、すみません。もしよかったらこれ、えっとお土産というか」
　「まぁ、美味しそうなイチゴ、美奈ちゃーん、おりてらっしゃーい、先生からイチゴいただいたわよー」

　まるでなんでもないという顔で、階下に降りていく、心臓はバクバクとうるさいけれど。

　違和感に気が付いたのは、食事がはじまってすぐだった…

　先生とママが並んで座ったから

　「あー、それでだな。…言い出しにくいな……つまりな、こういうことになってだな」
　先生がママの左手を持ち上げる。
　薬指に光る宝石いし…キラキラしているのはわたしの目が涙でにじんでいるから？

　「もっと早く美奈ちゃんに言いたかったんだけどね、小次郎さんがタイミングがって言うから」
　「さすがに娘の成績を父親がつけるのはナシだろー？だから、その辺りが全部終わってからってな。入籍は卒業式の後にするつもりだから、おまえも『御影美奈子』になってくれるか？あ、もちろんイヤなら無理にとは言わないからな、呼び方も別にパパとかお父さんじゃなくても…」
　手、ずっと繋いだまま……

　「ごめんなさい、ちょっと昨日夜更かししちゃって、疲れた感じだからご飯いいや、先生のイチゴも明日食べるね……ママ…おめでとう…」
　10年間わたしを一人で育ててくれたママの幸せを反対することなんて出来なかった…

　部屋に戻ってすぐノートを破って捨てた。

　「『御影美奈子』って、こういうことじゃない！願いの叶い方のクセがすごい！あーもーわたしバカみたい！今夜プロポーズされちゃうかも、とかって！バカみたい！それからお父さんのバカー！どうして死んじゃったのよー！どうして10年位で忘れられちゃうような愛し方したのよー！」

　・　・　・

　「…奈子、……美奈子」
　「んっ？…お父さん…」
　「勝手に部屋に入ってごめんよー、ひどくうなされてたみたいで、お父さんのバカー！って聞こえたから、心配で」

　……夢？

　「うわーん、お父さんお父さんお父さん、どこにも行っちゃやだー！」
　「どうした？怖い夢でも見たのか？子供みたいだな、大丈夫、お父さんはずっと美奈子と一緒だぞ」

　今までの人生でこんなにお父さんが大好きって思ったことないかも。
　長生きしてね、お父さん