信じてる麓の明かりなど届かない山奥、私有地の柵を抜けた先。
そこにあるのは、大小様々な瓦礫の山。
「たとえばきみがーきずついてー」
その中を一人の男が歩いている。
全身黒ずくめで、唯一首から上だけがぼんやりと白く浮かび上がって見える。
「くじけそおーになーったときは」
黒ずくめの男──五条は長い両腕を持て余したように上着のポケットに差し込み、これまた長い両脚で器用に瓦礫をひょいひょいと避け、まっすぐどこかへ進み続ける。
「かならずぼくがーそばにいてー」
やがて瓦礫の山が壁となり、五条の行く手を阻む。
途端、立ち塞がる瓦礫は五条の目の前で弾け飛んだ。
「ささーえてあげるよそのかたをー」
「…あなた、その曲知ってたんですね」
「うん。津美紀が教えてくれた」
瓦礫の向こうに、男が一人、蹲っていた。
窓からの情報によれば、ここには廃墟と化したホテルが在るはずだった。
高度経済成長期に建てられ、今はただかつての泡と共に朽ちていくだけの、ただの廃ホテル。
しかしいつの間にか心霊スポットなどと呼ばれ始め、私有地への不法侵入者が相次いだ。
この山に曰くやいわれなど、ありはしなかった。
半年ほど前から、近隣の山々が都市開発により切り崩され始めた。
その中に周辺の呪いの楔となっていた土地神の祠があった為に、不幸にもそこから溢れだした呪いの受け皿となった場所、それがここだった。
そのホテルも、もうない。
結果としてこの場にそぐわないスーツ姿をボロボロにした男が、この瓦礫の山を作り出した。
それが全てだった。
「あなたの腕は二本しかないんですから、もっと別のことに使う方が有意義ですよ」
「例えば?」
「呪いを祓うことですね」
「じゃあ、今は?」
「は?」
「呪い、お前が祓っちゃったデショ。じゃあ今、この手は何に使ったらいいの?」
五条はしゃがみ込み、埃まみれの男の顔を覗き込んだ。男のまえで五条の大きな手がひらひら揺れる。
その視線からも、その両の掌からも男は鬱陶しそうに逃れる。
「ささーえてあげるよ、」
「歌わなくてよろしい。もう少し休めば自力で歩けますから介添えも結構」
ちぇーつまんないの、とぼやく五条に男はため息を吐きながら問いかける。
「こんなところまで何の用です」
「ん?せっかく伊地知が気を利かせて半ドンにしてくれたのに、肝心のお前が残業万歳だっていうから見に来た!」
両手でピースサインを出し、唯一顔面の中で感情の見える口元がにぱっと開いた。
「悠仁達がね、お祝いにケーキ用意してくれたんだよ。でも何でか一切れしか食べさしてくんなかったの。ひどくない?そこは主役の僕にワンホール譲るべきだよね?」
「生徒相手にたからないでください」
五条は不貞腐れたように両手の拳で自分の両頬を潰した。いい歳して何をぶりっ子しているのかと呆れていると、今度は標的が別へと移ったようだった。
「別にさ、お祝いしてくれることが嫌だったんじゃないよ、もちろん嬉しいさ。でも今まで通り、毎年この日は任務ぎっしりでも構わなかったんだよね」
せっかく綺麗な形をしている口元をへの字にひん曲げながら、視線は男から逸れて、どこか遠くに向けられている。
それが内心気に入らないと思いつつ、しかしそれを表に出すことはなく、五条の横顔を見つめる。たとえ目元が物理的に見えずとも、この男の視線は良くも悪くもうるさいのだ。
現に、すぐにこちらを非難するような視線が向けられるのを感じた。
「なーのにどっかの誰かさんが変な気回して僕の仕事持ってっちゃうしさァ~?」
「そうですか、それは随分と酔狂な人もいたようで」
そう、本来なら、今日の任務は五条が赴く筈だったのだ。
それを横から掠めとったのがこの男──七海である。
なおもぶーたれる五条を適当にあしらいつつ、七海は左手首の腕時計を覗き込みつつ、右手で胸ポケットを漁り始める。
やがて目当ての物を見つけると、何かが握られた拳を五条の前に突き出した。
「五条さん」
「なに」
「この後のご予定は?」
「なァ~んもありませんけどォ~?」
まだ拗ねてるんですよアピールをしつつも突き出された拳の下に掌を上にして差し出すと、拳の中からちゃりんと音を立てて金属製の何かが落とされた。
「私はこの後一度高専へ戻りますので、あなたは先にそれで家に上がっていてください」
掌に乗っているのはどこかの鍵だった。今の話を聞くだに、七海の家の鍵だろう。
「それは差し上げますから、失くさないで下さいよ。鍵を付け替えるのも面倒だ」
その言葉に五条は目を丸くする。これまでどれだけ合鍵を強請ろうとも頑として聞き入れなかったというのに、いったいどういう風の吹き回しか。
「いいけど、すぐ帰ってくんの?」
「ええ。報告書は後日で構わないと言われていますし、医務室で軽く手当てを受けるだけですので」
ちなみにこの男、いつにもまして不愛想だが、照れているのであろうことは容易に察せられた。
先ほどから無意味に腕時計を見続けているのがその証拠である。
そうして、漸く心身ともに落ち着いたのか、七海が顔を上げた。
今度はきちんと五条の顔を見つめながら、右手を差し出す。
「手を貸してくれませんか」
「肩じゃなくていいの?」
五条が首をかしげにやにやと笑いながら右手を差し出すと、それを振り払い、無理矢理左手を掴まれる。
その意図に気付くと、小ばかにしたような笑い方から純粋に嬉しさを溢れさせた笑みに変わる。
そのまま引っ張り上げられた手は、二人が歩き始めても離れないまま繋がれている。
「あなたの腕には大勢の命が乗ってるんですから、私まで乗せなくていいんです」
「そうなの?でもそうするとお前に抱き着けないよ」
「そこは私があなたを抱きしめるので問題ありません」
しれっと返された言葉に五条はとうとうぶはっと噴出した。嬉しくなって繋がれた手をぶんぶんと大きく振る。
しまいには鼻歌まで歌いだした恋人の様を見た男の口元は、五条から見えない位置で微かに綻んでいた。
「家についたら冷蔵庫の中の物を出しておいてください。温めるだけにしておきましたから」
「オッケーオッケー!」
「住所は後程送っておきますので」
「何引っ越したの?オッケーオッケー!」
「ええまあ、家を買いまして」
「オッケーおっ、なに?」
軽快に歩いていた脚がぴたりと止まる。
脚どころか、五条の全身の時が止まった。
動きを止めた五条に気付き、七海も振り返る。
二人が動きを止めると、辺りはたちまち静寂に包まれる。
先に破ったのは五条だった。
「家買ったの?」
「はい」
「お前が?」
「ええ」
「借りてたマンションは?」
「引き払いましたよ、今は戸建てです」
「戸建て」
「はい」
七海は呆然としている五条の顔に自分の顔をぐっと寄せ、互いの唇が触れ合う距離まで近付くと、ふっと声を漏らした。
七海の吐息が五条の唇にかかる。
「ちゃんとあなたの部屋もありますよ」
──この後、指示された住所に向かい立派な庭付き一戸建てを見た五条の思考が再度止まるまで30分。
家の冷蔵庫にぎっしりと詰め込まれたごちそうとそのど真ん中に鎮座するワンホールのケーキの箱に気付き、三度目の思考停止に陥ったのち、以前男が借りていたマンションで五条が特に気に入っていたリビングのラグで奇声を発しながら転がるまで40分。
結局、男が帰宅するまでに五条は料理を準備できず、二人で支度を始めるまで1時間。
一目見てバースデーケーキとわかる代物を五条がほとんど一人で食べきる頃には、すっかり日付も超えてしまっていた。
かくして、今年の12月7日も、五条悟の誕生日はいたって普通に過ぎていった。