ひねくれた心を解きほぐして「もう、ミスラなんて、知りません…!」
夜も更けて、魔法者全体が寝静まった頃。
額縁から影を伸ばした双子に宥められながら、賢者はまるで幼子のように、嗚咽を漏らしていた。
「よしよし、賢者ちゃん、泣かないでー!」
「朝になったら、オズちゃんに怒ってもらおうねー!」
ぐすっ、と啜り泣く賢者の目元には、絶え間なく涙が浮かんでは流れていく。普段から声を荒げたりしない分、今回は余程の事が賢者を襲ったのだろう。
「優しい賢者にここまで言わせるとはのう…。」
「ミスラちゃん、一体何をしたんじゃ…。」
目を見合わせた双子を見て、ようやく落ち着きを取り戻したのか、賢者は涙を拭う。あまりにも動揺して、思わず彼らの部屋へと飛び込んだのだが、理由を話す前に泣き崩れてしまった。
けほっ、と軽く咳払いをして、賢者は話し出す。
「実は…。」
♢
事の発端は、数時間前に遡る。
いや、厳密に言えば、もう少し前からなのかもしれない。
賢者として召喚されてから、彼は毎日忙しい日々を送っていた。連日飛び込んでくる依頼や調査の仕分けと精査、各国先生役との相談やグランウェル城での謁見等々。
早い話が、それらを終える頃には、もう夜も遅い時間となっている。眠気も徐々に増していくがー1日を振り返る為、賢者の書を毎日書く事は欠かせない。そうして決まって賢者の書に綴っていく内に、今日もまた客が訪れる。
「こんばんは、賢者様。」
「……おあ!?…こ、こんばんは、ミスラ。」
ノックもなく現れた突然の気配に、危うく握っていたペンを取り落としそうになった。背後を振り返ると、深い隈を纏わせた長身の青年が、勝手知ってる様子で賢者のベッドに腰掛けている。
不眠の傷を緩和するには手を握るだけでも効果はあるのだが、賢者が高い確率で床に寝落ちするという事案が発生してからは、添い寝が基本となっていた。
「まだですか?俺を待たせるのもいい加減にしてください。」
「えっと、本当にあともう少しだけで終わるので…!すぐ終わらせます!」
背後からの威圧感が増していく一方だったが、それでも今日の分は終わらせたい。明日も明日で、忙しいだろうから。
机に必死で齧り付く賢者を眺めていたミスラだったが、ふと首を傾げる。
「あなた、そんな物持ってましたっけ。」
突如投げかけられた問いに、賢者は「え?」と振り返った。ミスラの視線を辿ると、机の上に鎮座している置物が、賢者の視界に映る。それに気づいた賢者は、パァッと綻ぶような笑みを浮かべて返事をした。
「これ、今日の市場で見つけたんです!なんだかもう、運命の出会いをしたような気がして。」
「はぁ、あなた本当に猫が好きなんですね。」
賢者が颯爽とミスラの前へと差し出したのは、猫の貯金箱だった。既に幾つかの硬貨を入れているのか、賢者の動きに合わせてカラン、と軽い金属音が響く。
「大金を貯めるつもりはないですが、これを見ると頑張って貯めようという気持ちになります。」
「そうですか。」
(すっごく興味なさそうだ…)
既に興味が尽きたのか、あるいは最初からそれほど関心はなかったのか。いずれにせよ、ミスラはもう猫の貯金箱を見ていなかった。
「それよりも、もう良いでしょう。さっさと寝ますよ。」
「ああっ!?灯りが!!」
問答無用で室内灯を消されて、部屋が暗闇に包まれる。
これ以上ゴネて、彼の機嫌を損ねるのは危険だろう。賢者は仕方なく本を閉じ、立ち上がった。夜目が効かない中、なんとかベッドに辿り着くと、スペースがぽっかり空いているのが分かる。ゆっくりと中へ入り込んだ途端に、逞しい腕に抱き留められた。
「わぷっ!」
「あはは、へっぴり腰で歩くあなたの姿は面白いですね。」
「仕方ないじゃないですか、見えないんです…!」
言葉の通り、ミスラの顔すら見えないが、彼が屈託なく笑っている事は容易に想像できた。過酷な北の国で生きてきた彼からすれば、この程度の闇は問題ないらしい。
彼はそのまま賢者の頭を胸に抱えると、徐に口を開いた。
「さぁ、今日は何を聞かせてくれるんですか?」
温もりと鼓動に包まれながら、賢者は懸命に頭を巡らせる。正直この時点で限界に近いのだが、今寝落ちしたら翌朝大変なことになるのは予想できる。ここが頑張りどころだと気合を入れ直し、賢者は訥々と語り出した。
♢
奇跡的にも傷の緩和に成功した賢者は、晴れやかな気分で翌日を迎えた。爆睡しているミスラを起こさぬよう慎重にベッドから抜け出し、いつも通りの忙しいスケジュールをこなす。
そして今日もまた、夜も遅い時間に部屋へと戻ると。
「…えっ…!?」
いつもと変わらない風景、いつもと変わらない日常。それが瞬く間に崩れたのはー無惨に破壊された、猫の貯金箱のせいだった。
バラバラになったそれは、もはや原型すら留めておらず、当然ながら中に入っていたはずの硬貨は跡形もない。ほかに何か被害はないかと慌てて周囲や棚付近を見遣るが、壊されたのは良くも悪くもそれだけのようだった。
一体誰が、と頭を抱えた賢者だったが、答えはすぐに出た。
「こんばんは、賢者様。」
「あっ、ミスラ…!あの、これ、何か知ってませんか!?」
切羽詰まった様子の賢者にミスラは怪訝な表情を浮かべるが、賢者が指さした残骸を見て、すぐさま思い当たった様子で返事をする。
「あぁ、なんかむらむらしたので、壊しました。」
「……へ?」
「だから、壊しました。」
(壊したって、本人に、断りもなく?)
あまりにも唐突で、理解不能で、思考が停止する。動きを止めた賢者を胡乱げに見るミスラは、全く悪びれたようにも見えない。
力こそが全てだった北の国の者からすれば、確かに机の上に置いてあった貯金箱は、無用心に思えるだろう。
いや、北の国に限った話ではないが、奪われるような場所に置いてある方が悪いのだと言われれば、引き下がらざるを得ない。
たかが貯金箱、それも大した額ではない端金に騒ぎ立てるのは心が狭いだろうか。
だが、しかし、それでも。
無言になった賢者に、ミスラはようやく首を傾げた。
「…?賢者様、」
呼び掛け、手を掴もうとしたミスラの手をすり抜け、賢者は部屋を出ていった。無視した事にほんの少しだけ心が痛んだが、今はそれ以上に怒りと悲しみが溢れてくる。
行き場のない感情を抱え、賢者は足早に廊下を駆けていった。
♢
以上、冒頭に至る。
「…それはミスラちゃんが悪いのう。」
「思った以上に、賢者ちゃんを傷つけておったな。これはフィガロも呼び出しておこうかのう。」
「賢者ちゃんはどういう罰がお望み?」
「我らが張り切って始末してやろう。」
「ひっぐ…いや…そこまでは…。」
なんとか経緯を説明したが、やはりまた怒りと悲しみが湧き出てしまい、賢者は再び涙ぐむ。大の男がみっともないかもしれないが、それでもやはり今回の件は堪えた。ささやかな楽しみを奪われ、束の間の癒しが消えると、こんなにも心にダメージがあるとは。
添い寝を続けていく内に、ほんの少しでもミスラと信頼関係が結べたのではないかと期待していた自分が、馬鹿みたいだった。
「水責めでしょー、火炙りでしょー?」
「氷漬けは耐性あるじゃろうから、水責めのあとでオズちゃんに雷落としてもらうとしよう。」
所詮はやはり、数多いる賢者の一人。ミスラにとっては、瞬く間に過ぎゆく人間に過ぎないのだ。
「フィガロちゃんがそういえば、新しい毒薬を試したいって言っておったのう。」
「じゃあ最初にそれ飲ませて、力を削ぐか。」
…なんだか気づいたら、物騒な話が交わされていた。それも、より具体的かつ現実的に。
「ああああの、俺、ミスラを痛めつけてほしい訳じゃ…。」
「安心せい、賢者よ。殺しはせぬ。」
「殺しは、な。」
賢者を安心させるような笑みを浮かべているのだろうが、その目は笑っていない。普段は可愛い双子として振る舞っているため忘れがちにはなるが、北の魔法使いとしての片鱗を、嫌が応にも実感する。
動揺のあまり双子の部屋へと飛び込んだ賢者だったが、もちろん彼に罰を与えて欲しい訳ではなかった。少し説教はして欲しいと思っていたが。
ただあの場に居たままだったら、抑えきれぬ感情のまま、思いもよらぬことを口走ってしたかもしれない。
「ごめんなさい、俺、全然自制心がなくて。うっかりミスラを傷つける言葉を口に出して、後悔するかもしれなかったので、とりあえず二人の部屋に来たんです。それに、ミスラにも何か理由が…あったのかも…いや、なさそうだな…。」
「賢者ちゃん…!あんな事されたのに、まだミスラちゃんを庇うなんて…!」
「やはり公開処刑をしよう。我らに任せておくが良い。」
(すっごい乗り気だ…。)
何故かうきうきと処刑の段取りを相談し始めた双子を前に、賢者は段々と冷静さを取り戻し始めた。先程までの激情は身を潜め、涙も無事に止まったようだ。可愛い猫の置物だったが、せめて供養してあげよう。いや、魔法舎の誰かに修理できないか依頼してみようか。手先が器用なヒースクリフやクロエなら、力になってくれるかもしれない。
ミスラへの追求は、日を改めて。
「あの、俺、今日は部屋に戻りたくなくて…」
「おお、そうじゃのう。では泊まってゆくがよい。」
「我らがやさしーく丁寧に、賢者ちゃんを可愛がってあげるからね!」
きゃーっと影を伸ばして、スノウとホワイトは賢者をぎゅっと抱き締めた。それぞれ両手を優しく握られ、どこかホッとする。今日は随分と心が弱っているみたいだ。
自室にミスラはもう居ないかもしれないが、今あの部屋に戻るのは何となく嫌だった。
これ幸いとばかりに、賢者は双子の部屋で夜を明かす事にしたのだった。
♢
そして迎えた翌朝。
絵画から無事に戻った双子と共に、賢者は食堂へ向かった。
「それにしても、心臓に悪かったです…。」
「そんなにドキドキしちゃったー?」
「我らの格好良さに惚れてしまったかのう。」
寝起きに、大人姿へと変わっていた彼らに驚かされたのだが、当の本人達はどこ吹く風と気に留める事もない。朝からミスラとは違った色気に当てられ、賢者は早くも精神に疲労が見え始めていた。
きゃっきゃと賢者と両手を繋ぎ歩く様は、側から見れば微笑ましく映るだろう。実際は、気が気でないのだが。
(ミスラ、食堂に居るかな…)
居たらいたで、このまま鉢合わせするのはまずいように思える。傍らの双子が昨日話していた公開処刑とやらは、あながち嘘ではなさそうだからだ。加えて、賢者自身がまだ、感情の整理が出来たとは言えない。
(もし居たとしても、できるだけ意識しないように距離を置こう)
触らぬ神に祟りなし、穏便にー
「賢者様」
「おぎゃあっ!?」
「産まれたのう」
「産まれたな」
双子に連れられ、食堂の入り口に差し掛かった瞬間、今最も会いたくなかった人物が目の前で仁王立ちしていた。あまりにも突然だったため、思わずみっともない叫び声を上げた程だ。
ミスラはそのままドア枠にもたれかかると、苛立ちを隠そうともせず、低い声で問いかける。
「あなた、何で昨日は途中で出ていったんですか?部屋に帰っても来ませんでしたよね。」
「そ、れは…!」
驚いた事に、ミスラは賢者の怒りや悲しみを全く理解していなかった。それどころか、賢者が自身の責務を放棄したと責める始末だ。これには、さすがの賢者も頭に来た。
だがそれよりも一足早く、双子が冷たい声を上げる。
「ミスラよ、そなたは賢者を傷つけた事を自覚しておらんようじゃな。」
「哀れな賢者は我らの元で、可哀想にも涙を流していたんじゃぞ。」
「はぁ?あなた、俺を放っておいて、双子と寝たんですか?」
負の感情を滲ませながら、ミスラはついに賢者へと手を伸ばした。
ーパシンッ。
いつの間にか静まり返っていた食堂に、乾いた音が響いた。
「俺が何処の誰と寝ようが、俺の自由です!ミスラなんて、もう知りません!」
普段は温厚な賢者が勢いよくミスラの手を振り払い、声を荒げた様子に誰しもが目を見張る。
…内容はどう見ても、痴話喧嘩なのだが。
本人達は至って真剣に、深刻に対面しているので、さすがに茶々を入れる猛者は居なかった。
振り払われたミスラは拒絶されるとは思っていなかったのか、一瞬だけ動きを止めていた。だがすぐさま眉を顰ませ、徐に魔道具である髑髏を取り出す。
「あなたの事情なんて知りません。嫌がるならば、手足を切り落として自由を奪うだけです。そうすれば、あなたはもう何処にも行かないでしょう。」
(なんだか物騒なことを言い出した…!?)
あわや大惨事となるかと、思われたが。
「あ、ミスラさん、こちらにいたんですね。賢者様も。」
春の陽射しを思わせるような、朗らかな声が対峙する二人に投げかけられる。突然の事に驚いて目を向けると、ルチルが笑みを浮かべながら近づいてきていた。何やらどこか楽しげに、鼻歌でも歌い出しそうなほど、にっこりと笑っている。その様子に毒気が抜かれ、賢者は一拍遅れて返事をした。
「ルチル…。おはようございます。」
「はい、おはようございます。皆さん、こんな所でどうしたんですか?」
直前の修羅場を目の当たりにしていないルチルは、対峙している彼らをゆっくりと見渡す。
「どうもこうもない、ミスラが賢者を泣かせたのじゃ。」
「ルチルからも言ってやれ、賢者を虐めるなとな。」
恐ろしげな冷たい雰囲気は鳴りを潜ませ、プンスカと可愛らしく怒る双子は、ここぞとばかりにルチルへ訴えた。"約束"のある手前、ルチルならばミスラも強硬手段には出ないと考えたのだろう。
絵面だけ見れば、子供同士の諍いを宥める教師の姿だ。片一方の訴えを聞き届けると、ルチルはぼんやりと佇むミスラに目を向ける。
「ミスラさん、賢者様を悲しませるような事をしたんですか?」
「知りませんよ、俺は俺のしたい事しかしません。」
肯定も否定もせず、ミスラは苛立たしげに返事をした。面倒ならばすぐに手が出る彼の性格上、ここまで大人しくしていたのは奇跡に近いのかもしれない。
だがそんなミスラの様子を見て、賢者はやはり腹の奥底にしまっていた怒りと悲しみが沸々と湧き上がる。かろうじて残っていたプライドがその感情を抑え、賢者は低い声でルチルに詳細を説明した。
「ミスラさん…。それは、庇いようがないですね…。」
事情を聞いたルチルだったが、さすがに困った顔を隠せないようだった。力こそ全ての北に毒されてきたが、やはり感性や常識が近いルチルが味方になってくれた事で、ようやくどろどろとした感情が和らいでいく。
むしろ、これ以上話を大きくするのは今後に支障を来たす。ここは一つ、自分が大人になるしかない。
「…もう良いですよ、無防備に置いていた俺が悪いので。次からは気をつけます。」
「"次"もあるんですか?じゃあ、次も壊します。」
えっ、と気の抜けた声が、漏れ出た。今ミスラは、何と言ったか。
「これ、ミスラちゃん!反省は?」
「何で学習しないの!」
スノウとホワイトの声が、遠くに聞こえる。
何故、どうしてと疑問が尽きない。賢者の物を壊し、奪うことに何の意味があるのか。
呆然と見開く夜色の瞳が、翠玉の視線と重なった。コツ、と靴音が近付き、反射的に逃げようとした賢者の手が掴まれる。
「あんなの、必要ないです。」
「どう、して…。」
「あなたはこの先も、ずっと居るんでしょう。だったら、次の賢者の為の物なんて、いらないです。」
「次のって…。あっ。」
ようやく、腑に落ちた。
あれは、貯金箱を買って、すぐの晩のこと。
"「次の賢者さんが、困らないように。」"
確かに、眠りに落ちる前に、ミスラを寝かしつけながら呟いた。
あの貯金箱は、見た目で選んだのもあるが、ちゃんと目的があった。それは、この世界に来た当初、賢者自身が困った事に起因するもの。
単刀直入に言えば、お金がなかった。
今では一応魔法舎に割り当てられた予算内で、お小遣いを貰うことができているが、それでも賢者として召喚された直後、右も左も分からない中で、自由に使えるお金がないのは辛かった。だから、自分が元の世界に帰って、次の賢者が新しく召喚された時、少しでも助けになればと思い、貯金をする事にしたのだ。
「ほほほ、数多の賢者に関心を向けなかったミスラが、こうまで欲を出すとはのう。」
「素直に言えば、ここまで拗れたりはしないだろうに。」
「はぁ?俺に説教をするんですか?殺しますよ。」
「「きゃー!こわーい!!」」
「ふふ、私の出番はなさそうですね。」
きゃらきゃらと笑いながら、スノウとホワイトはぐるぐる回った。ルチルはふわりと笑みをこぼす。
中心にいる賢者は、突如向けられた独占欲と執着心に翻弄され、顔を上げることができない。
握られた手から、じんわりと熱が広がっていった。