長閑な昼下がりに、欠伸をひとつ。豊前江は陽当たりの良い縁側で、ぐっと伸びをした。この場所は近頃、彼の休憩場所になっている。最近はずいぶんと寒さも薄れてきて、春の気配がすぐそばまで来ているのだと実感する。「暦の上ではずっと前に春なのに」と、篭手切江は毛布を被りつつぼやいていたけれど。
「ほーと、のどかな景色やね」
そう呟いて、くあとまた欠伸をこぼす。出陣も内番もない日は、大抵「れっすん」をするのが彼ら「江」の常である。その休憩時間──なんだかんだでいつも少しだけ長くなってしまう──に、ここで本丸の中庭を眺めるのは、豊前の日課のようなものになっていた。春の桜、夏の向日葵、秋の紅葉、冬の山茶花。移ろいゆく季節を、彼はここで見つめている。時折通りかかる刀たちに挨拶をして、そうして半刻が過ぎれば仲間たちの元へ戻る。「そのささやかな平和が、豊前のお気に入りなんだね」と、どこか嬉しそうに言った松井江を思い出して、豊前はそっと目を細めた。
「ん?」
ふと、知らない体温を膝上に感じて、視線の先をそこへと移す。胡座をかいたその上に、黒い毛玉が一匹。ぽふぽふと豊前の膝で飛び跳ねるそれは、何ヶ月か前にこの本丸へやってきた、小さな張番の相棒であったと記憶している。珍しい来客をじっと見つめていると、それ──ふわふわは、何かを催促するように小さく「にぃ」と鳴いた。
「んん? ああ、撫でろって?」
「に」
「わかったわかった」
促されるままにうりうりと撫でてやる。小さな毛玉は満足そうに目を細め、ぴこぴこと耳を動かしていた。なんだか嬉しくなってしまって、豊前はそのままふわふわを撫で続ける。
今日は天気が頗る良い。少しだけ冷たい風と、暖かな陽射しが、一振りと一匹に注がれる。咲き始めた梅の香りがどこからか漂ってきて、それが余計に睡魔を呼び寄せてくる。うとうとと舟を漕いでいた豊前は、初春の柔らかな空気の中でそっと意識を手放した。
誰かの視線を感じて、豊前の意識は急浮上する。辺りはすっかり薄暮に染まっていて、どう計上しても二、三刻は経っていそうだった。やってしまった。そう思いつつ、また見知らぬ体温を膝に感じる。膝の上の「二人分」の重さに、彼は小さく苦笑した。
「なるほど、あんたたちは迎えに来たってとこか」
「いやあ、起こそうと思ったんだがな。お前たちがあまりによく眠っているから、忍びなくてな。なあ、大倶利伽羅」
「俺に同意を求めるな、一文字則宗」
「うはは」
いつも通り朗らかに笑った一文字則宗に、大倶利伽羅が大きな溜息を吐く。一緒に眠りについたはずの小さな共犯者は、知らぬ間に大倶利伽羅の肩に陣取っていた。そして、豊前の膝枕で眠る子猫が二匹、いや二振り。
「しっかし、南泉も火車切もよく寝てんな」
「お前さんも、随分気持ちよさそうに寝てたぞ?」
「はは、何も言えねーな」
ふたりが話している間にようやく目が覚めたのか、もぞもぞと身じろぐのを感じる。そのままじっと眺めていれば、三振り分の視線に気がついた猫たちは、途端に飛び上がるようにして起き出した。
「ご、ごめん。あの毛玉を回収しに来たはずなのに、寝ちゃって……って、大倶利伽羅! どうしてここに」
「……お前の相棒に連れて来られた」
「オレは久々に膝を貸してもらおうと……御前! 笑わないでほしい、にゃ!」
「はは、まあ見つけたのが山鳥毛じゃなく僕で良かったじゃないか。黙っておいてやろう」
本当に猫のような仕草をする寝坊助二振りに、思わず声を上げて笑う。心なしか、いつもは慣れ合いを厭う大倶利伽羅の表情も柔らかく見えた。
火車切と南泉をからかっていると、ぱたぱたと遠くから足音が聞こえてくる。そこでようやく、豊前は腰を上げて立ち上がった。そうして、足音の主に声をかける。
「あんがとな、迎えに来てくれたんだろ? 篭手切」
「もう、大遅刻ですけどね、りいだあ」
形だけ怒って見せてから、篭手切は思い出したようにその場の全員に声をかける。
「皆さん、そろそろ食堂に行かないと、夕食抜きになってしまいますよ」
大慌てで最初に返事をしたのは南泉だった。ばたばたと皆がそれに続いて、俄かに騒がしくなる。
「それはまずいにゃ!」
「坊主は食い意地が張っているなあ」
「今日は燭台切の自信作だって、化け物斬りのやつが言ってたからな。御前も早く、にゃ!」
「大倶利伽羅、俺たちも行こう」
「ああ、そうだな」
「ほら、お前はこっち」
「にぃ」
口々に他愛もないことを話しながら、陽の落ち切った縁側を歩き出す。どこからともなく香る梅の匂いが鼻腔に残っていて、夜の匂いと混じり合いながら澄んだ空気に溶けていく。空には少しだけ欠けた月が浮かんでいて、こちらをじっと照らしていた。
「……ほーと、のどかそのもの、やね」
ひとり、立ち止まった豊前は、静かに輝く月を眺めてそう呟く。戦の中にあって、平和を絶やさぬこの本丸。それは一体いつまで続くのだろう。数年前の惨禍を思い出し、彼はぐっと眉間に皺を寄せ目を細める。
「りいだあ、どうしたんですか?」
「……わり、ぼーっとしてた。今行く!」
篭手切の声に、はっと我に返る。今はきっと、それを考えるときではない。ただ戦い、敵に勝つために。己が物語を残し、ここに在るために。今はまだ、それだけでいい。
ぱたぱたと足音を立てて仲間の後を追う。厨からは出汁のいい香りがしていて、奥からは明るい話し声が聞こえた。武器にとって縁のない言葉だというのに、どうしたって平和に思ってしまう自分が可笑しくて、豊前はこっそりと笑みを溢した。