ねむりのまぎわにねむりのまぎわに
夜更けも夜更け、もはや朝方ではないかという時刻だ。
まだまだ続くどんちゃん騒ぎから抜け出した鶴丸はふらふらと千鳥足で廊下を歩いていた。しこたま飲んで飲まされた酒で熱を帯びた体に夜風がぴゅうと吹くが、今はそれすら心地よい。
年が明けたのだ。千年この世を渡ってきた鶴丸であるが、いつまで経っても年明けは目出度い。人の身を得、より一層目出度く感じるようになったような気もする。この本丸に顕現してはや九年、今年で十年目となる。鶴丸が渡って来た途方もない時間と比べれば爪の先のようなわずかな時間ではあるが、鶴丸はこの十年を一刻一刻と噛み締めるように生きてきた。なにしろ眠ればほいと時の飛ぶ付喪神の時とは違うのだ。息をしても目を瞑っても、戦ってさえいても、平等に時は流れていく。
顕現した当時ひょろひょろだった審神者も成人し、いまやベテランと言われるような風格を持つようになった。数十振りであった刀剣たちも百を超え、この本丸も大きく賑やかになったように思う。
かけがえのない時間だ、いつ終わるともしれない、かけがえのないもの。この十年間を鶴丸はかけがえのないものだった、と振り返る。
できればこのまま、と詮無きことを思ってしまい、先程画面の向こうで聞いたひとの煩悩の数だけ打ち鳴らすという鐘の音を笑えないなと一人苦笑した。
酒で煮えた頭のままつらつらと考えごとをしながら冷たい廊下を進んでいた鶴丸は、とある一室の前で立ち止まった。障子の横の柱にかかった木札には二重の月の下に星が一つ。その紋は鶴丸の唯一の刀のものだ。
そっと気配を伺うが、部屋の明かりは落ち、しんと静まり返っている。年が明け早々に彼は宴会場と化した広間を辞していた。
月の名を冠しているくせに、夜に昇る役割は石の塊に任せ本人は早々に布団の海に沈んでしまう。じじいらしいだろうと年寄りを自称する彼はいうが、冠する名と自称の優先度が逆ではないかと同じじじいのはずの鶴丸は思っている。
しょうがないので時折布団の海から掬い上げて、輝く月を独り占めするのが鶴丸の役目である。
気配を消して細く開けた障子の隙間から室内に忍び込んだ。暗い部屋の真ん中に布団が一つ、こんもりと丸くなっている。耳をすませば、すうすうとすこやかに寝息も聞こえる。抜き足差し足でこんもりした布団に近づき、気づかれないようにゆっくりと掛け布団をめくった。平時は体温の低い彼だが布団の中は温まっていて、ああなんとも抗い難い。足からつうと布団に体を滑り込ませ、横向きに横たわる身体の後ろから腕を回し、布団にもまれて少しだけはだけて剥き出しになった彼の素足に己の足を絡めた。寝息が止んだのを気にせずに、短く切り揃えられた髪からのぞくしろいうなじに鼻先を擦り付けあたたかさを堪能していると、腕の中の身体がもぞと身じろいだ。鶴丸が持ち込んだ冷たい夜の空気に眠る月も目覚めたらしい。
あちらを向いたまま、さも寝起きですとばかりの掠れた声で怒られる。
「……冷たいぞ」
「おや、寝てていいんだぜ」
「お前のせいで目が覚めた……酒臭いな、どれだけ飲んだ?」
抱きしめていた身体が反転し、こちらを向く。
両の瞳に浮かぶ月は眠たげに、しかし面白げに揺れていた。確かに鶴丸がここまで飲むのは滅多にないことである。いつもならばこのままちょっかいをだして、湧いた欲そのままに月を舐めてかじってしまったりもするのだが、今日はこのまま眠りたい気分である。
「あるじが美味い日本酒を何本も隠し持っていたのを次郎太刀がめざとく見つけてきてな、皆で飲み比べしたんだよ」
「それは……あるじの口には入ったのか?」
「さあなあ、猪口一杯くらいは飲めたんじゃないのか」
「はは、ひどい奴らだ」
「なあに、あれはああ見えて俺たちのために用意した酒なのさ。でなければ押し入れの中などわかりやすいところに隠したりはしないさ」
「さてなあ」
布団の中で絡ませた足をすりすりとやられる。お互い寝巻きなので絡んだ素足はどこまでも滑らかだ。彼の素足は鶴丸の素足より少しだけぬるい。ぐい、と太ももまで足を進めるとこれ、と咎めるように背をつねられて鶴丸は笑う。
「年が明けたぞ」
「うん、そうだなあ……あっという間だったなあ」
「いつまでこうしていられるだろうか」
「さて、さて」
終わりはいずれやってくる。いくさの終わりか、この本丸の終わりか、あるいはこの身の終わりかもしれない。それがいつなのかは鶴丸たち末端の付喪神などにはわからない。神のみぞ知ることであろう。
そうと知っていても、幼子のようにいつまで、いつまでと願ってしまうことをやめられなくなってしまった。
ひとの身を得てしまったばかりに、まるでひとのようにいつか終わるその先に恐れを抱くようになってしまった。それが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、きっと誰にもわからない。
「三日月」
腕の中の月を呼ぶと少し間を置いてうん、と眠たげにいらえがある。くっついて体温を分け合っているうちに遠くに行った眠気が戻ってきたのだろう。手を伸ばし蒼い前髪をかき分けて頬を撫でると、もうほぼほぼ閉じてかけていた瞼の隙間からきらりと月が覗いた。眠気でうるみ、とろりと夜露のように光を反射させている。
うつくしい、いまは鶴丸だけが見ることのできる光、そしていつか鶴丸が失う光だ。
「今年もよろしく」
ふふ、と眠たげな月は吐息で笑った。
「今年もよろしく、鶴丸」
もう寝ろ、とばかりに頬に柔くぬるいくちびるが触れた。鶴丸もおやすみ、と眠りにとらわれ落ちていく月の瞼にそっと口付ける。
体温がうつって温かくなった身体を抱きしめていると、身のうちの酒精も手伝いやがてとろとろと鶴丸も眠くなってきた。
朝の気配が近づく部屋は、それきり静かになった。