36 鍾魈「魈、〝いけないこと〟をしてみないか?」
鍾離の暮らす家、璃月の城下に呼ばれた魈が告げられたのは、かなり曖昧な提案だった。
時刻はそろそろ日付を変える所まで迫っており、周辺の家々からは灯りが消えていく。この部屋もそうなるはずだが、家主はまだ、灯火を消す素振りは見せていない。
「いけないこと、ですか」
「そうだ、いけないことだ。調理場に行くぞ」
言われ、魈は大人しく鍾離のあとを着いて行く。歩くたびにゆらゆら左右に踊る鍾離の髪を眺めていると、目的地の調理場へはすぐに到着する。調理器具は上下の収納棚の中にあり、食器類はガラスの張られた戸棚に収まっている。数は多くないが、ひとつひとつが丁寧に扱われているだろうことは一目でわかった。
「お食事ですか?」
こんな時間から? と言外に含めて魈が問うと、鍋を取り出した鍾離は「正解だ」と口角を上げる。
「この時間に食事をするなど普段ならあり得ないが、どうしても深夜に何かを食べたくなる衝動というのが凡人にはあるらしくてな。俺も少し試してみたくなった」
「は、はあ……しかし、試すと仰っている時点ですでに衝動的とは異なるような……?」
鍋の中に水を注いでいた鍾離は、それは一理あるな、と楽しげだった。
「確かにお前の言う通りだな。どうしても食べたいかと言われればそこまでではないし、このまま眠って朝を迎えることも俺には容易い」
火にかけられた鍋は水を湯に変え湯気をほこほこ立たせている。鍾離は食材の保存庫から肉とハム、それからタケノコを取り出して細かく刻んでいくと、火力を弱めた鍋に肉から順に入れていった。
淀みなく流れるような一連の動きに魈が「さすが鍾離様だな」と目を細めていると、調理場に立つ鍾離は朗らかな声で語りかけた。
「大袈裟ではないにせよ、このような背徳的な行為からは罪悪感が生まれる。こんな時間に食事をするなんてと、普段自らを律している者ほど屈辱を味わう。……が、それでも空腹を満たす目的は達せられる。真夜中に起き出して、もしくはずっと起きていたからこそ、何か食わせろと訴えてくる腹の虫がいて、そいつを罪悪感の中で完封する。するとその者は勝者になっているとも考えられる」
鍋の中の具材はくつくつ煮え始めている。そして用意された材料とこの見た目には魈は覚えがあった。いつの日か鍾離が、旅人と魈に振る舞ってくれた煮込みのレシピ。
それはたしか、何時間もかけて作られる腌篤鮮のレシピ。
琥珀色の瞳でなんとなくこの後の展開を悟った魈は、わずかに頬を緩ませた。
「……なるほど。それで、鍾離様は勝者になりたかったのですか?」
鍋をレードルで混ぜていた鍾離が、魈へと視線を向ける。ぱちりと絡んだことに喜色を浮かべた鍾離は、そっと首を横に振った。
「いいや? 俺はそのような立場に興味はないし、称号も不要だ。ただ、こうして真夜中に食事をするという〝いけないこと〟をして、お前と時間を分け合いたいだけさ」
ゆったりと混ぜられる鍋の中では新鮮な食材が鍾離によってくるくる踊らされている。まあるく円を描くレードルの動きを追いかけていると、立ち上る香ばしい匂いに鼻がひくついた。
「左様でしたか。ちなみに、こちらの料理は完成までどれくらい時間がかかるのでしょう?」
「最低でも三時間だな」
「……では、もう少し待てば朝になりますね。朝食として食すのならば、それはもう〝いけないこと〟にならないのでは?」
「ははっ、そうだな。お前の言う通りだ。ただ、雰囲気を味わうことはできるだろう?」
「そうですね、……なんとなくの雰囲気であれば」
完全に寄り添えるかは分からなかったが、それでも魈は鍾離を肯定し、淡く微笑む。
きっと、パイモンあたりを呼べばそれこそ本当の意味での〝いけないこと〟の定義は満たされたのだろう。駆り出される旅人には同情するが、鍾離が話す事象を忠実に再現するならば、あのふわふわ飛んでいる生き物を選んだ方がよほどこの状況に適している。
それでもここに呼ばれたのは彼らではなく魈だった。
その意味を、今は前向きに捉えたい。
「では、雰囲気は味わったところで……この料理が出来るまでは、お前が語り部になって欲しい。最近、旅人と面白いことがあったと風の噂で聴いてな、ぜひお前から直接、冒険譚を聴きたかったんだ」
「そんなに大した話では……」
「いいや、大小など関係ない。ただ俺は、お前の話を聴いていたいんだよ」
「……鍾離様が、望むのならば」
そして調理場では、鍋がスープを煮込む音と、魈の淡々とした冒険譚と、鍾離の喜びに満ちた感嘆の声が、朝になるまで響くのだった。