甘やかしたい「魈、今日はお前に頼み事があって来たのだが、時間はあるか?」
「鍾離様。どのようなご用件でしょうか」
望舒旅館の露台にて、いつになく真剣な顔で鍾離がそう言っていた。一体どのような用事なのだろうかと魈も身構えるのは、ごく自然な事である。
「俺を頼って欲しい」
魈は真剣に鍾離の目を見て言葉を待ったのだが、耳から入ってきた至極単純な言葉が、脳内で処理できずにいた。
「…………は? え、えぇと、鍾離様以上に頼りになる方はいないと思いますが……」
「違うな、甘えて欲しい」
「甘え……?」
「ううむ。どう言えば魈に伝わるのだろうか。何か困ったことはないか?」
「いえ、特には……」
鍾離の意図が全く掴めない。鍾離は尚も考え込んでしまっているので申し訳なく思ってしまう。しかし、鍾離に期待されていることが、全くもってわからないのだ。
「俺がこのベンチに座る」
「はい……」
「お前は隣に座って、俺の膝の上に頭を乗せて欲しい」
「えっ、ぁ……その……」
魈の返事を待たずして、鍾離はどっかりとベンチに腰掛けてしまった。トントン。と隣を指で叩かれ座るように促されれば、座らない訳にはいかない。
鍾離の横にちょこんと腰掛ける。ここまではまだ平静を装えるのだが、鍾離の膝に頭を乗せるとなると話は別だ。
鍾離の、膝の上に、頭を、乗せる?
何度考えても不敬以外の言葉が出てこない。
「……ぅ……うぅ……」
「そんなに嫌だったのか……? ならばはっきりと言って欲しい。お前にも拒否権はある訳だから、遠慮なく言ってくれて構わない」
「そ、そういう訳では……」
困惑のあまりどうすれば良いかわからなかったのだが、鍾離は全くもってずるい人だと思った。そんなことを言われてしまえば、そこまで拒否するような事柄でもないと思ってしまう。
「では……失礼します……」
…………ぽす。
恐る恐る身体を傾け、鍾離の膝の上に頭を乗せた。意外と硬いなどという不敬な感想を抱いて、慌てて別のことを考えようと景色に目を向けた。手はどうしたら良いのかと、胸の前で折りたたんでぎゅっと握る。
「う、ゎ」
ドッと心臓が跳ねた。頭に鍾離の手のひらが置かれたのだ。鍾離は数回頭を撫で、髪を梳かして指が流れていく。触りごこちが良かったのか、何度も髪を撫でている。
「緊張するか?」
「……は、はい、とても……」
「そうか。難しいな」
何が難しいのだろう。何を求められているのだろう。
「魈、お前は他人に甘えたことがあるか?」
「我は、夜叉に生まれた身故……誰かに甘えようなどとは、考えたこともありません……」
「そうか。だろうな」
「……鍾離様は、あるのですか?」
「他人に甘えていては、神など務まらないからな。そうか、お前も俺も、知らないということか……なるほど。どうすれば良いのだろうな」
「……何がでしょうか?」
「お前が俺に甘えて貰うにはどうすれば良いか考えていた。いや、俺がお前に甘えても良いのか。俺がお前に甘えるにはどうすれば良いと思うか?」
「は……えぇと……」
鍾離は、魈に甘えて欲しいということで、今のこの膝枕のような体勢になっていると理解できた。甘えるとはどういうことか。それを知りたいというのが今日鍾離が望舒旅館へ来た理由なのだろう。それは魈にもわからない。この今の状況とて、鍾離に甘えている状況にはなっていないと思うからだ。
「鍾離様も……我の膝の上に頭を乗せてみますか?」
「ほう……? なるほど、一理ある」
魈は起き上がって姿勢を正した。無駄に咳払いもした。鍾離にじっと膝を見られている気がする。自分の膝は、ちゃんと枕になれるのだろうかといらぬ心配もした。
「ひっ」
……ぽすん。
鍾離の頭が膝の上に乗せられ、全身に緊張が走ってしまった。鍾離の頭が、魈の太腿の上に乗っているのだ。こんなことが許されるのか? 否、許される訳がない。
咄嗟に飛び上がりそうになった気持ちをなんとか抑えた。鍾離の頭を落とす訳にはいかない。そうなっては元も子もない。
「ふむ。魈。俺の頭も撫でてみてくれないか?」
「頭を撫で……!? そ、そんな、鍾離様の髪に触れるなど……」
「そうか……」
「違います!」
「?」
一人で大慌てしているようなものだが、鍾離には伝わっていないようで、石珀色の瞳がこちらを向いた。少し残念がっているように見えたのだ。魈だって数千年程生きている年長者ではあるのだが、鍾離を甘やかすだなんて、恐れ多くて自分には到底できそうもない。
「く……失礼します……」
それでも、なんとか期待に応えようとわざわざ手套を外し、鍾離の髪に触れた。恐る恐る頭に手を乗せ、先程鍾離にして貰ったように頭を撫でて、髪を梳かす。
「力加減は……大丈夫でしょうか……」
「大丈夫だ。しばらくそうやってて欲しい」
「……承知しました」
なるべく弱い力で鍾離の頭を撫でる。指通りが良く艶のある髪はサラサラで、枝毛の一つもない。数回撫でていると、自分の気持ちも落ち着いてきた。鍾離を見ると目を瞑っていて、魈に触れられる感触に浸っているように見えた。
「これは……思ったより気分が落ち着くな。誰かに身を預けるのも悪くない。ただし、気を許した者限定ということか。ふむ、これが甘えるということかもしれないな」
「……鍾離様のお力になれて、良かったです」
「お前にも是非体感して欲しくなった。再度俺の膝に頭を置いて欲しい」
「ぅ……え、ぇ……」
鍾離が起き上がり、再度自分の太腿を叩いた。二度目の膝枕だ。不敬だと思いながらも、そっと頭を乗せて目をぎゅっと瞑った。
「そう緊張しなくていい。身体の力を抜いて、呼吸を楽にして欲しい」
「はい……頑張ります……」
決して頑張ることではないのだが、ここは意識して力を抜くことをしなければ、身体が強ばってしまいそうだった。
ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと空気を吸う。髪に触れる鍾離の手が柔らかく優しく、その指の感触に意識を持っていくように心掛ける。心が解れていくのを感じる。そうか。確かにこれが甘えるということなのかもしれないと、ふわふわした心地良さを感じる。
「魈? 寝たのか? ……まぁいい」
その後うっかり眠ってしまい、はっと意識が浮上した時には真っ青になり飛び上がったものだが、鍾離はとても満足そうに笑っていた。
なんでも、閑雲がなんだかんだと言いながら弟子たちを甘やかしている様子を見て、自分もたまには見守るのではなく、甘やかしてやるのもいいかもしれない。と思ったそうだが、当然思いついたように望舒旅館に来るのは控えて欲しいと思う、魈であった。