54 アル空甘い夢だ。現実ではないことはすぐわかる。
俺の前に、妹がいる。
お兄ちゃん、と昔からたくさん聴いてきた声が鈴のように鳴っている。やっと会えたねと嬉しそうに笑う。目的は達成されたのだ。もうテイワットに用はないから早く行こうと、落ち着きなく旅立ちを待つ妹に、そんなに急くことはないだろうと苦笑する。
『何を言ってるの? お兄ちゃんが全然ここから離れようとしない方がおかしいのに?』
それは、まだ離れ難いというか、みんなにまだ挨拶もできてないし。
『それは改めてしなきゃならないの? もしかして、彼らと別れるときに都度、〝またね〟なんて言っていたの?』
それは挨拶として自然な言葉だろう?
『……ねえお兄ちゃん、私たちは異世界の人間だよ。お互いがたったひとりの家族。忘れてないよね?』
もちろん、忘れたことなんかない。
『だったら、もう全部手放してきて。二人で旅を続けるなら、この世界の全部、もういらないんだから』
甘い、悪夢だ。夢でよかった、そう思いながら重い瞼を持ち上げる。
窓辺にあるベッドから上半身を起こすと、まだ外は真っ暗だった。見下ろす先にはモンド城下の街灯の光が地上に瞬く星のように灯っている。正確な時間はわからないが、夜明けまではまだ時間がありそうだった。
その窓の、反対側。同じベッドに横になっているアルベドの方へ、空はゆっくりと振り返った。
寝息は聞こえない。肩や胸は上下するのに、口元に手の甲を近づけても、口や鼻から息が出される気配はなかった。
眠っているあいだの美しい錬金術師は、生きているのか死んでいるのか、どちらなのかわからなくなる。
わいてしまった不安を打ち消そうと、彼の生を確認するために、空は再びベッドに潜り込み、アルベドの胸に耳を寄せた。
とく、とく、とく、とく
彼を生かす鼓動の音がたしかに聞こえる。
その心音にほっと息をついていると、空の背中にアルベドの腕がまわった。くたりとしていたはずなのに、いつのまに。起こしてしまったことを詫びようと、空はアルベドの胸元から顔をあげて、「ごめん」と一言つぶやいた。
「いいよ、あやまらなくて。……良くない夢でも見たのかな?」
「……お見通しだなあ」
「ふふ、経験則さ。キミがボクの鼓動を確かめる時、直前までキミは甘い毒のような夢を見る。前回は二週間と三日前。その前はさらに三週間前。……家族の夢を、見ていたんだろう?」
アルベドの腕に包まれて、空は静かに目を伏せた。
「そう、アルベドの言う通り。この世界のこと、ぜんぶ置いてきてって言われちゃった」
「うん」
「離れ難い様子だったのは妹にも全部バレてた。少しでも時間稼ぎしようと、みんなに挨拶してこなきゃって言ったら、別れるときに〝またね〟って言ってたの? なんて怒られた」
「うん」
「俺の目的は叶ったのに。いちばん取り戻したい人が近くにいて、この世界から出ていかないといけないのに」
「うん」
「……もっと、なにも、感じない人間ならよかった。もっと冷徹で、もっと割り切った自分でいられたら、きっと迷わなかった」
「うん」
アルベドは優しく、空の背中を撫で続けている。単調に聞こえる相槌は、どこからか込み上げてくるやるせなさもまるごと抱きしめるような空気を纏っている。
――この世界に、俺にとって永遠の居場所なんかない。
いつか必ず、旅立つ日が訪れる。
わかっていて、大切で特別な存在をつくった挙句、溶けるほどに抱かれたのは今夜が初めてではなかった。
後悔はしていないと思う。けれど、その選択が正しいとは一度も思ったことはない。間違い続けていることは、ずっと自覚していた。
「アルベド。……お願い」
「うん、……キミが望むなら、何度でも」
「ありがとう。……それなら、別れの日まで、やめないで。君の心音で、俺を安心させて。君の熱で、俺を慰めていて」
目を開き、アルベドに嵌め込まれた翡翠色を見つめる。
この夜が終わるまで、同じ夢を見ないように。
いつかやってくる現実を、少しでも遠ざけるために。
空は泣きそうな気持ちで、アルベドの頬に手を伸ばした。