ワンライ【我慢】「もういいや。もう、いい。我慢するのはもうやめだ」
――知らない。
こんな類の顔、知らない。
***
「……あ、ちょっ!なにして……ッ。あは、あはははは……ッ!」
「こーちょこちょこちょこちょ〜!!」
「ね、も、やめ、し、しぬ、もう、司と類も、ひ、助けてよッ……!」
夕方、ステージでのショーの練習が無事に終わり、暗くなる前に帰ろうというところで急に寧々の笑い声が聞こえてきた。どんな経緯でそうなったのかは全く分からないが、えむが寧々にくすぐり攻撃を与えているらしい。今まで聞いたことがないほど大きな声で笑う寧々が珍しくて、類とその光景を呆然と見守っていた。助けはしない。
「……あいつ、ああいうのに弱かったのか」
「僕も初めて知ったよ」
本気で嫌がっているというよりは一緒になって楽しんでいるような和やかな雰囲気が2人から漂っていて、なんとなく微笑ましく思った。
えむが手を止めると、今度は寧々が息を切らしながら「仕返し……!」とえむをくすぐり始めた。途端に響き渡るえむの甲高い笑い声には思わず耳を塞いだ。ひとしきりくすぐり合ったあと、2人はひーひー言いながら涙目で更衣室へと向かって行った。
「仲が良さそうでなによりだ。オレ達も着替えるか」
「フフ、そうだね」
くすぐり合いなんて小さい頃に冬弥を笑わせるためにやったときくらいしかないな、と昔の記憶に思いを馳せる。あいつは全く反応しなかったが。そんなことを考えながら更衣室に向かっていると、ある疑問が思い浮かんだ。
「?なんだい?」
「い、いや……」
類は、くすぐりに弱いのだろうか。
ショーをしているときやオレを好き勝手飛ばしているときを除いて、類が心の底から楽しそうに大笑いしているのを見たことがない。常に冷静で、穏やかで、そこいらの高校生よりも幾分か大人っぽいように思える。そんな類がもしくすぐりに弱かったら?
笑い転げる類を想像したら、"見てみたい"と思ってしまった。普段、好き勝手に演出の実験に付き合わされている仕返しの意味も込めて、"くすぐってみたい"と。
更衣室に入って普段通りの話をしながら制服へ着替える。横にいる類の上半身は肌着だけを身につけている状態。これからYシャツを着るつもりらしい。
「…………」
「……そんなに見つめられると少し恥ずかしいのだけれど……」
「……っ!いや、その、すまん……」
いかん。くすぐるタイミングを探るあまり不審な行動をとってしまった。素早く目を逸らして、練習着を脱いだ。冬とはいえ練習であれだけ動き回っていれば汗もかく。替えの肌着を持ってきて正解だったな。
チラチラと類を見遣る。
「………………えい」
ちょん、と人差し指で類の脇腹を肌着越しにつついてみた。まだくすぐられるのが苦手かどうかも分からないが、これくらいなら特に反応は示さないだろう。ましてやあの類だ、想像しておきながら今更思うのだが、くすぐりに弱いイメージは正直ない。大笑いするこいつの様子を望むだけ無駄か、と半ば諦めながら類を見る。
「……ちょ、っと、急に、なにを」
「え?」
類はつつかれた脇腹を片手で抑えながらやけに驚いた顔でオレを見ていた。
――これは、まさか。
今度は両手で類の腹を、"くすぐる"という明確な意志を持って触れてみた。
「…………ッ!」
がばっと身を屈めて両腕で腹を死守する類。オレから離れる類。口の端をひくひくと動かしながら恨めしげにオレを睨む類。
ゾクゾクした。
一種の支配感。優越感。それが背筋をビリビリと駆け抜けた。ゴクリと息を呑んで、一気に距離を詰めて、思いっきり、くすぐった。
「あ……ッ、は、はは、つか、さく……ッ」
「ふはははは!まさかとは思ったがお前も寧々同様くすぐりに弱かったのか!おりゃ!」
今のオレは悪戯が成功した小学生のような顔をしているに違いない。楽しくてたまらない。脇や腹、喉元を指で摩るたびに、大きな声は出さないものの、なす術もなく必死にオレの手の動きから与えられる刺激に堪えて、声を殺しているのだ。物珍しい光景にも程がある。
加減を忘れ、もっとくすぐりに耐える類を見てみたいと思って肌着に手を滑り込ませてみた。すると類は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。その声が一層オレを愉悦に浸らせる。
類は壁際に追い詰められたところで限界を迎えたようで、ビクビクと全身を痙攣させてズルズルと座り込んだ。寒い時期だからオレの手も相当冷たくなっている。もしかしたら類にとっては苦痛以外の何物でもなかったかもしれない。サッと両手を引いて、さすがに肌に直接触るのはやり過ぎたか、とおそるおそるしゃがみ込む。
「………はーッ……はー……ッ」
「る、類……?」
必死に息を整える類の表情は、項垂れているために顔を覆っている髪の毛のせいで全く分からない。ただ、口元だけは見えた。
ツゥ、と一筋、透明な液が類の口の端から顎を伝った。それを見た瞬間に耳が熱くなる。更に口から漏れる吐息は妙に艶めかしく感じられて、ドクンと心臓が強く脈打った。
おかしい。おかしいぞ。艶めかしい、とか、類に対して思うなんて、そんなこと――。
「…………はぁ……ッ」
「…………ぅ、あ」
声にならない声が喉から絞り出され、尻餅をついた。睨まれた。前髪の隙間から覗く両の目に。それは怒りも恨みも表していなかった。けれど決して、冗談めいた目つきでもなかった。
ようやく息を落ち着かせた類は動かず喋らず、片膝を立てた状態で壁に体重を預けている。
乱れた髪の毛が、雑に放り投げられた手足が、神代類の身体全てが、妖艶だった。
「……す、すまない、まさかこんなに効くとは……類の反応が面白くてつい、」
「司くん」
「ハイ」
いつもより低い声。類が今どんな感情を抱いているのか分からない。さっきからやけに熱いオレの顔や、類から逸らせない目や、動かない身体の原因も分からない。
「好きな人に身体を沢山触られたら、人はどうなると思う?」
「は……」
「好きな人に、くすぐられて、素肌に触れられて、今みたいに距離を詰められたら、どうなると思う?」
そう言って、類はようやく顔を上げて、右手で前髪をぐしゃりと掻き上げ、左手の甲で口元を乱暴に拭った。
「……ひ……ッ」
我慢に我慢を重ねた男の顔が露わになる。ギラギラと確かな光を持った目に再び睨まれ、情けない声が出てしまった。相変わらず身体は動かない。獅子に狙われる草食動物みたいだ、なんて、呑気に考える余裕がまだあることに驚いた。
「どう?僕をくすぐるのは愉しかった?まあ僕にとっては全部全部、快感に変わっていたわけだけど」
「……や、その、怒らせてしまったのならあやま、」
「怒ってはいない。ただもう、限界だ」
「げん、かい?……って、うわッ」
じわじわと伸びてきた片手がオレの肩を掴んだ。気付けば背中についた冷たい床に体温を奪われて、類の顔しか目に映らなくなっていた。
「もういいや。もう、いい。我慢するのはもうやめだ」
ゾクゾクする。くすぐっているときに感じたそれとは正反対。瞬きすら許されない、"支配される"という確信。
「……る、い……ッ」
「"仕返し"してあげよう。今まで耐えてた分、全部ぶつけるね。嫌なら今すぐ出て行って」
逃げなかったのはきっと、同じ気持ちを抱いていたから。ハァ、と吐いた自分の息は、さっき類が唾液を垂らしながら吐いていた吐息と同じくらい熱くて、眩暈がした。
肌着の裾周りから侵入してきた類の手がオレの腹を撫でる。その手つきは少しの我慢すらさせないような、"くすぐる"なんてものじゃなくて、もっと、もっと――。