ワンライ【おとぎ話】 世界中に知られている有名なおとぎ話――童話とも呼称するものの1つに、"シンデレラ"という華々しい物語がある。義理の母や姉から不当な扱いを受け続けてきた1人の女性がひょんなことがきっかけで舞踏会に参加し、運命の王子様に出会うラブストーリー。
この物語のキーになるのが"ガラスの靴"である。シンデレラは、「0時までに城を出なければならない」という決まりを守るためにドレスを着た状態で懸命に城の階段を降り続けるのだが、途中で履いていたガラスの靴の片方を落としてしまうのだ。結果、これがシンデレラと王子様の想いを繋ぐ大切な物となる。
僕はひねくれた男だと自覚はしている。だから、シンデレラについてこんな疑問が浮かんでしまったことがあるのだ。
彼女は偶然、ガラスの靴を落としてしまったのか。それとも、わざとガラスの靴を落としたのか。
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司くんは時間や約束を必ず守る、僕なんかよりずっとしっかりした人だ。それは高校生のときから大学生になった今でも変わらず、飲みに行く約束を交わせば大抵彼の方が先に待ち合わせ場所に到着しているし、次の日に講義やアルバイトがあるときには深夜0時までに僕と別れて帰っていく。終電を逃すなんてことは絶対にない。
そう、絶対にないのだ。それが僕をひどくもどかしくさせる。
僕も司くんも大学生になると同時に一人暮らしを始めた。20歳を過ぎてからは高校生の頃よりも一層自由な時間は増えたし、年齢も環境も夜遅くまで出歩くことはできるようになっている。たとえ酒を飲みすぎて終電を逃してしまったとしても、「泊めてくれ」の一言で簡単に問題を解決できる。大学は別々だけど、互いの家はさほど遠くはないのだから。
ましてや僕達は恋人同士だ。同棲はできずとも半同棲に近い形で家を行き来するのは可能だろう。むしろ僕はそれをとてつもなく望んでいる。いつも彼と身体を重ねるのはラブホテルで、できたら家でも……なんて、ちょっとした下心がないとは言い切れない。だというのに、司くんは頑なに時間を厳守して「日付を超えてしまうから」と颯爽と帰っていく。
司くんにも様々な事情はあるのだろう。夜更かしは健康にも美容にも良くないし、次の日のコンディションに少なからず支障は出る。だから、夕方5時に鳴り響くチャイムを聞いたあとに「まだ遊んでいたい」と母親に泣きつく幼子のように、僕が駄々をこねるわけにはいかないのだ。変にしつこくわがままを言って彼に嫌われては元の子もない。
思いやりがあって引き際を知っている大人らしい恋人。それを演じるのが20歳を超えた僕の果たすべき役割である。
***
金曜日の23時半。僕は司くんと、常連になりつつある(僕と司くんの家の最寄りのちょうど真ん中の駅にあるから)居酒屋に来て3時間ほど飲み食いをしていた。大学ではどんなことを学んでいるか、就職活動はうまくいっているか、などなど、普段となんら変わらない会話をしながら適度に酒を嗜む。高校2年のときに付き合い始めて今年で5年目。いい意味でも悪い意味でも恋人関係に一種の"慣れ"が訪れる時期。高校生の頃の、キラキラして胸がどうしようもなくときめくような青春の欠片はもうない。
「……もうこんな時間か」
――ああ、またその癖。
司くんは2ヶ月ほど前から、左手首につけた腕時計を忙しなく確認するようになった。チラチラと時間を見てはつまらなそうに目を細めるのだ。はっきり言ってやめてほしい。僕といるのに時間ばかり気にして、そんなにも早く家に帰ってゆっくり身体を休めることを優先したいのかと悲しい疑問を抱いてしまう。
「そうだね。そろそろ帰ろうか」
明日は土曜日で大学はもちろんバイトもないと先ほど言っていたのに、それでも帰ろうとするのか。できるだけ長く一緒にいたいと思うのは僕だけなのか。口には出さずに心の中で散々文句を垂れながらも財布を取り出した僕を、司くんはじっと見つめていた。
「……?どうしたんだい?」
「…………。なんでもない。行くぞ」
急に口先を尖らせて機嫌を損ねた(その表情すらも可愛い)らしい司くんも財布からお金を出して、頬を赤らめたまま立ち上がった。
なぜ君がそんな顔をする。不機嫌になりたいのはこっちなんだけど。
酒で火照った身体が涼しげな夜風にあたって心地よさを感じる。司くんと駅に向かいながら、いつものように何気ない話を繰り広げているとあっというまに改札口に辿り着く。ホームに降りて、何度目にしたかわからない電光掲示板の「23:45」の文字を恨めしげに睨んだ。
司くんは1番ホーム、僕は2番ホーム。僕の方があとに電車が来る。つまり、いつもいつもいつも、僕は彼をここで見送ってきた。
相変わらずムッとしながら隣に立つ司くんが今どんな気持ちでいるのか分からない。なにか怒らせることでもしてしまったのかと不安になって、思いきって「どうしてそんな顔をしているんだい?」と問いかけてみた。
すると司くんはゆっくりと視線をこちらに向けて、ジト……とこれまた拗ねたような目で睨みつけてきた。訳も分からず目を合わせていると、司くんが乗る電車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
「……早く帰りたかったから、オレが不機嫌になっていると思っているんだろう」
「え……っと?」
「オレは明日、なんの用事もないんだぞ」
「……うん?」
『――まもなく、1番線に各駅停車、〇〇行きが参ります――』
「…………もう、帰ってしまうぞ」
「……?そう、だね……?」
電車が止まり、軽快な音とともに扉が開く。スタスタと歩き始めて、僕に背を向けたまま立ち止まる司くん。
「……司くん?早く乗らないと、0時までに帰れなく――」
僕の声を遮ったのは、真正面から飛び込んできた温もりと微かな振動。突如振り返ったかと思えばぎゅ、と僕に抱きつき、胸元に顔を埋めた彼の行動に思考が停止する。
「…………"帰したくない"くらい言えないのか、意気地なし」
途端に離れる体温、早足で進む後ろ姿、「ドアが閉まります」という機械的なアナウンス。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
いつも通り、出発した電車を名残惜しく見送って、2番ホームに身体を向ける…………ことが、できるはずなかった。
今僕の目の前にいるのは残像でも幻影でもなんでもない、本物の天馬司だった。彼の右腕を掴んだ僕の右手に伝わる感触がそれを証明している。振り返った彼は羞恥に顔を染めて潤んだ目で僕を見つめた。ああ、僕も顔が熱い。うまく表情を取り繕えない。
「…………君にしては、随分と遠回しでまどろっこしいことを…………」
「当たり前だろう、オレが"帰りたくない"なんてはっきり言ったら下心丸出しの変人みたいに思われるじゃないか」
「それは僕だって同じだよ!だからいっつも我慢して仕方なく君を見送っていたというのに!」
「あれで我慢できているつもりだったのか⁉︎いつもいつも"このまま帰りたくない"と顔に書いてあったぞ!ぐずり出す5秒前の子どもかッ!!」
「……え……えぇ……?」
今までの努力を無にする彼の発言にいよいよ羞恥心が限界を迎えて、ぐうの音も出なくなった。なんと情けない。
時間をいつも気にして、腕時計を見て、「もうこんな時間か」と呟いて、0時には帰って行く。その行動の裏に「引き止めてほしい」という思いが隠されていたなんて、僕の恋人はどれほど面倒くさくて不器用でいじらしい男なのだろう。ただ、それを察するような技量は僕にはないので素直に言ってほしかった。そっちの方がかえって心臓へのダメージは少ないとたった今証明されたから。
さて。ここで冒頭の疑問に戻ろう。
シンデレラは偶然、ガラスの靴を落としてしまったのか。それとも、わざとガラスの靴を落としたのか。
――王子様に追いかけてきてほしいと思ったから、0時を超えても会いにきてほしいと思ったから、靴を拾わせていたとしたら?
「何度もガラスの靴を落としていたのに、この僕が気づかなかったとはね……」
「は?ガラスの靴?」
「こっちの話。気にしなくていいよ」
眉をひそめる司くんを引き寄せて抱きしめる。今度は僕が1人で乗るつもりだった電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきて、彼の体温を感じたまま語りかけた。
「帰したくなかった。ずっと前から」
「…………知っている」
「うん。今まで合図に気づかなくてごめんね。……うちに、泊まりにきてよ」
胸の中で小さく頷いた司くんの頭を優しく撫でて、一緒に電車に乗り込んだ。
現実はおとぎ話のようにはならない。誰にでも分かるように「一緒にいたい」と伝える行動をするわけでもないし、深夜0時までに帰らなければならないという確固たるルールがあるわけでもない。せっかく靴を置いていっても、王子様が見つけなければなんの意味もない。
意図的に相手を誘う行動をとる、僕の恋人のような可愛いシチュエーションだって起こりうる。
……まあ、シンデレラがガラスの靴を脱いだ真意は、彼女にしか分からないんだけど。わざとだったらおとぎ話にはならないかもしれないしね。