春 ねこのこい 桜流しの降った翌朝、事件は起きた。自室から長谷部が消えたのだ。
その報は当番でその週の近侍だった燭台切だけでなく、本丸中の刀に驚きをもって受け止められた。
長谷部が起きてこないため不思議に思い迎えに行った薬研曰く部屋の障子は数寸開いていたらしいが、その隙間から彼が出て行ったとは考えづらい。
──謎の隙間。そして消えた長谷部。
分からないことだらけだが、まずは本丸の敷地内を探そうという話になった。
人のいい主は自分も探しに行こうかと言い出し、歌仙やら平野やらに半分叱られるように止められていた。
顕現して数カ月経つけど、我らが主のお人好しにも少し困ってしまうな。長雨でぬかるんだ土の上を歩きながら燭台切は溜め息を吐く。雨にも負けず健気に残った少数の桜がしっとりと濡れている。
と、視界の下のほうを何かがよぎった。
「……え」
思わず声が出る。結界に護られた本丸の敷地内には、五虎退の虎くんや鳴狐のお供の狐など、霊力を帯びた生き物しか入ってこられないはずだ。だが目の前にいるのは。
煤色の毛並み。瞳の色は藤。ぬかるみの中で遊んでいたのか泥にまみれ、口には雨で落ちたものらしい桜の花を咥えている。燭台切と目が合ったことに気づいた瞬間、桜を咥えた口が開き、
「にゃあ」
とそこから甘えるような鳴き声が漏れた。
仔猫。
桜の花がぽたりと落ちると同時に、
「長谷部くん……?」
そう呼びかけずにはいられなかった。だって、他には有り得ないから。
呼びかけられた当人、いや当猫は、それが自分の名前とは全く理解していないような顔で、もう一度燭台切に、
「みゃあ」
と挨拶してきたのだった。
抱きあげれば素直に腕の中に収まったため、本丸の母屋に連れて帰るのはそう難しいことではなかった。ただし、ジャージの上半身が泥で汚れてしまったけれど。
長谷部の姿を見せられた薬研は頭をかくと、
「確かに、この体躯ならあの障子の隙間から出ていけるけどなぁ」
そう言い、困ったようにうめく。
「なんで長谷部がこんなことになったのか分からないのか」
不動に尋ねられ薬研は更に困惑の表情を強める。
「俺っちの医術は万能の魔法じゃないぜ?」
「ですが、あなたに分からなければこの本丸の誰にも分からないでしょう」
腕組みをした宗三が口を挟む。
──やっぱり、織田のみんなは長谷部くんのこと心配なんだな。
長谷部を腕に抱いたまま、燭台切は三振の話し合いを見つめている。すると腕の中でもぞりと動く気配。下を向くと、長谷部が何か言いたげに顔を上向かせている。
顎を撫でてやると、気持ちよさげに目を閉じる。
長谷部が元に戻るまで誰が面倒を見るか決めたほうがいい、と主が言う。本丸に帰るまでの道すがら、そういう流れになるだろうと考えていた燭台切は間髪入れず、
「僕が、お世話するよ」
そう勢い込んで主張する。少し不自然だったかな、と思うが仕方ない。
「燭台切が──?」
案の定、織田の三振と主は不思議そうだ。長谷部と普段特別仲良くしているというわけでもないから無理もないだろう。
「あの……その、僕は今近侍だし」
道すがら不自然でない理由を考えたのだが、これくらいしか思い浮かばなかった。
「近侍だったら余計猫の世話なんかしてる暇ないんじゃないか? 別に俺たち織田で面倒見るよ、元に戻るまでくらい」
不動が言う。その気遣ってくれる気持ちはありがたいのだが、燭台切にはどうしても面倒を見たい理由があった。
「もしかして、好きなのか」
薬研の言葉にどきりとする。見透かされた──!?
だが薬研はその後で、
「猫。そんなに好きなのか」
と続ける。どうやらこの気持ちが知られているわけではないらしい。これ幸いと勘違いを利用する。
「うん、実はそうなんだ。可愛くてさ。手放し難いよ」
えへへと笑って告げると、宗三が何か言いたげな表情で、
「可愛いって…… 今の見た目はそうかもしれませんが、所詮はあのへし切ですよ」
と言ってくる。すごい言い方だなと思いながら、どう返せば不自然でないか探っているところで、
「まあいいんじゃねえか。燭台切が面倒見てくれるなら俺たちも助かるし」
薬研が言い、
「何か困ったことがあれば手伝うから」
不動もそう付け加えたことで結論が出た。
主の部屋を出てから腕の中の泥んこに話しかける。
「まず、体を綺麗にしないとね」
泥のついたジャージの上はざっと洗って洗濯籠に入れ、上はTシャツ、下はジャージで風呂に行き、たらいの中にお湯を張ったのだが。
中に入れられようとした長谷部がその小さな体でよく、という抵抗を見せ燭台切はたじろぐ。
そう言えば虎くんたちもお風呂が嫌いだって五虎退くんが言ってたな……
五虎退に風呂に入れるコツを聞いてこようかと一瞬思ったが、なんのあちらは五匹、こちらは長谷部くんだけなんだから、と妙な意地を張りなんとかたらいで長谷部を洗おうとする。
「ミギャー!」
「長谷部くん、君は泥だらけなんだから」
「キシャー」
「長谷部くん……」
シャーシャーと何度も牙をむいて威嚇され、かなり心が折れそうになる。君のためにしてるのに……
泥のついた体を洗い、泡を落とした後もまた大変だった。ぺったり毛がはりついた体を乾かすためドライヤーのスイッチを入れたら、音と風に驚いた長谷部が逃げ出したのだ。
濡れた体で廊下や部屋を駆け回るから当然あちこち水浸しだ。
「こら! 長谷部くん!」
追いかければ追いかけるほどすばしこく長谷部は逃げていく。そうだ、長谷部くんの機動に僕が敵うはずがない。そう思うが追いかけないという選択肢は無い。自分で面倒を見ると宣言したのだから。
短刀たちは逃げ回る長谷部を可愛い可愛いと大喜びで見ている。
一方、大人の刀たちはどちらかというと振り回される燭台切のほうを面白そうに眺めている。
「君たち覚えてろよ!」
燭台切が長谷部を追いかけながら刀たちへ向けて叫ぶと、わっとその場が沸く。
「いやはや、伊達男も形無しだねぇ」
「青江くん、褒めてくれたと思っていいのかな?」
「長谷部は下戸なんだからさー、一杯飲ませちまえば簡単に捕まるんじゃないかい?」
「次郎さん、それ実行に移したら本気で〆るからね」
「おやおや恐ろしい」
やっと燭台切が長谷部を捕まえた頃には、その毛が自然乾燥で半分ほど乾いていた。
「はぁ…… はぁ…… 疲れた……」
半乾きからふわふわになるまでドライヤーをかけるのにも一苦労、終える頃には燭台切はくたくたになっており、自室の畳の上でぐったりと横になるしかなかった。午前中からなんたる無様な、と思うがもう体が動かない。
部屋の中を探検中の長谷部を横になったまま目で追う。
「長谷部くん」
呼びかけるが見向きもしない。少し拗ねたくなりつつ、
「はーせべくん」
声を少し大きくしてみたら、こちらを振り向いた。大きな瞳。
その姿を見ていたら自然と優しい声になって、
「……おいで」
寝そべったまま手を伸ばす。なーう、と鳴きながら尻尾を立て、てってってってとこちらへ走り寄ってきた。
「すごいなあ。君は言葉が分かるのかい?」
褒めてやりながら顎を指で撫でる。む~、と気持ちよさげにうなる。
「賢い子だね」
人差し指を立てて顔の前に差し出すと、ふんふんとにおいを嗅ぐ。その様が一生懸命で愛らしい。
「可愛いね。世界で一番可愛いよ」
「にゃあ」
額を撫でてやれば、満足げに目を細める。
「自分でも分かってるんだろう、可愛いって。……君はずるい子だ」
「みゅう」
右手の人差し指を甘噛みさせながら、左手で頭を撫でつつ語りかける。
「ねえ、今日は僕といっぱいお話ししてくれるんだね」
「む~?」
「いつもは…… ひとの姿の時は、こんなふうに僕と話してくれないだろ」
「うぅぅ」
長谷部は小首を傾げてうなると、指から口を離し、燭台切の顔のほうへ寄ってくる。
「ん? なんだい?」
長谷部に鼻をちろちろと舐められ、燭台切は笑い声をあげる。
「あはは、くすぐったいよ。……ねえ、こんなふうにいつも仲良くできたらいいのに」
「みゃあ」
顔の間近で話しかけてくる長谷部を、両脇に手を入れて抱える。
「ああ、でもやっぱり僕がいけないのかな。普段の僕はこんなふうに、君と自然体で話せないから。……どうしたらいいか分からなくなるんだ、君といると」
「にゃうん」
「本当はもっと、君と一緒に色々なことをしてみたいし」
「みゅ」
「君にいっぱいいっぱい、優しくしたいし」
「にゃ~」
「そうして、君が僕に笑いかけてくれたらどんなに素敵だろうって、思うよ」
藤色の双眸を覗きこみ訴えるが、当然鳴き声しか返ってこない。
「ねえ、君は僕のことをどう思ってるんだろう? ……少しでも望みはあるのかなぁ」
更に顔と顔を近づければ、「ねーう」と機嫌良さげに鳴いて鼻に額を擦りつけてくる。
「からだを接触させて『寝よう』なんて、大胆だね」
低く囁きかけるも、相手は不思議そうに見返してくるだけ。
「あはは。こんなこと言ってるなんて知られたら、眉間にしわ寄せて『ふざけるな』って言われちゃうか」
ふっと切なくなり空を見上げると、小さな体を胸に抱く。
「今みたいに、どう思われてるかさっぱり分からないのもそれはそれでつらいけど。嫌われるよりはマシだからね」
胸に抱いたいのちはあたたかくてやわらかい。
「君がお転婆さんなせいで振り回されたから、昼前なのに眠くなってきちゃったじゃないか」
そう訴えかけると、長谷部のほうも眠そうに「むぅぅぅぅ」と返してくる。
「ねえ。もう不埒なことは言わないから、一緒に寝てくれるかい?」
目を覚ますと、触れそうなほど近くに長谷部の顔が有った──ひとの姿をした。
何を考えているのかつかませない透き通った藤色が、じっとこちらを見据えている。
「えっ、うわ、長谷部くん……!?」
大声をあげて飛び起きる燭台切。猫の姿の時に抱いたままだった腕から慌てて彼を解放する。
「……どういうことだ」
長谷部の声は硬い。表情も。そのせいで燭台切はどうしていいか分からなくなってしまう。……いつも長谷部といる時と同じように。
「ここはお前の部屋か? 俺はどうしてここにいる?」
抱きしめていたことに言及されず内心安堵しながら、
「覚えてないのかい? 長谷部くん、猫の姿だったんだよ」
信じてもらえるだろうか、そう不安に思いつつ返す。案の定長谷部は、
「猫──?」
と不審げな表情だ。だが、何も起きていないなら燭台切の部屋で自分が寝ているはずがないことは理解しているらしく、今朝薬研が起こしにいってからのことを説明すると半信半疑の表情ながら、
「そんな突拍子もない嘘をお前が吐くはずもないしな…… そういうこともあるのか」
と自分に言い聞かせるように頷く。
「それで、なぜお前が世話を……?」
「ええと、あの、それは、僕が近侍だから」
怪訝そうに問われ、しどろもどろになりながら答える。本当の理由を知られるわけにはいかない。きっと──応えてはもらえないだろうから。
長谷部は何か考えるようにじっと燭台切の顔を見つめた後で、
「そうか。すまなかったな。面倒をかけて」
そう言い、ふいっと視線を外してしまう。
──そんな顔で謝らなくていいのに。
謝られるとなんだかこちらがしたくて申し出た世話が、向こうには迷惑だったように思えてしまって悲しくなる。でもそれは僕が長谷部くんに対して抱いている一方的な気持ちのせいだからなにも言えない。そう思う。
部屋の中を気まずい沈黙が覆う。
ああ、猫の君には好きなだけ言いたいことが言えたのに。君が猫の姿に戻ってくれたら…… いや、でも、僕が本当に仲良くしたいのは今の君だ。
そう思い、
「はせ」
声をかけようとしたところで視線を外したままの長谷部に、
「長々と居座ってしまってすまなかったな。失礼する」
硬い声でそう宣言される。
やっぱり、仲良くしたいと思ってるのは僕のほうだけなんだ。
そう思い表情を硬くする燭台切。ぎゅっと両の手を握りしめ、
「うん。それじゃ── また」
と返すことしかできない。
長谷部が出ていく。障子が閉まってから、ほぅ、と溜め息を吐かずにいられない。
──特別な関係になれたらなんて贅沢は言わない。せめて、本丸の仲間として普通に仲良くできたらいいのに……
アンニュイな表情でそう願う燭台切は、障子の外の長谷部もまた同じ想いでなかなかその場を立ち去れずにいることを知らない。