長谷部主任はキスがNG「長谷部主任。こういうの、今日でもう終わりにしましょう」
長船が声をかけてきたのは、ホテルの部屋を出ようとしている時だった。
「こういうの」とは何か、と野暮を問うつもりはない。このホテルは普通のホテルではなく頭に「ラブ」がつくやつだし、部屋は能天気なピンク色に覆われているし、長船と長谷部はそのラブがつくホテルで他の人類も等しく行う営みを今日も繰り返した。つまり彼が終わりにしようというのはそういう営みだ。
そこに疑問を挟む余地はないので、長谷部はただ、
「なぜだ」
と尋ねた。終わりにする理由が長谷部の中には見当たらなかったからだ。
長谷部は誕生日が来たら三十路を迎える。長船は入社二年目だから浪人やら留年やらをしていなければ六歳差ということになるだろう。
長船が実際浪人やら留年やらをしているかどうかは長谷部の知るところではない。セフレが浪人していようと留年していようとどうでもいいことだ。
「なぜだって、不毛だろう。……じゃない、不毛じゃないですか」
長船は飽くまで敬語を通したいようだ。仕事から離れて二人で会うときには生意気にも「長谷部くん」と呼びかけてきて、敬語を使うことも嫌がるのに、今はそんな自分を忘れたいらしい。
「体だけの関係だぞ? 何の実りもないなんて最初から分かってたことだろう。しかも男同士だ。何かが生まれたらそのほうがどうかしてる。今更なにを言うかと思えば」
「今更じゃない! ……です。不毛だって気づいたんだから今からでも遅くない。職場の上司と部下に戻って」
「そのわりにお前、さっきまで俺にしつこいくらいがっついてたよな」
長船の顔が面白いくらい赤くなる。
「あれは! 最後だからと思って……」
「終りにするつもりのセフレにそれを隠して抜かずに三発か。いい趣味だな長船」
「長谷部く……主任だって、気持ちよさそうだったじゃないですか」
「ああ、最高にとろっとろだったぞ。俺たちの相性は最高だ。終わりにする必要ないだろう」
そう言い聞かせても長船は承服しかねるという表情だ。
話が長くなる気配を察知し、長谷部はベッドに座ると煙草を取り出す。紫煙を吐き出すまで長船は何も言わずじっとこちらを見つめていた。
「……体の相性だけが全てじゃないですよ」
押し殺した声で長船が言う。
「快楽を優先するより、自分を必要としてくれる相手を選んで幸せになりたい」
「俺だってお前を必要としてるぞ?」
「僕の体を、だろう!? 僕自身じゃない。僕は僕の全てを必要としてくれる相手と巡り会いたいんだ。小さな幸せでいいから二人で大切にして、互いを慈しみあって」
「長船」
「……なんですか」
演説を中断され不服げな顔を眺めながら立ち上がり、煙を吹きかけ言う。
「学生時代の友達が結婚することでも決まったか」
覗きこんだ顔が真顔になる。長船の真顔は整いすぎて怖いくらいなのだが、今の長谷部には滑稽なだけだ。
「図星だな」
「確かにそうだけど! それは関係ない……です。」
「長船お前言ってたよな?」
「何を」
「俺とこういう関係になったばかりの頃に、こんなに気持ちいいものが世の中にあるなんて知らなかった、今まで女で満足してたのが馬鹿みたいだって」
「そ、そこまではっきりとは言ってない」
「大体こういうことだろ」
「そ、そうかもしれないけど……」
「女と結婚して、そいつで満足できるのか」
「だから、体の相性だけが全てじゃないって」
「全てではないかもしれないが重要だろ。結婚すればそれ以降何十年もその女しか抱けないんだぞ? 耐えられるか? 俺抜きで」
呆れた、という表情で長船が言う。
「ものすごい自信だね」
「そりゃ、毎回あれだけがっつかれたらな」
心外だという表情を浮かべる長船。
「がっつ…… そういう言い方やめてくれませんか、さっきから」
「仕方ないだろ、夢中とかそういう可愛いレベルじゃないんだから。覚えたての犬みたいな状態がこの関係になってからずっと続いてるんだぞ?」
「だから! 君…… 主任のそういうところが嫌になったんです」
「そういうところ、とは」
煙草を咥えたまま長谷部が片眉を跳ね上げると、長船は長い指でそれを唇から奪い、その細長い筒を憎らしげに見据えながら言う。
「僕のことを小馬鹿にしてるっていうか、下に見てるっていうか、そういう態度ですよ。確かに僕は主任より六つも下ですけど、会社を離れてこうして会ってる時は対等な関係でいたい。でも主任はどうせ僕と、上司と部下の関係を崩す気ないでしょう? だから他を探します」
「おい、早く返せ」
「僕の話聞いてました!?」
右手を伸ばす長谷部にむっとした表情で返し、長船は煙草を持つ右腕を高々と掲げる。この身長差では勝てるはずがない。長谷部が不機嫌な顔をすると長船は嬉しそうだ。腹立たしい。長谷部は不貞腐れると長船から視線を外し、またベッドに座り込む。
「お前の話なら聞いてた。俺の態度が気に入らないって話だろう」
「大雑把すぎませんか」
「だが大体そんな感じだろう。でもな、俺の態度が偉そうなのなんてお前が入社する前からだし、お前に対してだけじゃなく誰に対しても平等に偉そうだぞ俺は。お前が年下だからとか下に見てるからとかじゃない」
「社長にはいつも営業スマイルじゃないですか」
「お前、あの営業用の態度で俺に接してほしいのか」
「……違います。さっきも言ったでしょう。上でも下でもなく、対等でいたいんです」
そう言うと長船は持っていた煙草を灰皿に押しつける。
「あっお前、まだ吸えたのに」
「持ってるだけで煙いですよ。よくそんなもの吸えますね」
呆れた表情で腕を組み、ベッドに座っている長谷部を見下ろしてくる。
「お前、さっきは体だけの関係は不毛だから終わりにするって言ってただろ。今度は俺が偉そうだからか。論点は一つにしぼったほうが説得力が高まるって新人研修で教えたの忘れたのか?」
言い終えて見上げた長船は、水を溜めこんだ堤防が決壊したような初めて見る表情をしていた。長谷部が驚いて言葉を発しようとする前に、
「だから! 君の何もかもが嫌になったんだ!」
長船が聞いたこともない大声でそう叫ぶ。
「僕をいつまで経っても子ども扱いしかしないところも! 飲むし吸うしで自分にちっとも気を遣わないところも! 偉そうなくせに料理ひとつまともにできないところも!」
長谷部は目を見開いてただその言葉を浴びることしかできない。
「君にとっての僕は性欲処理の道具でしかなくて! 僕との将来どころか君自身の将来すらまともに考えてるように思えなくて。そんな相手のことを真剣に想っている自分が惨めで馬鹿らしくて嫌になった。だから君とは終わりにするんだ」
能天気なピンク色で覆われた部屋を沈黙が包む。
何か言わねばならない気がした。だが長谷部の頭はまともに動いてくれなくて、舌がもつれそうになりながらやっとのことで、
「長船」
途方に暮れたように突っ立つ目の前の男の名を呼ぶ。隻眼がぎろりと動いて長谷部を見据える。
「何」
「お前…… 俺のこと」
「そうだよ。……本気だよ」
長船の顔はくにゃりと笑みを形どってから、
「ああ、絶対に言わないつもりだったのに。なんで言っちゃったんだろ…… 格好悪い」
泣きそうな表情に変わり、その場にしゃがみこんで項垂れ、くしゃりと髪の毛をかき混ぜる。
セットが乱れるからって俺がやるといつも嫌がるのに、そんなことをぼんやり思いながら、長谷部はベッドから長船の二つのつむじを眺めている。
「好きだとか、本気だとか…… そういう感情を君との関係に持ち込むのはルール違反だって分かってる。君にそんな気がないことは。だから言わないって決めてた。今日で終わりにするって言えば、君は何の未練もなくあっさり頷くだろうと思ってたのに。思ったより君が……」
「俺が?」
「しつこかったから」
言って長船は顔を上げ、長谷部と目を合わせると困ったように笑う。
「でも大丈夫。実は君も僕のことを、なんて都合のいいことは考えてない。他に好きな相手がいるんだろう?」
虚を突かれ思わず聞いてしまう。
「なぜそう思うんだ」
「だって長谷部くん、絶対にキスさせてくれないからさ」
長船はどこかに痛みを抱えているかのような笑みを浮かべ答える。
「結構アブノーマルだったり激しかったりなプレイも平気でさせてくれるのに、唇だけは許してくれないっていうのは……他にキスしてほしい相手がいるからなんだろうなって、ずっと思ってた。……僕に抱かれてても、その人のことを考えてるんだろうなって」
まぶたを伏せ、自分を痛めつけるように言葉を紡ぎ続ける。
「僕としてるときに目を閉じるのも僕じゃない誰かを思い浮かべるためなんだろうとか、はしたない声を大きくあげるのも僕の声を聞かないためなんだろうとか考える度に、見たこともない誰かのことを思って嫉妬で気が狂いそうになったよ。
それでも君が僕に抱かれてるってことはその誰かは君を抱いてくれないってことだ、なら君を実際に抱いている僕の勝ちだってそう思い込みたかったけど、君の心の中にその誰かがいる時点で最初から勝負にならないって気づいてた。
僕はこんなに君が好きなのに。君をこんなに気持ちよくさせてあげられるのに。でも君が好きなのは僕じゃない。
僕が今日何度も言った、『体の相性が全てじゃない』っていうのは…… このことだったんだよ、長谷部くん。体の相性が全てなら、今頃君は僕のものだった」
長船が長谷部のほうに腕を伸ばそうとし、途中でやめる。右手の指は空をつかむ。
「ああ、全部言っちゃったな…… 笑ってもいいよ」
「…………」
「参ったな…… 調子が狂うから何か言ってよ。お前は相変わらずガキだな、とかなんとか」
長船は苦笑してそう長谷部にねだる。
乞われた長谷部が口にしたのは、
「長船。知りたいか、俺が好きなのは誰か」
だった。
長船は目をみはる。
「えっ…… 知ってる人なの? 僕の」
「ああ、よく知ってる奴だ」
「そうだったんだ…… 待って、想定外過ぎて知りたいのか知りたくないのか自分でも」
慌てている様子を見てくすりと長谷部は笑みを浮かべると、ベッドから立ち上がり長船の目の前でしゃがむ。同じようにしゃがんでいる長船の顎を指でとらえ、
唇を重ねる。
そっと触れさせてから唇を離す。目の前の長船の唇は震えていた。自分の唇が同じなのも、自覚はある。
「はせ……べくん」
震える唇が、信じられないけれど信じたいと雄弁に語る隻眼が、言葉を促す。だから長谷部は応じる。
「お前だ。お前が好きなんだ…… 長船」
ピンク色に囲まれた部屋で、とっくに成人した大男と今年で三十路を迎えるそこそこ大男がしゃがんで向かい合って何をしてるんだろう、と思っているところで、
「な……なんで!?」
と長船に叫ばれ、長谷部は困る。
「なんでってなんだ」
「だって長谷部くん、じゃあなんで僕にキスさせてくれなかったの!?」
「いや、それは…… お前と俺はセフレなんだし、俺のこと好きでもない奴に唇までくれてやる必要はないかと思ってだな」
「好きだよ! そりゃ確かに体から始まったけど…… でもちゃんと好きだよ。ねえ、本当に? それじゃ、僕としてるときにいつも目を閉じるのは?」
問われた長谷部は、う、とひるんだ後、視線を長船から恥ずかしげに外して答える。
「お、おかしくなりそうなくらい気持ちいいから、開けていられないだけだ……」
「大きな声を上げるのも」
「抑えられないんだ、善すぎて…… こんなこと言われなくても分かれ……っ」
左手の甲で口元を隠し、ますます恥じらう長谷部を長船は驚きを隠せないという表情で見つめてくる。いたたまれない。
「そうなんだ…… 長谷部くんも僕のことを…… 僕だけだと思ってた」
「……俺だって思ってた」
そういう声がなんだか子どもっぽい拗ねたものになってしまい、慌てて虚勢を張ろうとした長谷部を、長船がぎゅっと抱きしめてくる。
「長谷部くんだけじゃないよ」
その声の温かさに安堵を覚えてしまうのが悔しい。
「……うん」
「僕たちお互いに、自分だけが本気なんだって思って気持ちを隠してたんだね。前にも言ったけど、やっぱり僕たち気が合うのかも」
長船に言われ、
「こんな気の合い方いるか」
と返せば、
「まあまあ。これだけじゃないからさ」
上機嫌の声で諭され、頭まで撫でられる。
「おい、長船の癖に生意気だぞ」
「そんなこと言っちゃって、僕のこと好きなくせに」
「お前……!」
腹を立てて腕から抜け出そうとするが、余計ぎゅうぎゅうに抱き込まれただけだった。
「ふふ。よかった。長谷部くん好きだよ。……大好きだ」
甘い声で囁かれ、いたたまれなくなって憎まれ口を叩いてしまう。
「なんだお前。飲むし吸うしだの、料理一つまともにできないだの、散々に言ってたくせに」
「長谷部くん」
甘くとろけていた長船の声の調子が変わる。
「そのことだけど。本当に煙草は止めてくれないかな」
「何を」
抱きこんでいた腕を少し緩め、長船が長谷部の顔を覗きこんでくる。
「君はただでさえ僕より六つも年上だし。この上さらに寿命が縮むようなことしてほしくないんだ。僕は……本気で君と、一生一緒にいたいと思ってる。これは、友達が結婚するからじゃなく、その前からずっと考えてた」
「…………」
「今すぐ一本も吸わなくなるのは難しいって知識はある。だから少しずつ減らしていってほしい」
「俺個人の意志じゃ無理だろ」
「そんなこと……」
「だから、禁煙外来に通う」
「長谷部くん……!」
長船がぱっと表情を輝かせるので、照れくさくなって下を向き言う。
「俺は高校の頃から吸ってるから、今更手遅れかもしれないがな」
「手遅れなんかじゃないよ。二人で末長く長生きしようね」
顎を指で上向かせられ、頬を寄せられる。
「嬉しいな。どうでもいい話をだらだらするのも楽しいけど、長谷部くんとお互いの話をこれだけ長くできたのって初めてだ」
「これだけ長く……」
長谷部はそこでようやく腕時計に目をやる。
「おい。俺たち時間ギリギリまでヤッてたから」
「随分と延長……しちゃったね」
長谷部は溜め息をつくと、ベッドに後ろ向きに寝転がる。
「帰る気が失せた。延長ついでに今日は泊まるぞ」
「えっ泊まるって…… まだ夕方なのにどうするの」
「どうするだと?」
長船ににやりと笑いかける長谷部。
「体の相性『も』最高の俺たちがホテルですることなんて、一つに決まってるだろ」