中庭の猫 木漏れ日とベンチ、膝で丸くなる猫。ぴちちと鳴く鳥の声が聞こえる魔法舎の中庭で、漂ってくる甘い香りは誰かのアフターヌーンティーのものだろうか。
平和そのものといったその情景の中、何故か賢者は険しい表情で不自然な位置に腕を構えていた。
「…何しているの?」
「わっフィ」
フィガロが声をかけると、賢者は呼びかけた名前を押しとどめて、首だけで振り向いた。唇に人差し指を当てて、少し申し訳なさそうに、あるいは甘えるように囁く。
「ちょっとだけ、しーー…で」
おねだりに頷いて、ゆっくり近づいていく。賢者に拒否する気配はない。ちょっとだけ静かにしていれば近づいても良さそうだと判断して、隣に腰掛ける。
賢者の膝には、短毛種の猫が乗っていた。年老いており毛並みがパサついているが、健康ではあるようだ。しなやかな筋肉をもって、いつでも動ける程度には緊張している様子だった。静かにと釘を刺された理由はこれかと目星を付ける。賢者の耳に口を寄せて、抑えた音量で「かわいいね」と言えば機嫌良さそうに微笑んだ。小さな声の返事が返ってくる。
「はい。いつもは警戒心の強い子なんですけど、今日初めて膝に乗ってくれたんです」
「賢者様の魅力が猫にも伝わったんだ」
「そうかもしれないと思うと、嬉しくなっちゃいますね」
賢者が腕をあげて、けれどその腕はどこにも行かず宙をさまよう。再度不自然な構えになり、先ほどまでの笑顔とはうって変わって難しい表情で膝の上の猫を眺めている。
「何しているの?」
「えっと、ですね…」
顔を上げないまま、賢者が答える。
「なでたいんですけど…触ったら逃げちゃうかなって…」
「ああ、なるほど」
なでたい欲望と躊躇いに板挟みになって、それで奇妙なポーズをとっていたらしい。
「もっと近づきたいけど、それで今の距離感がなくなってしまうかもしれない…そう思うと怖くて」
「恋かな」
「恋かもしれません」
ありきたりな恋愛小説のような台詞を茶化したつもりが、大真面目な返答に苦笑する。妬いちゃうな、と続けるつもりだったのに、これでは効果は薄いだろう。賢者の視線は猫に向いたままだ。
「君に懐いてて、なでさせてくれる猫をなでればいいのに」
「それは…それもそうなんですけど、この子が膝に乗ってくれたのが嬉しくて」
「そういうもの?」
「仲良くなりたいけど怖がらせたくない子がいて、その子の方から来てくれたら嬉しくなります」
「そうだね」
賢者とフィガロがしゃべる度に、猫の耳が動く。こちらの動きに警戒心を忘れきってはいないようだった。膝に乗せている賢者も、その様子には気が付いているのだろう。
「でも、相手が嫌がるかもしれないことはいけないですよね。…あっ!」
物分かり良くなろうと下ろした腕に、猫がすり寄った。賢者の手に頭を擦り付けている。
「は、わ、ふぃ、フィガロ…!」
賢者は小声で興奮して「見てますか」なんて当たり前のことを確認してくる。
「見てるよ。猫の方から来てくれたね」
「はい!なでてもいいかな?なでるね…」
とろけた声をかけながら、恐る恐る猫の背をなでる。ほとんど触れていないんじゃないかというくらい慎重な手つきで、猫が変わらずすり寄ってくるのを確認してさらになでた。
「ふーーーわわ」
「嬉しい?」
「嬉しいです!」
昼下がりの中庭。ベンチに座る賢者と猫。鳥の鳴き声と甘い香り。平和と幸福そのものといった情景を隣の特等席から眺めていると、それだけで満足な気がしてくる。フィガロを見ない賢者の横顔を眺めて過ごすのも悪くない、なんて謙虚で穏やかな感想だった。