ゼクノヴァの向こうから五年ぶりに帰ってきたと言われても、シャアには全く実感がなかった。なにせ、そのサイコミュ暴走事故の光りに包まれたと思った次の瞬間に、シャアは五年後に飛ばされていたのだ。
幸い、シャリアが裏から手を回して全ての段取りを済ませていてくれたお陰でことはスムーズに進んだ。シャアはジオン・ズム・ダイクンの遺児であることとザビ家一党が父を謀殺して公国を乗っ取ったことを公表し、持ち前のカリスマ性で軍の大部分を掌握してザビ家を排除することに成功した。
公国の内乱が終わってからも、ギレンに代わり総帥となったシャアは目が回るほどの忙しさに息をつく暇もなく、あっという間に日々が過ぎていった。
休暇を取ることなどできるはずもなく、シャアのそばには常に数人の軍人や官僚がいてプライベートすらもない。
そんな日々がようやく落ち着いてきて、この日は珍しく総帥府の執務室にはシャアと側近のシャリアの二人だけになった。
少し休みたいと言ったシャアのためにシャリアが手ずから紅茶を淹れる。
「こうして二人だけで話すのは久しぶりだな」
シャアが言うと、シャリアは軽く目を伏せた。
「ええ。本当に」
そこでシャアは自身の失言に気づく。シャアの体感よりもシャリアはさらに五年長い年月を過ごしているのだ。
「私がいない間、随分と苦労をかけたようだな」
「そう……ですね。ですが、大佐が戻ってきてくださったので苦労も報われたというものです」
シャアの代わりに物事を進めるために、シャリアはだいぶ無理をしてきたらしい。その影響で見た目も言動もすいぶん変わってしまったが、シャアに向ける眼差しはあの頃と何も変わらない。
五年前、確かに自分たちは淡いながらも恋していた。あのサイコミュの暴走事故さえなければ、もっと深い関係になれていただろうことは疑うべくもない。
――まだ、想いは通じ合っていると考えて良いのだろうか。
シャアは椅子から立ち上がると、シャリアの目の前に立った。
「大佐? どうかなさいましたか?」
僅かに首を傾げたシャリアの顎を指先で捉える。
しかし、シャアの思考が読めてしまったのか、シャリアはシャアの指から逃れるように顔をそらした。
「お戯れを……」
「なぜ逃げる? キスは以前にもしただろう?」
シャアの熱のこもった視線を受け止められず、シャリアは後ずさった。
「あなたが私を拒否する理由が分からないな」
シャリアが下がった分だけシャアは距離を詰める。
「それとも、この五年の間に心変わりしたか?」
「その、ような……ことは……」
「ああ、分かっている。そうでなければ五年間もずっと私を探し続けることなどできなかっただろう」
シャアは再びシャリアに手を伸ばす。しかし、その手は咄嗟に手が出たシャリアにはたき落とされてしまった。シャリアは自身のしたことが信じられないというようにぎゅっと手を握って、また一歩下がった。
「私とキスするのが嫌か?」
「……お許しください、大佐」
「答えになっていない。私のことが嫌いか? シャリア・ブル中佐」
「いいえ……。どんなことがあろうと、あなたを嫌うことなどありえません。ですが……」
シャリアの声が僅かに震える。
「私に部下として以上のことを求めるのはおやめください。私は、あなたが死ねと仰るならば今この場で自分の頭を撃ち抜く覚悟があります。この忠誠は生涯変わりません。ですから、どうか……」
「死ねという命令は聞けても、キスは嫌だと?」
「総帥としてのご命令でしたらなんでもいたします。口づけでも、裸になれでも性処理の相手をしろでも。ですが、シャア・アズナブル個人として仰っているのならば、聞けません」
シャリアの前髪が落ちかかって、俯いた顔をさらに隠す。
嫌っていないのならどうしてここまで拒否されるのか。シャアはここに来てようやく一つの結論にたどり着いた。
シャリアにシャアよりも大切な相手ができたのだ。それならばキスを拒否されたことにも納得がいく。口惜しいことではあるが、五年も放ったらかしにしていたようなものだ、たった数度キスしただけの相手を一途に想い続けろなど酷な話だ。
「すまんな、中佐。無理強いするつもりはなかった。今日はもう下がっていい」
シャリアは一礼しただけで無言で部屋を出ていった。残されたシャアは疲れたように椅子に深く座る。
「シャリアのお気に入りのあの少尉か……」
総帥の役目をこなしつつ、忙しいながらもシャアはシャリアのことはよく見ていたつもりだ。女の影は無かったし、浮いた噂も全く聞かなかった。気になったことといえば、あの少尉と話すときだけシャリアの纏う空気が柔らかくなることぐらいだ。
自分たちと同じニュータイプ。シャアと違って捻くれたところのない純情そうな好青年。交渉事や謀略で何かと神経をすり減らしていたシャリアに必要だったのはああいう青年なのだろう。
あの時、五年前に唇だけでなく体も重ねていたらもっと違う未来があったのだろうか。
シャアは目を閉じて深くため息を付いた。
翌日はまた忙しさが戻ってきたが、その合間を縫って例の少尉を呼び出す。人払いをされ、シャアだけがいる執務室に入ってきた少尉は明らかに緊張していた。一人で呼ばれたのは初めてなのだから無理もあるまい。
「エグザベ・オリベ少尉、参りました」
「ああ、突然呼び出してすまないな。個人的な用だから楽にしてくれ」
シャアがそう言っても、エグザベは姿勢を崩さず表情も硬いままだ。
「本当に個人的な話なんだ。君と中佐のことを聞きたくてね」
「中佐? シャリア・ブル中佐ですか?」
「そうだ。君たちは随分と親しい関係のようだな」
シャアがそう尋ねると、エグザベは明らかに困惑したように視線を彷徨わせた。
「親しいといいますか……良くしていただいているとは思いますが、ただの上官と部下です」
エグザベの思考を読もうとシャアはじっとエグザベの目を見る。しかし、伝わってくるのはなぜこんなことを聞かれているのかという戸惑いの感情だけだった。
「二人はそういう関係なのではないかと思ったんだが、違うか?」
「そういう……って、あの、中佐とは本当に仕事上の関係でしかありません」
「では聞き方を変えよう。君は中佐のことをどう思っている?」
エグザベはぐっと言葉に詰まった。何度か口を開いて閉じるのを繰り返して逡巡しているようだったが、どうせ思考が読まれてしまうなら嘘をついても仕方ないと開き直ったのだろう。顔を上げてシャアの目まっすぐ見返してエグザべは言った。
「中佐のことが好きです。上官としてではなく、一人の人間として愛しています。ですが、そのことは一切伝えていないし、気付かれないようにしてきましたので中佐はご存知ありません」
「伝えない理由を聞いても? それに、彼が相手なら君のその好意が伝わってしまっているのではないか?」
シャリアは相手の思考を読むのに特に優れた能力を持つニュータイプだ。エグザべの好意が伝わっていないとは考えにくい。だが、その可能性をエグザべは即答で否定した。
「中佐はずっとシャア大佐に焦がれていらしたので。僕の方など一度も見てはくれませんでした。総帥の仰るようにもしこの感情が伝わっていたとして、それならなおのこと中佐は僕をただの部下としてしか見ていない証拠なのではないですか?」
エグザべの好意を知ったうえで徹底的に上官として振る舞うのならば、その過ぎた好意は歓迎されていないと見るべきだろう。上官と部下の関係を超える気はないと暗に示されているようなものだ。
「総帥こそ、中佐とそういう仲なのではないですか? もしも中佐が僕と浮気をしていると疑っておられるのならば、その心配は無用です。お話した通り、ずっと僕の片思いでしたし、これからもそうですから」
エグザベの強い視線からは僅かの嘘も感じられない。予想が外れたシャアは、口元に手を当てて考え込んだ。
「そうなのか……。ならば少尉、中佐の恋の相手に心当たりは?」
「ですから、それはシャア総帥以外にはおられ……って、違うのですか?」
エグザべは驚いた声を隠しもせず、シャアは小さく頷いた。
「少尉が中佐の新しい恋人だと思ったのだが……」
エグザベはあからさまに顔に疑問を浮かべる。
「僕が見る限り、プライベートで中佐と特別親しくしている特定の相手はいないように思いますが……」
「シャリアが、実は君に気があってそれをあえて隠している可能性は?」
「ありません」
エグザベは断言した。手すら握ったことがないというのに、気があるわけがない。
「それはわからないぞ。シャリアは自分の感情を隠すのがうまいからな。少尉、思い切って告白してみたらどうだ? あとでその結果を教えてくれ」
シャアの突飛な提案に、エグザベは露骨に嫌な顔をする。
「無理です。振られるのが分かりきっているのに告白なんてできるわけがありません。折角いい関係で仕事できてるのに、こんなことでギクシャクするのは嫌です」
嫌いになったわけではなくあの頃と同じように想ってくれている。別の恋人がいるわけでもない。ますます意味がわからない。
「総帥こそ、実力行使に出られればよろしいのでは?」
「……それをした結果、こうして君を呼び出す羽目になっている」
シャアとエグザベは同じタイミングでため息をついた。
「中佐は大佐のことしか見てないから僕なんか相手にされないとばかり想ってたんですが」
「シャリアが私の手を取らない理由が君ならば、納得できたんだがな」
シャアは僅かに目を細めた。思いついたことはあまり良い解決法とは思えないが、のらりくらりと相手を躱すことを覚えてしまったシャリアには、逃げ場をなくして問い詰めるやり方が有効だと思える。
「少尉、今夜はなにか予定があるか?」
「いえ、特には」
「こういうことは早いほうがいい。君にも付き合ってもらおう」
任務ではなくごくプライベートなことだが、エグザベに断る選択肢はなかった。
その日の勤務終了後、無理やり仕事を終わらせて人払いした執務室にシャリアとエグザベを呼び出す。
すべてを知っているエグザベはどこか浮かない顔で、シャリアはいつもの飄々とした態度でシャアの執務机の前に立つ。
「夜にすまんな。楽にしてくれ」
シャアは応接セットのソファに二人を招くが、なにか思うところがあったのか、シャリアは「いえ、ここで結構です」とその場を動かなかった。エグザベもそれに習い、仕方ないとシャアは自分だけソファに掛ける。
「単刀直入に聞こう。シャリア中佐、あなたには特定の恋人がいるのか?」
「……お答えする必要を感じません」
珍しく反抗的に返してきたシャリアにシャアは僅かに苛立つ。
「ならば命令するとしよう」
「…………おりません。そんな私の個人的な事情などどうでもいいではありませんか」
シャリアはちらりとエグザベの方に目をやる。
「ましてや、エグザベ少尉までお呼びになる理由が分かりません」
「どうでもいいだと? 私はあなたに好意を持っている。特定の相手がいないなら私と付き合ってくれてもいいではないか?
エグザベ少尉も呼んだ理由は、あなたが私を拒否する理由が彼にあるのではないかと思ったからだ」
「その件に関してはお断りしたはずです。エグザベ少尉とはなにもありません」
ほらね、とでもいうようにエグザベが肩を竦める。
「私が納得できる理由があれば諦めよう」
シャアはソファにもたれ掛かって足を組む。シャアの挑戦的な視線を受けても、シャリアは表情一つ変えなかった。
「お立場をお考えください。あなたはキャスバル・レム・ダイクン、この国のトップになるお方です。ふさわしい伴侶を迎え、お世継ぎをお作りになるのはあなたの義務です」
なんとくだらない義務だろう。跡継ぎなど、実力のあるものがすればいいだけではないか。
「伴侶はあなたがいい。私はこの国を世襲で治めようなどとは思わないが、どうしても後継者が必要なら養子でも迎えればすむことだ」
「総帥がそう望まれるのならばそれでもいいでしょう。ですが、私は伴侶にはなれません。いくつの年齢差があると思っておいでです?」
結局のところ、それが本音か。
シャアはおもむろにソファから立ち上がった。
「五年前もあなたは同じようなことを言ったな『九歳も年上の私など』と。少尉に手を出さないのも歳の差のせいか?」
「ですから、少尉とは何も……」
「彼は、あなたに気があるようだが?」
エグザベが息を呑む音がする。シャリアはその音に反応したようにちらりと視線を流した。
「そうなのですか?」
「……そ、それは……その…………。そう、です」
エグザベがどうして自分まで巻き込むのだと恨みがましい目でシャアを見ている。一方のシャリアはポーカーフェイスを保っていた表情を嫌悪に歪めた。
「お二人から好意を向けていただけるのは嬉しいことですが、私はどちらとも深い関係になるつもりはありませんので」
お話がそれだけでしたら失礼させていただきます。
シャリアはシャアの返事も聞かずに踵を返すと、エグザベを伴って執務室を辞す。
「歳の差だと? そんな理由で諦められるほど軽い情ではない」
シャアは暗い笑みを浮かべた。
「エグザベ少尉」
総帥府から出たところで、エグザベはシャリアの硬い声に呼び止められた。
「忘れなさい。いいですね」
何をとは言われなかったが、それがシャアとの会話の内容だけではないことは容易に想像がついた。
「総帥にお世継ぎが必要なことは理解します。でも、僕はそうじゃない。僕でも、ダメなんですか?」
「世迷い言を。君はまだ若いんです。こんな薹が立った男になど惑わされていないでまともな恋愛をしなさい。君のためです」
「……人を好きになるのに、性別も年齢も関係ありません。僕はあなたのことが……!」
そこまで言ったところで、エグザベはシャリアの怒気に直接当てられて口ごもった。
「……黙れ」
ぞっとするほど冷たい声が鼓膜を震わせる。まるで喉元にナイフを突きつけられたような寒気がエグザベの背筋を駆け上がった。
「もうし、わけ……ありません、でした」
「結構。二度目はありませんのでそのつもりで」
いまままで僅かでも感じられていたこの人からの好意は、もう二度と向けられることはないのだろう。
歩き去るシャリアの後ろ姿を見ながら、エグザベはぐったりと肩を落とした。