流心〜ドイツ編〜楓吾2
「久しぶりですね、フーゴ」
嫌味なほど美しい顔をほんの少し傾けて、その男は僕の名前を呼んだ。そのまま近づけられた唇を躱すと、小さなため息と共に煙草とライターが取り出される。店の脇の狭い路地に白い煙が広がっていく様子を見て初めて、ドイツに来てから魁が全く煙草を吸っていないことに気がついた。
「こっちに戻ってるなら言ってくれればよかったのに」
「君に知らせる義理は無いだろう」
「冷たいなあ。それが昔のボーイフレンドに対する態度ですか?」
──ボーイフレンド、という言葉を魁以外の人間に使われたことへの違和感が全身に広がる。僕が何も言えないのをいいことに、男は勝手に話を進めた。
「さっきのアジア人が今の恋人?彼、日本人でしょう」
「だから何だって言うんだよ」
「別に。ただ少し驚いただけです。あなたが純ニッポン人をパートナーに選ぶだなんてね。あんなマッチ棒みたいに細い身体で、あなたの欲望を受け止められるとはとても思えないけど……」
「やめてくれないか!」
僕が声を荒げたことを面白がるようにして、男が笑う。あの頃もそうだった。辛い別れを立て続けに経験して傷ついた僕を慰める振りをして、この男はちょっとした遊びに僕を利用したんだ。
「目的は何なの」
「目的?嫌だな、偶然旧い友人に再会して、ちょっと挨拶をしただけじゃないですか。別に私は、過去の私たちの関係をだしにあなたの今の恋愛を壊そうだなんて考えていませんよ。ただ……」
「ただ?」
「もう一度くらい、あなたと楽しみたい気持ちはあるかもしれませんね」
店に戻ると、スマホの翻訳アプリと少しの英語を駆使して、魁は隣のテーブルに座った紳士と楽しそうにおしゃべりをしていた。紳士は過去に何度か日本を訪れたことがあるらしく、あれは美味かった、あの建物はまだあるのかなどと言って魁を質問攻めにしている。和やかな雰囲気に割り込むのを躊躇っていると、紳士がこちらに気づいて手を挙げた。それに促されるようにゆっくり振り向いた恋人の目を、僕はまっすぐ見られない。
「もうちょっとドイツ語勉強して来ればよかったよ」
さっきの男のことには一切触れず、魁は肩をすくめている。今この場で踏み込んだことを聞かれてもちゃんと説明出来る自信は無いけど、何も聞かれないのもそれはそれでモヤモヤする。いっそのこと問い詰めてくれた方が楽なのにと思いながら、僕は曖昧に微笑むことしか出来なかった。
「お前も一緒に乾杯しよう」
ご機嫌な紳士がグラスを高く掲げて「Prost(プロースト/乾杯)!」と叫んだ。僕も、魁も、近くのテーブルの客もみんな、それに倣ってグラスを掲げる。そんな乾杯を何度も交しながら、最初の夜が更けていく……
『もう一度くらい、あなたと楽しみたい気持ちはあるかもしれませんね』
騒がしくも愉快な夜の合間に、さっき言われた言葉が脳内で木霊する。あの瞬間、あの男の指先や唇が今にも触れそうな気さえして寒気がした。もう終わったことだと頭ではわかっていても、恋人に対して不義理をはたらいているようで落ち着かない。彼とのことは魁と出会うずっと前の話だし、隠すつもりは無くても、そもそも話す機会が無かったのだから仕方がないとも思う。だけど彼を見て、そして彼に対する僕の態度を見て、魁はどんなふうに感じただろう。それよりもなお恐ろしいのは、過去の自分が間違いなく彼に救われ、そして溺れていたということ――
「さすがにそろそろ眠くなってきた」
見れば、魁のグラスにはコースターが乗せられていた。隣の紳士は相変わらず魁に飲ませようとしているみたいだけど、魁はジェスチャーで「もう飲めない」と伝えている。出会った頃、あんなにも濃い孤独を連れていた人とは思えないくらい、その日の魁はよく笑った。愛しい人の笑顔を見れば見るほど、僕の心は締め付けられていく。
「もう出ようか」
恋人に深酒を勧める紳士と過去の亡霊から逃げるようにして、僕は店を出た。帰り際、魁が紳士と別れのハグを交わすのを見届けてから、二人並んで夜の街を歩く。一年近く画面越しでしか会えなかった恋人がすぐ隣に居るというのに、手を繋ぐ勇気も出なかった。この手を取ってもらえないかもしれないという不安が、僕を支配していたから。
「あのおっさん、樽一個分は飲んでたんじゃないか?」
へえ、そんなに?と相槌を打つ自分の声が、なんだか遠く聞こえる。今僕が魁と話さなきゃならないのは、こんなことじゃないはずだ。突然現れた見知らぬ男のせいで、不快な思いをさせてしまったかもしれない。不安にさせてしまったかもしれない……それなのに、僕の身体はろくな言葉を発せられないまま、駅までたどり着いてしまった。
魁は、見慣れない異国の駅を興味深そうに観察していた。電車に乗り込んでも、旅の疲れとアルコールのせいで充血したその目は僕以外のものに視線を向けている。艶のある黒髪、形の良い耳、まっすぐに伸びた睫毛……悲しいことに、こんなときでも僕は恋人の横顔から目が離せない。扉のすぐ脇に立つ僕の大切な人は、ちょっと疲れた様子で遠くを見つめている。魁が今何を見て、何を思っているのかを考えたら少し怖くなり、僕はこっそり視線を外した。やがて電車の扉が閉まり、明るいホームから暗い地下トンネルへと電車が滑り出したとき、ガラス越しに魁と目が合った。
時間にして数秒……いや、もっと短かったかもしれない。その目が何を語っているのかを理解するには不十分で、僕の迷いを見破られるには十分過ぎる時間だった。そして恐らく魁も迷っている。僕に質問をするべきかどうか。それがこの人の優しさなのだということだけははっきりとわかって、僕は余計に憂鬱になってしまった。
もうどこへもやれなくなった視線は、つま先へと注がれる。足裏に伝わる電車の振動が、いつの間にか僕たちを目的地へと運んでいた。ここで降りるよ、と魁に告げたときでさえ、二人の視線が交わることは、ついになかった。