流心~ドイツ編~ クリスマス本番までまだ一ヶ月もあるというのに、国内のあちこちではもうクリスマスマーケットが開催されている。その熱量は、ヨーロッパの真似事をしているだけの日本のイベントとは比べ物にならないだろう。主要な都市で開かれるマーケットは規模も人出も多いらしいが、大きな都市よりも地方のレトロなマーケットに案内したいという恋人の提案に乗って、この日俺はドイツ南部の町へと足を伸ばしていた。
会場を見渡せば、こぢんまりとした屋台に、サンタやトナカイ、雪の結晶を模した小物が並ぶ。どの屋台も小さな電球を無数にまとっていて、きらびやかでありながらあたたかみを感じさせるイルミネーションが美しかった。
「おとぎ話の世界だな」
「それじゃあ、僕たちは小人にでもなる?」
「その図体でよく言うよ」
「魁だってそんなに変わらないじゃない」
不満気な表情の端に無邪気な笑顔を紛れ込ませて、楓吾は言った。
すれ違う人たちは大人も子供も皆にこやかで、どこからともなくクリスマスソングが聞こえてくる。キャンドルを売る店ではキャンドルホルダーも一緒に売られていて、シンプルなものやカラフルなもの、緻密な切子が施されているものなど、どれも目を楽しませてくれた。そのうちのひとつに灯された火が風に揺れる中、ソーセージが焼ける香りに誘われて目をやれば、三十センチほどもある細長いソーセージが、これまた細長いパンに挟まったホットドッグが売られている。あれをつまみにビールを飲むのも良いが、ここは本場ヨーロッパのクリスマスマーケットだ。今夜くらいはグリューワインで身体を温めたい。可愛らしいイラストがあしらわれた小さめのカップで飲むワインはほんのり甘く、冷たい夜風で冷えた身体に染みわたっていった。
「この先に、町で一番高い建物があるんだ。上まで登れば、このマーケットも一望出来るよ」
そう言う恋人に手を引かれ、緩やかな坂道を上る。吐き出す息は真っ白で、鼻先は冷たい。きっとソリを引くトナカイと同じくらい赤くなっているのだろうが、繋がれた手だけは熱くて仕方がなかった。
クラウスとのことがあってから、楓吾は俺に対する愛情表現を一切隠さなくなった。恋人同士のやり取りが日本よりもややオープンだとはいえ、気づけばこちらに向けられている視線や、目が合えば緩む口元、さりげなく、しかし遠慮も無く身体に触れる楓吾の手に、俺はこっちに居る間に慣れることが出来るんだろうか。
「なに?考え事?」
手のひらから伝わる温もりに気を取られていたら、いつの間にか目の前に楓吾の顔があった。ほんの少し口角を上げたまま、その唇は俺のと重なる。短いキスが終わっても、アルコールの香りが名残惜しそうに漂っていた。
「酒くさ」
「君もね」
そう言って笑う楓吾の瞳には、イルミネーションの光が小さく映っている。楓吾が瞬きをする度に、それは夜空の星のように灯っては消えた。その美しい目は再び坂の上へと向けられ、あたたかい手が俺の手を引く。進めば進むほど、クリスマスソングは遠くなっていく……
たどり着いたのは、小さな教会だった。ひっそりとただそこに建っていて、屋台の明かりを静かに見下ろしている。その佇まいは、建物の大きさに似合わず十分に厳かだった。
「こうして見ると、けっこう高いな」
「そうだね。中に入れるはずなんだけど……」
ふと入り口を見ると、初老の女性が鍵をかけようとしているところだった。
「ちょっと待ってて」
繋いでいた手を離し、楓吾が女性に声を掛ける。行き場を失った手を仕方なくポケットに突っ込んでいると、彼女は話を聞きながらチラリとこちらに目を向けた。俺が肩を竦めて見せると、楓吾ともう一言二言交わし、最終的に鍵をしまってくれたようだった。
「入ってもいいって」
「何て言ったんだ?」
「今夜君にプロポーズするって言った」
「はあ?」
俺たちのやり取りを見て、女性は穏やかに笑っている。教会という場所で「この手の」話題を出していいのか戸惑っていると、楓吾は楽しそうに笑いながら言った。
「冗談だよ。彼は大切な友人で、はるばる日本から来てくれたから、是非ここの景色を見せたいって言ったんだ」
俺が何か言う前に、楓吾が教会の扉を開ける。仕方なく後に続いて中に入り、すぐ横の階段を上ると、細くて薄暗い通路に出た。照明は申し訳程度にしか点いておらず、頼りない明かりが数メートルおきに見えるだけだ。それを頼りに進んでいくと、中ほどに大きな窓が見えてくる。ちょうど町の方を向いているその窓を覗けば、たった今上ってきた坂道も、クリスマスマーケットの明かりも、冬の冷たい空気の中でくっきりと浮かび上がっていた。さっきまで頬を刺していた冷気のことなんて忘れてしまいそうになるほど、その景色は美しい……確かに美しいが、風に揺れるキャンドルの灯りと一緒で、脆く儚いもののようにも見えた。
「やっぱりおとぎ話の世界だな」
「小人にはなれないけどね」
二人で小さく笑い合い、しばらく町の明かりを眺める。古い教会に、俺と楓吾の二人きり。黙っていても心の声を聞かれてしまいそうなほど、静かな夜だった。
「さっき、本当は何て言ったんだ?」
「あの通りだよ。それとも、今ここでプロポーズした方が良かった?」
本気とも冗談ともとれるような声で、楓吾は言った。もし仮に、俺たちが永遠を誓い合うことがあったとして、それは一体どんな形をしているのだろう……一瞬真面目に考えそうになったのを悟られないように、俺はそのまま会話を続けた。
「それにしても、びっくりしたよ。教会でプロポーズなんて言葉使うから」
「ジョークとしては、ちょっとベタ過ぎたかな」
「いや、そうじゃなくて……」
「どういう意味?」
「ほら、宗教によっては、俺たちみたいな存在に対して厳しい態度をとったりするだろ。そういうの、大丈夫なのかなって……」
「ああ、同性愛者に対して?」
「うん……」
「魁って、変なところ真面目だよね」
「そこは常識人と言ってほしいね」
あはは、と屈託なく笑う楓吾の声が響く。つられて俺も少し笑うと、今度はもっと落ち着いた声で、楓吾が話し始めた。
「実際、ドイツでは同性婚が認められてるんだ」
「知ってる。ニュースで見た」
ネットニュースやSNSでも話題になっていたし、その話なら俺も目にしていた。少しずつではあるが、法律で同性婚を認める国も増えてきているのではないだろうか。しかし、法律が変わっても、それに従う人の気持ちや考え方まできれいに変わっていくとは思えない。少し意地悪な気もしたが、俺はその疑問を楓吾に直接ぶつけてみることにした。
「でも、個人の考え方とか宗教の教えとか、そういうところまで一気には変わらないだろ」
これを聞いて、楓吾は特にショックを受けているようには見えないし、この話題をシリアスに捉えている様子もない。あくまでも個人の考えを述べるなら、というような口ぶりで、この国の現状を語り始めた。
「そりゃあそうだよ。でも、カトリック教会に比べて、少なくとも今のドイツのプロテスタント教会では、セクシュアルマイノリティはだいたい受け入れられているって言って良いんじゃないかな。もちろん地域差はあるだろうけど……それより問題なのは、やっぱり政治じゃない?」
確かに、法治国家で生きるなら法律は無視出来ないし、それを定める政治の在り方が重要なのは言うまでもない。思いの外真面目な方向に話が進んでいるような気がしないでもないが、楓吾自身がこういうテーマをどう考えているのか気になって、俺はそのまま話を聞くことにした。
「政治って?」
「そうだな……例えば、同性同士のカップルにどれだけの権利を認めるのかが選挙の争点になっていたとして、その政党や政治家の発言が、本人の意思によるものとは限らないじゃない。支持者から票を集めるためのリップサービスってこともあるでしょ。それに、失業とか医療とか、同性婚なんかよりずっと差し迫った問題があるなら、異性愛者であれ同性愛者であれ、有権者が何を優先して投票するかは明らかだよね」
だからさ、と妙に明るい声で言ってから、楓吾がふいにこちらを向いた。暗い照明の下で、その顔の彫りの深さが際立って見える。小さく笑顔を作って、楓吾は続けた。
「自分が好きになった人を大事にして、好きなように生きていったらいいと思うんだ」
そう言い終わるや否や、楓吾は俺を抱きしめた。俺が背中に腕を回すと、抱きしめる力が少し増す。互いの肩に顔を埋め合っている間は、周りなんて見えなくて、ただ相手のことだけを感じていられる。冷えた身体が楓吾の体温で温まるのを感じながら、俺は直前まで交わしていた会話のことを考えていた。
楓吾の言うことは、正しいと思う。だが、俺はそんなふうに思いきれない。自分が望む将来をちゃんと手にできるのか、俺自身にその準備が出来ているのか、不安でならない。一人で生きていた頃には感じたことのない不安だから、どうしたらいいのかもわからない。そんなことをぐるぐると考えていたら、俺の右肩の辺りで、楓吾がくぐもった声で言った。
「実はね、さっき『彼は本当に友達?』って聞かれたんだ」
「えっ?それで、何て答えたんだ?」
「どう思います?って聞いたら、『あなたは彼のことが本当に好きなのね』って言って、鍵をしまってくれた」
バレバレだったみたい、と言って笑う楓吾の声は、幸福感でいっぱいだった。心に薄い膜を張って自分の気持ちを押し殺していた頃が嘘のように、このところ楓吾はこんなふうに笑う。それが愛おしく思える一方で、今の俺には少しだけ眩しい。
「お前、変わったよな」
「そう?こういう僕は好みじゃない?」
言葉とは裏腹に、楓吾は何のためらいもなく俺にキスをする。こうやってキスをするのも、楓吾に触れられるのも、前はどうしていいかわからなかった。だけど今は違う。今は、この感触がとても心地良い。あまりにも気持ちがよくて、一度触れてしまったが最後、離れるのが惜しいとまで思うようになってしまった。そして俺は、そういう自分の変化を、まだ受け入れきれずにいる。
「なんでお前はそんなに余裕なんだよ」
「余裕?」
「……なんでもない」
子供じみた焦燥を隠しきれず、俺はやけになって顔を背けた。楓吾はそんな俺を責めたりしない。ただ、俺の頬をそっと撫でただけだった。
「そろそろ行こうか。あの人を待たせても悪いし」
弾みをつけるようにそう言って、楓吾が俺から身体を離す。そのまま階段の方に向き直ったとき、コートの裾がわずかに翻った。
もしかしたら、俺は怖いのかもしれない。遠距離恋愛になって、楓吾に会いたい気持ちだけでドイツまで来たものの、実際に来てみたことでわかる距離の威力に負けそうになっている。あと数日で楓吾の居ない日常に戻らなければならない現実は絶えず俺を落胆させるし、楓吾の家族と会うということの意味を考えると、知りたいと思っていたはずの恋人のルーツも、知らないままでいた方が幸せなのではないかとすら思えるほどだ。恋愛や、他人と深く関わって生きていくことそのものから距離をとっていた時間が長すぎて、いちばん大切な人との距離感までもわからなくなっている。そんな自分が情けなくて、たまらなく寂しかった。
「魁、行くよ」
声のする方を見ると、楓吾は階段の手すりに片手を置いたままこちらを見つめていた。教会の中は暗いので、その表情までは確認出来ない。薄暗がりの中、やけに響く声で、楓吾は言った。
「時が過ぎれば、人は変わるよ。人が変われば時代も変わる……良い方にね」
その言葉を残して、足音だけが響いている。教会の重い扉が開く音を聞いて初めて、俺は階段の手すりに手をかけた。