灰の残り香 目蓋を開いたジョニーは周りを見渡し、そこが幾度となく訪れたヴィクター・ヴェクターの診療所で、とりあえずこの体はまだ生きているようだと安堵した。処置台から蹴落とした先客はいつの間にかいなくなっている。
Vはしばらく目覚めそうにない。今はまだそのほうがいいだろう、とジョニーは思った。彼が表に出ようとすれば、体は途端に反発しだすはずだ。
ジョニーの覚醒に気づいたヴィクターは、デスクをぐいと押して椅子のキャスターをガラガラ言わせながら処置台の横へと滑ってきた。胸元からペンライトを取り出してVのオプティクスの調子を確認し、次に聴診器を胸に当てる。
リパードクは淡々と診察をするばかりで、一向に口を開こうとしない。ジョニーはしびれを切らして言った。
「何か言うことあるだろ」
「何も」とヴィクターは静かに返した。「礼でも言ってほしいか?」
ジョニーは憮然としてヴィクターを睨みつけ、そして気づいた。彼が目の前の相手が友人の皮を被った別人だとわかっているのだ、ということに。その声色は落ち着いているが、硬い頬や些細な仕草が隠しきれない怒気を滲ませている。
ジョニーはこっそりと肩をすくめた。それから懐へ手をやって、シガレットケースを取り出した。だがライターが見つからない。ここへ来るまでの道中で落としてきたに違いない。
「先生、火ぃくれよ」
ジョニーがタバコを掲げる。ヴィクターはタッチディスプレイに顔を向けたまま、色の入った眼鏡の奥で目をすがめた。
「ここをどこだと思ってやがる?」
「いいだろ。おれたちしかいねえんだし」
そう言って、挑発するかのようにタバコを指先で揺らす。ヴィクターはVの形をしたジョニーしばし見つめ、そして何の断りもなしにシガレットケースから一本抜き取った。それを咥えてデスクの上に転がっていた携帯バーナーを取り上げ、やはり無言で火を入れる。それからやっとジョニーのタバコにも火をつけた。
その様子をぽかんとして見つめるジョニーの前で、ヴィクターは深々と一口吸った。
「吸わないもんだと思ってた」
「ああ。でも嫌いなやつがいるときは別だ」
にこりともせずに言うヴィクターに、ジョニーは思い切り苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
そのまま、Vは帰ってこなかった。
考えをまとめる時間が必要だろう、とミスティがVをビルの屋上へ案内した。結論を伝えに一度は戻ってくるものとヴィクターは期待していたが、それはやはり一方的な期待に過ぎず、望み薄だともわかっていた。そしてその通りになった。
同じ屋上の上、ヴィクターは手すりに寄りかかり、手にしていたタバコをゆっくりと吸った。ビル風に散る紫煙の向こうに、あの日Vが見たであろう景色を透かし見ながら。闇夜を照らすナイトシティ。カラフルなネオンサインに色づいたスモッグ、絶えることのない窓明かり、遠い喧騒。皮肉なことに、ここからならば数ブロック向こうのビルに設置された〈Relic〉の壁面広告がよく見えた。
きっとあの坊主も見たんだろう。ヴィクターは思った。そして彼が何を思い、何を思い返し、あの亡霊と何を話し、どんな結論に達したのかを。
その結論に意義を唱えるつもりはない。そんな権利もない。おれはできるだけのことをした。
できるだけのことをしても、得られないものもある。現実とは、ナイトシティとはそういう場所だ。ヴィクターはそれを知っていた。だからと言って、それがあの若者に降り掛かってもいいとは思っていなかった。
風向きが変わり、タバコの煙が顔に吹き寄せる。吸い込んだ紫煙の香りに、あの困ったように笑う笑顔が蘇った。本来、彼の体臭にタバコの香りは無かった。硝煙とガンオイルが後を引く、体温の高い生き物を彷彿とさせるような、柔らかく暖かな匂いがしていた。そのはずなのに。
ヴィクターは小さく咳き込んだ。