朔の輪郭 Vの体調は、朝から下降線を描いていた。
軽い頭痛に始まり、目眩と吐き気。どうせ〈Relic〉のせいだ、そのうち収まるものと軽く見ていた。『おいおいどうした、シャキっとしろよ』といつもの調子を貫く亡霊に悪態をつきつつギャングのアジトに乗り込み(襲撃された連中からしても、独り言を怒鳴りながらぶっ放してくる異常者にしか見えなかっただろう)、揺らぐ照準に無駄弾をいくつかばらまきながらも、どうにかこうにか依頼をこなした。しかしフィクサーへの報告を終える頃には報酬を受け取ることすら忘れ、いつの間にかリトルチャイナの見慣れた街角を前にしていた。
覚えているのはここまでだ。
額に触れる、ひんやりとした柔らかな感触が心地よい。寝起きにまぶたが震え、まつ毛の先が何かをくすぐる。すると短い悲鳴のような軋む音がして、額の感触は離れていった。ふわりと空気が動いて、酒ではないアルコールと薬品臭さに、かすかな整髪料の匂いが鼻を掠める。
「ようキッド、具合は?」
よく知る男の声。Vは眩しさをこらえて目を開いた。リパードクには似つかわしくない筋肉質な胸板に、揺れる聴診器とボクサーグローブ型のペンダントトップ、色の入った眼鏡と皺のよった眉間。ヴィクター・ヴェクターが目の前に座っていた。その背景にはスパナやレンチなど各種工具が並ぶ壁。見慣れた診療所の奥の一画だ。どうやらそこに置かれている、くたびれたソファーに寝ているらしい。以前にも休憩や時間を潰すために使わせてもらったことはあるが、そういったとき、こうして点滴が自分の腕に繋がれていることはなかった。
「……あれ?」
「覚えてるか? 挨拶もなしに入ってきて、急にぶっ倒れたんだ。どこの酔っぱらいかと思ったぞ」
「おはよう、ヴィク」
「ああ。もう夜だけどな」とヴィクターは肩と眉尻を落とした。「おかげで昼飯も食いっぱぐれたし、午後の予約は全部キャンセルだ」
「ええと、ごめん? おれ……」
Vは身を起こそうとして、再びソファーへ沈み込んだ。頭はふわふわと雲に包まれているような感覚があるのに、体は鉛でできているかのように重い。
ヴィクターはVの首筋へ手をやり、しばし黙して脈を取った。その指先の程よい冷たさに、Vは先ほど額に触れていたのものはヴィクターの手だったのだと気づいた。
「……熱以外は問題なさそうだな。マルウェアは除去できたんだが、生化学系が暴走してる」
「マルウェア?」
「本来は神経系を攻撃する、即効性のあるやつだ。それがお前さんのクロームだの……なんだのの組み合わせが重なって、たまたま遅効性毒みたいに作用したんだ」
微妙に言い淀んだ合間に、ヴィクターはVの首筋を一瞥した。〈Relic〉の納まるチップスロットのある辺りだ。それに気づいたVは、《おまえのせいか》と胸の内でジョニーをなじった。するとジョニーは《センセの話聞いてたろ、おれだけのせいじゃねえよ。むしろ感謝してほしいね、この程度で済んでよかったじゃねえか》と嫌味たらしい口調で反論した。なにか言い返してやりたいが、面白くもないジョークすら思いつかない。
ヴィクターは点滴のクレンメを取り、滴下のスピードを調節しながら言った。
「今の状態は、例えるなら自己免疫疾患みたいなもんだな。自分で自分を攻撃して熱が出てるんだ」
「治るんだろ?」
ただでさえ、抱えている問題が多すぎるのだ。体調不良はもちろん、金、仕事、そして筆頭の〈Relic〉とアラサカ。こわごわ尋ねるVに、しかしヴィクターはおどけた表情を浮かべた。
「ああ。薬も入れたし、何時間かすりゃ落ち着くはずだ」
「そうか」Vはほっと胸をなでおろした。
「朝まで様子を見て、再スキャンで問題がなければファイアウォールの更新をかけてやる。高いクローム使ってるからってソフトの管理を怠るなよ。まったく、こんなもんどこで拾ってきたんだか」
「それは、ほら……」
霞のかかった頭で、昨日今日のことを思い返してみた。一つ前の依頼では、銃撃戦のさなかにネットランナーの妨害を受け、昨日はコーポのコンピュータ端末に侵入してあれこれ情報を抜き取り、その前は……などなど、思い当たる節が多すぎる。
目を泳がせるVに、ヴィクターはそれ以上の言葉をため息に代えて額へ手をやった。忠告や苦言を呈したところで、素直に従うような人間ではないと知っている。
Vもまた言い訳を見失って、ヴィクターの太い腕に刻まれたタトゥーを無意味に目で辿った。花のような模様からホットなリングガール、彼女が掲げるラウンドボードを過ぎたあたりまで来たとき、思い出したように「あ」と声を上げた。
「そうだ。おれの――」
「車だろ?」
みなまで言わせず、ヴィクターは背後に親指を立てつつ椅子のキャスターを滑らせた。いつもは何もない整備スペースに、Vの愛車であるソートン〈ガリーナ・ラトラー〉の姿があった。
もともと状態が良いとは言い難い車体ではあったが、さらに見覚えのない傷や浅い凹みが増えていた。ヴィクターが車庫入れに手間取ったのか、いや、慎重な彼のことだ、それはありえない。きっとここへ来るまでの運転であちこち擦ってきたのだろう。シャーシの市場価値は無いよりマシ程度だが、見る者が見れば各種パーツ、特にエンジン回りには上等な代物が使われていると気づくはずだ。そうでなくともここはナイトシティ、放置していてはあっという間に盗まれるか、ギャングやスカベンジャーに解体されてしまいかねない。
「何から何まで悪いな。そういや、ここに車があるのを見たのは初めて見た。整備用品は一通り揃ってるのに、不思議に思ってた」
「ああ、おれのを直すのに使ってたんだ。おまえさんが来る少し前に終わったもんで、今は外の駐車場に置いてる」
「ふうん。あんたにとっちゃ、車も患者みたいなもんだな」
「言われてみりゃ、そうかもな」
「おれのラトラーも診てくれよ。修理代ならちゃんと出すからさ」
ヴィクターは遮光レンズの奥で目を見張った。Vがそんなことを言うなんて。
ノーマッドとは、そうでない者からすれば『車輪の付いたものとなれば目の色を変える連中』というのが一般的な認識だ。遊牧民のような生活を送る彼らにとって、車は生活必需品であり、まして手をかけた愛車ともなれば肉体の一部にも等しい。Vも例に漏れず、車のこととなるとあのジャッキーにすら譲らなかったというのに。
「この前さあ、バッドランズに行ってきたんだ。そのときちょっとヘマやって、ブレーキのたんびに異音がするようになっちまった。なんとかしないととは思っちゃいたんだけど、ダラダラ先延ばしにしてて。まあ、他にもちょこちょこガタは来てたし、もう寿命かもしれないな。中身を替えたらもう少し走るかもしれないけど、どうだろうなあ」
Vは茫洋と、半ばうわ言のように言った。それが単なる車の話には思えず、ヴィクターは「車のことならおまえさんには敵わんよ」と答えをはぐらかして席を立った。作業デスクへ向かい、電気ケトルに飲料水を入れて湯を沸かす。
「で、バッドランズへは何しに? 仕事か?」
「いや……星が見たくて」と、Vは苦笑とそうでないものの間のような笑みを浮かべた。
「星?」
「ちょうど新月だったってのもあって。街ン中じゃ星が見えないだろ。〝ナイト〟シティなのにな。知ってるか? 砂漠地帯をちょっと行くだけで、一気に星が増えるんだぜ。いや、増えたってか、もともとあるもんだけど。それをボンネットに寝転んで、見上げるんだ」
Vは天井へ向かって手を伸ばした。そこに広がるものへ触れようとするかのように。
「マジでさ、落ちてきそうなほどいっぱいに空を埋め尽くしてるんだ。外で暮らしてたときは、気にも止めないようなただの背景だったのに。今さら、何だか懐かしくて」
ケトルがふつふつと音を立て始める中、ヴィクターはVの言う光景を思い浮かべた。喧騒も街明かりも遠く、高層ビルやスモッグに遮られることのない夜を。一番近いはずの星が見えない代わりに、無数の小さなきらめきが空を埋め尽くす。満天の星空など、ここ何年も見ていない。見ようともしていない。
「聞こえるのは風の音と、エンジンの冷えていくチキ、チキ、って音だけ。空には数えるのも馬鹿馬鹿しいぐらいの星があるのに、一個いっこに誰かがとっくの昔に名前をつけてんだぜ、すげえよな。でもガキの頃はそんなこと知る由もないから、勝手に名前をつけて遊んでた。『あそこの黄色っぽい星はコーンブライト。凶悪な遺伝子組換えトウモロコシ人が住んでいて、地球人の家畜化を企ててる』ってな具合でさ」
「かわいいな」
「ハハ。そんでいい時間になって焚き火に戻ると、焼きマシュマロとホットミルクをもらえるんだ。大人たちは早いとこガキどもを寝かしつけて、アルコールとギターで静かな夜を満喫したいのさ」
ヴィクターは湯気の立つマグカップを手に戻ってきた。Vはヴィクターに支えられながら起き上がり、カップを受け取った。インスタントのココアが甘く香る。
「マシュマロがあればよかったんだが」
「十分だよ、ありがとう」とVは嬉しそうに顔をとろけさせた。
ヴィクターは肩からずり落ちた毛布をかけ直してやり、もう一枚要るかと尋ねた。Vは首を振った。
「熱のせいかな、なんだか昔のことばっかり思い出しちまう。ノパルのこととか」
「ノパル?」
「あー、サボテンの葉っぱのことだよ。ちょっと酸っぱくて独特な風味があって、ピクルスなんかだと食えなくもないけど、おれは苦手でさ。なのに熱を出すと決まって食わされた。精がつくからって、ローナおばさんがあの手この手で料理に混ぜてくるんだ。おれは具合の悪さなんて忘れて、細切れになって紛れてるそいつを一生懸命ほじくり出してた」
「なら、効果はあったんじゃないか?」
Vはニヤッと笑った。「そういやこの前、〈コヨーテ〉で久々にノパルの入った料理を食べたんだ。美味かったよ。おれの好みが変わったのか、もしかしたら、おばさんは料理が下手クソだったのかもしれない。トリンもノパルは嫌いだって言ってたし。けどパーシアのシチューよりはマシだろうな。料理といえば、リル・イラムの作るバーベキューソースは絶品だった。商品化すればよかったのに」Vはココアをすすり、ほうと息を吐いた。「連中、どうしてるかな。元気にやってるならそれでいいけど」
珍しい、とヴィクターは少し驚いた。自分の知る限り、Vのファミリーについて、これまで当人の口に上った機会は片手に納まる程度しかない。それも同じノーマッド相手に、二言三言答えるのがせいぜいだ。何せ『バッカー』の名を出すだけで、たいていの相手は知り顔をして、それ以上の言及をやめてしまう。
けれど熱で緩んだ口から零れる来し方は、ぞんざいさと郷愁が綯い交ぜになったものに聞こえる。ただ在りし日として語るほどには距離を置けていないのか、離散に嫌な思い出があるのか。
かつてVが所属していたバッカーファミリーは、すでに存在しないに等しい。長年ファミリーをまとめ上げていたリーダーの死を契機に統率力を落とし、最終的に他部族への合併という道を進んだらしい。それに反対したメンバー、特に若手の多くが袂を分かち、各々の道を歩み始めた。Vもその一人だ。
なれどノーマッドとしての生き方は、間違いなくVの根底、少なくともその一部を成している。しかし時折、厭世的ともとれるほどにそれを疎んでいるようなそぶりも見せる。若さ故に、そしてナイトシティの内と外という二つの板挟みになっているせいかもしれない。だが彼は身に染みてわかっているはずだ。どちらを生きるにせよ、〝街〟そのものは欠かせないということを。
そのせいだろうか。あらゆるものを奪われてなお、Vはこの街に惹かれてやまないようだった。生きるために足掻き、チャンスを追い求める姿はありふれていて、しかしこの男が他と違うのは、与えることもまた惜しまないことだ。その手にすがろうとするものも、その手から奪おうとするものも後を絶たないのだが。
ならばせめて、彼を甘やかす人間が一人くらいいてもいいのではないか。寄りかかるより、憐れみを寄せるより、ただ安らぎを与える人間が。例えそれが単なる高慢の表れだろうと、この若造が得られるものが同じなら構うものか。
ヴィクターは自嘲がそうとわからない程度の笑みを浮かべ、Vの手から滓の残るカップを取り上げた。
「ほら、いい子はもう寝る時間だ。ちゃんと休まないと熱も下がらんぞ」
「えー、せっかく皆のセンセを独り占めできるのに」
「おまえさんが何ややかんややらかすたびに、おれはつきっきりなんだけどな」
「ヤベ、もっとやらかさないと」
「こいつめ」
生意気な若造の頭を、ヴィクターはいささか乱暴に撫でた。内心、これ以上どうやらかすんだ、と悲しく思いながら。
Vは古ぼけたスプリングを騒がせながらソファーへ横になった。ヴィクターは彼の首元までそっと毛布を引き上げてやり、「おやすみ」と言って十字に走る頬の傷を撫でた。
ウトウトと下がり始めるまぶたを横目に、ヴィクターはVのラトラーを眺めた。傷だらけのこの車は、オフロードを駆けることに慣れていて、けれど手のかかるじゃじゃ馬だ。持ち主によく似ている。車についてはVに及ばないと言ったものの、目覚める前にどこが悪いのかぐらいは見ておいてもいいかもしれない。
再びVを見やると、もう眠っているものと思いきや、彼の目はしっかりと開いていた。こちらを見上げるその目つきに、ヴィクターはハッとした。
Vの体を通して、男はぼそりと言った。
「まるでガキ扱いだ」
見た目も声も何ら変わりはないのに、確かに別人とわかる。ジョニー・シルバーハンド。Vを蝕む記憶痕跡、一枚のチップに囚われた過去の亡霊。
「……ガキだよ。そいつは」ヴィクターは低く言い返した。「ただのガキだったんだ。でかい夢見て、チューマとバカをやって、時々おっさんをいじりに来る。そういう、よくいるガキだったんだ」
「それで満足するようなタマかよ?」
ジョニーは鼻で笑った。ヴィクターは答えなかった。音も立てずに落ちる点滴の雫を、ひたすらに睨みつけていた。
「ノパルが好きなのはおれだ」とジョニー。「黙っててくれ」
ヴィクターはあからさまに嫌そうな顔をして、ジョニーを見下ろした。「それをおれに言う必要があったか?」
「無いね。けどノパルを食うたびにロッカーボーイを恋しがるようじゃかわいそうだろ? こいつが知らずにいりゃあ、おれがいなくなってからも『あれは勘違いだった、やっぱり嫌いだ』で済む」
「……なおさら、言わんでも良かったじゃないか」
「まあな。でもおれにだって、秘密を共有する相手が一人くらいはいたっていいだろ」
「Vがいるだろう。それにおれじゃなくたって――」
「他の連中は、こいつのためを思って口を割る。だがあんたは割らない。絶対に」
嫌味に嫌味を返されるかと思いきや、ジョニーは意外なほど真摯な面持ちで言った。
「Vは、あんたが誰にでも優しくて、誠実で、最高のリパーなんだって信じてる。まあ、おれ以外に対しては、って意味では同意してやるよ」
「年寄りの処世術を履き違えてるだけだ。なあ、いいか、あまりこいつに夢を見させるなよ。希望を持つなとは言わんが、夢の見すぎで自分自身を二の次にしていい理由はない」
「あんたこそ、あんまこいつに夢を見るなよ」
「そりゃどういう意味だ?」
「そのままの意味さ。自覚がないほど耄碌しちゃいねえだろ。このガキは自分がセンセの〝特別〟じゃねえって思っていたいんだ。判断を鈍らせたくねえからな」
ニヤニヤとして言う亡霊に、ヴィクターは舌打ちを堪えた。確かに、こいつはVが以前言っていた通りの人物だ。『あいつは人が避けたいことをズバリ突いてくる。ムカつくけど、正直だ』。
黙してしまったヴィクターに、ジョニーは一瞬だけ労るような眼差しを送った。そしてまぶたを閉じ、ほどなくして本物の寝息を立て始める。
どちらのものともつかない寝顔を眺めながら、ヴィクターは思った。もしかしたら、ジョニー・シルバーハンドも寂しいのかもしれない。ひとり世界から切り離された上、唯一無二の存在を、結果がどうあれ、いずれ手放さなければならないのだから。
ただ、その覚悟をすでに得ていることばかりはうらやましい。自分は未だ、彼の行く末を直視できずにいる。
目を覚ましたVは、のそのそと起き上がり、大きく伸びをした。内容は覚えていないが、懐かしい夢を見た気がする。
辺りを見渡して、相変わらずヴィクターの診療所にいることを確認した。診療所は地下にあるため陽が差さず、昼だか夜だかわからない。時刻を確認すると、午前六時を少し回ったところであった。
昨晩の記憶は所々曖昧だ。ヴィクターと他愛もないおしゃべりをして、ココアを飲んだ。そういえば、熱が出ているとか何とか。
「おはよう」
挨拶に振り返ると、ヴィクターが聴診器を手に取りながらこちらへとやってくるところだった。
「おはよう。ありがとな、世話になったみたいで」
「熱は……無いようだな。なにか気になる所は?」
「腹減った」
聴診器を当てながら、ヴィクターは喉を鳴らして笑った。言葉通り、腹の虫が鳴いている。
「状態は良さそうだし、スキャンは戻ってからにしよう。何食いたい?」
「なんでも。今ならキャットフードだって食えそうだ」
ノパルは、とヴィクターはとっさに思ったが、昨日の今日であの男を喜ばせる理由はない、と考えを改めた。
「じゃあ、トムズ・ダイナーで山盛りパンケーキだな」
「いいな、奢らせてくれ」
Vは跳ねるようにソファーから立ち上がり、鼻歌交じりにジャケットに袖を通した。その若い背中を見つめながら、ヴィクターは言った。
「V」
「うん?」
「今度、星を見に行くときはおれも誘ってくれ」
Vはうっすら隈の残る目を瞬かせ、「いいぜ」と明るく笑い返した。
いつ、とは約束しない。残された時間を数えるより、月のない夜を待つほうが遥かに難しいと、お互いに知っていたから。