きみといっしょのほのぼのライフそれは、今にも雪が降り出しそうな冬空をした寒い日のことだった。
営業の仕事の後、今日は直帰してもいいことになってまだ外が明るい内に家へ帰れることに浮き足立っていた時。
いつも通りかかる公園の、あまり目立たない一部の植え込みの端っこに、「その子」は隠れるようにして蹲っていた。
つやつやと光る真っ白い耳としっぽ、くりくりと丸い青色の瞳。「その子」はまだ幼い小さな子猫なのに、目を惹く美しさを持っていて。
視線が重なったあの瞬間は、運命だったと言っても過言ではないだろう。
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「ねこちゃん、ご飯だよ」
近くのコンビニで買ったキャットフードを深皿に開ける。部屋の端でちょこん、と丸まった子猫は私の様子をじぃっと眺めていた。
私はまず、公園で見つけたこの子を急いで動物病院へと連れて行った。高校時代の同級生──つまり顔見知りが勤めている病院だったので、1本連絡を入れるとすぐに診てくれた。
健康状態のチェック、ノミやダニの検査なども一通りやって、結果は少し衰弱してはいるものの命に別状はないとのこと。ひとまず死にそうな状態ではないことに安心して、家に連れ帰って今に至る。
診察してくれた同級生には、「お前が飼うのか」と言わんばかりに驚いた顔をされた。確かにこれまで動物を飼ったことはないけど、そんなに意外だっただろうか。
でも、だって。あのまま放っておけば幼い子猫はどんどん衰弱して、寒空の下で凍えながら死んでしまっていたかもしれない。そんなの、どうしたって可哀想で耐えられなくて。見て見ぬ振りが出来るほど、私は非情ではなかった。
それに……正直に言うと、一目惚れだったんだ。
ふわふわとした毛は頭と耳、しっぽの先まで雪のように真っ白で。丸くて大きな目はよく晴れた日の青空を思わせるような紺碧の色。
姿はヒトとほぼ同じだけど、明らかにヒトとは違うネコ科の子供。普通の子猫よりひと回り程大きいけれど、私たち人間からしたらずっと小さな儚い生き物。幼くも美しいその容姿を一目見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
子猫への庇護欲とか愛着とか、そういうものが湧き上がって間違いなく一目惚れとしか言えない衝撃を受けた私は、この子を絶対に家で飼おうと決めたのだった。
「まずは子猫にとって落ち着ける環境を整えること」
診察中に受けたアドバイスを元にまず家に帰ると、子猫用の寝床を作った。
洗濯カゴの中にタオルを敷き詰めて、湯たんぽの代わりにお湯を入れたペットボトルをタオルで包んだものも置いて、簡易ベッドを作った。
着ていた服は汚れた薄手のTシャツ1枚であまりにも寒そうだったので、とりあえず私の使っていない厚手のスウェットの上着部分だけを着せてあげた。
今日はもうペットショップは閉まっている時間なので、ちゃんとした服は明日買いに行って来ようと思う。明日は丁度仕事が休みだし、他にも色々買い揃えなきゃいけないものは沢山ある。
で、やっと腰を落ち着けられたから、今度はご飯を食べさせようとしたんだけど……お皿を目の前まで持って行っても口を付けず、簡易ベッドの上でちょこんと座ったまま動かない。
衰弱してるしお腹が空いてないことは無い筈なのに…と首を捻った所で、「乳歯が生えてるけどまだこれだけ小さい子なら、離乳食みたいな柔らかいご飯じゃないと食べないかも」と診察中言われていたことを思い出した。
皿に盛ったフードは明らかに固めで成猫向けのものなので、慌ててそこに少しだけぬるま湯を注いでふやかしてみる。皿をなるべく目の前まで持っていってやったけど、子猫はそれをじ、と見ているだけでやっぱり食べようとはしない。
「怖がってる…って感じではなさそうなんだけど…」
その子猫はとても大人しくて、野良猫によく見る人間相手に怯えて威嚇するような様子もなかった。病院へ連れて行こうと初めて抱き上げた時は流石に少しビックリして体を震わせてたけど、ただそれだけ。その後はまるで「借りてきたネコのように」の言葉が相応しいほどに大人しかった。
警戒はされていない…けど、人懐こいともまた違う。どこか戸惑っているような様子のそれは、私と出会うより前の生活で身に付いたんだろう。
生まれた時から野良だったのか、それとも捨て猫だったのかは分からない。でも、見るからに細身で充分に栄養を取れていないその姿は、きっとまともな生活環境じゃなかったんだと思う。親猫…もしくは元飼い主から充分な愛情を与えられないまま育ったのかもしれない。だから人への甘え方、接し方も分からないんだろう。
この子を飼うと決めた私に出来ることは、まずはこの子が安心した生活を送れるようにサポートすること。ここには君を脅かすものは何もないんだよ、だから不安にならなくて良いんだよ。そう伝えてやることが、何よりも大切だと思う。
ふやかしたご飯の横に、飲み水を入れた器も置いて、それから寒くないように毛布をそっと掛けてあげる。
「ご飯ここに置いておくから。お腹空いてたら食べていいからね」
知らない場所に連れて来られて緊張しているだろうし、人の目があると食事をしにくい子もいると聞く。だから今日のところはあまり構いすぎずに、そっとしておこうと思う。
「それじゃあ、おやすみ」
私も今日は早めに休もう。一声挨拶をかけて立ち上がる。青空の色をした瞳がじっと窺うような視線に見送られながら、リビングを離れ寝室へ向かった。
ーーーーーー
翌朝。目覚めるとひんやり冷えた空気に身震いしながらベッドを抜け出して、リビングの電気と暖房を点ける。
部屋の端っこに置かれた洗濯カゴをそーっと覗くと、小さな塊は丸まって眠っていた。ぷうぷうと聞こえる穏やかな寝息の音にホッと安堵する。
お皿に入ったキャットフードは…減っているようには見えない。やっぱり子猫用のご飯じゃないと食べられないのかな。
無理に食べさせようとは思わないけど、体は衰弱しているのだから食べてくれないと心配になる。
早くご飯を買いに行こう。そう決意してひとまず一晩置きっぱなしだったキャットフードは片付けた。
「……にぃ」
着替えて、朝のコーヒーを淹れて、洗濯して、と慌ただしくしていると、小さな声が鳴く。物音で目を覚ましたらしい。
「おはよう、よく眠れたかな」
驚かさないように、少し離れた所から声をかける。子猫はまだ眠そうにシパシパと目を瞬かせていた。
「お腹空いてないかい?今からご飯買ってくるから、もう少し待てるかな?」
器の飲み水を新しいものに替えながら聞くけど受け答えはなく、ただボーッとした目で私の顔を見つめるばかり。まだ眠くて覚醒していないのか、そもそもヒトの言葉をまだ理解出来ていないのかは分からないけれど。
ひとまず、具合が悪いとか様子がおかしいことは無さそうなので一安心だ。ペットボトルの湯たんぽも冷めていたので新しく入れ替えて、子猫が寒くないように暖房の温度調整をしっかりしてから、早速ペットショップへと向かった。
それからは帰ってくるまでバタバタと落ち着かなかった。
そもそも私は子猫を飼うのが初めてで、一緒に暮らす為のノウハウとか、何もかも知らないことばかりだ。ペットショップなんて人生でほとんど来たことがなかったから、どこから見て回ればいいのか分からなくてしばらく店の中をウロウロ彷徨っていた。
餌だけでも沢山の種類があって、眺めているだけで目が回りそうだ。あちこち見て悩みに悩んだ結果、最終的には店員さんに協力を仰ぐことにした。
ネコを飼うのが初めてであることを正直に言うと店員さんは嫌な顔一つせず、ご飯やオヤツからトイレ砂、オモチャのことまで懇切丁寧に説明してくれて、更にウチの子猫に合いそうな種類のものをいくつか見繕ってくれた。お客のことを考えた親切で丁寧な対応には感謝してもしきれない。
そんなこんなで、飼育に必要なものを一式買い揃えることが出来た。子猫用のご飯とオヤツ、ベッド、トイレセット、お手入れ用のブラシと爪切り、服を3着ほど、そしてオモチャの猫じゃらしも1つ。
両手が塞がるほどの大荷物になってしまったので、帰りは潔くタクシーを呼んだ。
「ねこちゃん、ただいま」
やっとの思いで家に帰ると、子猫は相変わらず簡易ベッドにちょこんと丸まっていた。起きてはいるけど、まるで眠そうに目がトロンとしている。昨日からほとんど微動だにしないのはやっぱりお腹が空いて弱っているせいなのかな、とまたも心配になる。
「ご飯色々買ってきたからね。その前に、ベッド替えてお着替えしようか」
買った大荷物をリビングにドサリと置いて、その中からネコ用ベッドを取り出す。クッション付きのふんわりと柔らかいオープン型ベッドだ。これから成長することも考えて、少し大きめサイズのものを選んでもらった。
「や、」
「あ…ごめんね、ビックリした?」
いつまでも洗濯カゴの中じゃ窮屈だろうと思って小さな体を抱き上げると、ビクッと体を強張らせて小さく鳴いた。やっぱり人に触られるのはちょっと怖いらしい。相変わらず威嚇されたりなんてことはないものの、嫌なことをされるのはストレスを感じるだろう。
怖がらせてごめんねと謝りながら、優しく新品のベッドへ降ろして、手早く着替えさせてあげる。買ってきた子猫用のルームウェアっぽい服はニット素材でふわふわ温かそうで、お尻には窮屈にならないようしっぽが通せる小さな穴が開いている。寒い季節にはピッタリだけど、慣れない着心地で落ち着かないのか子猫はモゾモゾと丸まって体を揺らしている。
余計ストレスになるかなぁ、とも思ったけど風邪を引かせたくないので我慢して慣れてもらおう。
「お待たせ、ご飯食べてみようか」
服の違和感から気を紛らわせようと取り出したのは、お待ちかねのご飯だ。今回買ってきたものは魚介類と鶏肉が混ざってペースト状になった子猫用ウェットフードで、栄養価が高くこれをチョイスした店員さんオススメの品らしい。
ペリペリ、と小分けの袋の内1つを開けると、ふんわりと魚っぽい生臭さが微かに漂う。すると、子猫も匂いに気付いてパッと顔を上げた。くりくりの青い瞳が大きく見開かれている。
お、この反応は悪くなさそうかも?そう期待しつつペースト状のご飯をスプーンで一掬いする。まだ自分で上手に食べることが出来ないかもしれないから、しばらくは飼い主が食べさせてあげるのも良い、と店員さんからのアドバイスだ。
溢さないようにそっと口元へスプーンを運んでみると、子猫は鼻をヒクヒクさせてそれの匂いを嗅ぎながら、やがてためらいがちに舌を出してペロリとひと舐めした。
「あ、食べた…!」
味がお気に召したのか、そのままスプーンに乗ったフードをはぐはぐと食べ始めたので思わず歓喜の言葉が零れた。だって昨日からご飯どころか水すら全然口にしていなかったのだから、その分ちゃんと食べてくれたことの感動もひとしおだ。
「みゃう、う」
「ふふ、まだいっぱいあるからゆっくり食べな」
あっという間に空になったスプーンを惜しむようにペロペロと舐めていたので、すぐにまたご飯を乗せて口へ運んでやる。いくら緊張してると言えどやっぱり空腹には抗えなかったんだろう。美味しいものだと認識した途端、夢中で身を乗り出してはぐはぐと食べる姿は何とも可愛らしくて微笑ましくて、自然と笑みが零れた。
「あれ、もうごちそうさまかな?」
やがて袋の中身が半分ほど減った所で、子猫はスプーンからぷいっと顔を逸らすようになってしまった。一気に食べたから疲れてしまったのかもしれない。栄養不足になるほどまともに食事ができていなかったのだから、急に食べ過ぎてしまっても体に負担がかかるだろう。私もそれ以上は無理に食べさせずキャットフードを片付けた。
子猫はお腹が膨れたおかげか、目を瞬かせてウトウトしている。ご飯も食べれたし、人前で眠そうな姿を見せてくれたのは、少しは緊張が解けてきた証拠かな。
一安心しながら、ぼんやりと眠そうに体を丸めた子猫をじっと眺める。改めてよく見ても、本当に綺麗な子だなぁ。真っ白でふわふわな毛も勿論のこと、空色の瞳に長い睫毛、桜のように薄い色のぷるんとした唇、耳やしっぽに負けず劣らずの白い肌…整った顔立ちは美しくて、でも愛らしくて。成長したらもっと美人…いや美猫になるに違いないと見惚れてしまう。
ずっと見ていたいけれど、買って来たものを整理しないと…それから洗濯カゴのベッドももう必要ないから仕舞おうか。そう思った時。
ショワァァ……。
微かに聞こえた、水が流れるような音。それは目の前のベッドの中から聞こえたような。
「…ま、まさか」
恐る恐るベッドに顔を近付けてくん、と匂いを嗅ぐ。と、たちまち漂う独特なアンモニアっぽい匂い。触ってみるとじんわりと湿った感触。
「……うん。オシッコしちゃったかぁ……」
やられた、と思わず苦笑いになる。でもまあ、これも仕方ない。まだまだ幼い赤ちゃんのようなものだし、野良生活をしていたならまともなトイレの習慣もなかっただろう。
「トイレトレーニングは追々やるとして……ひとまずオムツでも着けておくかな…またお店行って買って来ないと……その前に、もう一回お着替えだね…」
折角買ってきたばかりのベッドと洋服がオシッコで汚れてしまった様を見て、思わず溜息を吐く。即刻洗濯に回して、仕舞う筈だった洗濯カゴは申し訳ないがもう少しだけベッドの役割を担ってもらうことにした。
再び子猫を抱き上げて新しい服に着替えさせてやると、寝ようとしていたところを邪魔されたからか大層不機嫌そうにイヤイヤと鳴いて嫌がって、最後には恨めしそうに私を睨んできたもので、溜息を吐きたくなる気持ちが増長したのだった。
ーーーーーー
あっという間に翌々日、平日の夕方。
子猫を家に1匹残して仕事に出るのが気がかりだった私は、いつもより倍以上のスピードで今日の業務をさっさと終わらせて、定時ピッタリに退社して帰宅を急いだ。
この土日の2日間でご飯もしっかり食べたし、排泄もしたし睡眠も取れていたみたいだけど、相変わらずベッドの傍からはほとんど動かないままだった。
まだ生活環境の変化に慣れていないせいだとは思うけど、あまりにもじっと置物のように動かない時もあったのでやっぱり心配に思う。
私のいない間に具合が悪くなっていないだろうか。何かがストレスになってはいないだろうか。焦る気持ちを抱いて足早に家へと辿り着く。
「ただい……わっ?」
「にゃぁ」
玄関のドアを開けてビックリした。なんと、あれだけベッドから微動だにしなかった子猫が、玄関のたたきの上でちょこんと立っていたのだ。
「わあ、ビックリした…どうしたの?お出迎えしてくれたのかな?」
自分で動くようになっただけじゃなく、まるで私の帰りを待っていてくれたかのような様子に嬉しくなった。驚かさないように頭をそっと撫でてやると、「にゃぁ」という鳴き声と同時に、グゥゥ~…と気の抜けるような音が子猫のお腹を鳴らした。
「ああ、お腹空いたからここで待ってたんだね」
「にぃ」
応えるようにもう一度子猫が鳴く。詰まる所、お腹が空いてどうしようもなくなったので、「いつもご飯をくれる人間」である私の姿を探していたんだろう。で、玄関の方から私が帰って来る音が聞こえたから、待ち構えていたという訳だ。
子猫にとって私はまだその程度の認識でしかないのは少し残念だけど、例えご飯が理由であってもこうして怖がることなく近付くようになってくれただけ、充分な進歩だと思う。ゆっくり少しずつでいいから、ここでの生活に馴染んでいって欲しい。ただそれだけが私の望みだった。
「分かったよ、今ご飯の用意するからね……あ、そうだ」
家に上がってリビングに向かいながら、ふと大事なことを思い出す。
「そろそろ君の名前も決めてやらないとね。何がいいかなぁ」
「にゃぅ?」
これから一緒に暮らしていく…つまり「家族」になるのだから、名付けは大切な行為だ。
しっかりよく考えて決めないとなぁ、と首を捻る私を、子猫は不思議そうに見上げていた。
やがて、子猫に「さとる」という名前が付けられるのは、まだもう少し先のお話。