ブロット このねじれた世界において、自分はインクの染みのような存在だ。汚れのない世界地図に、どこから来たのかも分からないインクがぽとりと落ちて、黒くにじむ。
パーティーで人の輪に入れずに壁に張り付いているような男は「壁の染み」と呼ばれるが、全くもってその通りだと思う。どこにも誰にも属していなくて、学園の隅っこのオンボロい寮で一人(と一匹と数人のこの世ならざる者たちと)で暮らしている。グリムとゴーストたちがいるから、ひとりぼっちではないけれど、そういうことではなくて。
自分はこの世界の異物なのだと、漠然と考えることがある。
だからといって、気にかけてくれる人がいないわけではない。
学園長はなんやかんや言いつつ生活費と居住地を支給して、僕に居場所を与えてくれている。魔獣であるグリムは僕と同様に、どこから来たのか分からない不思議な子で、僕を子分だとか言って仲間にしてくれる。都合のいいように使われる言葉でもあるけれど、この学園において僕たちは一蓮托生なのでお互い様ともいえる。エースとデュースはいい奴だったりいい奴じゃなかったり、でも小言を言いながらも支えてくれる優しい友達だ。出会いは最悪でも、今思えば彼らと出会えたことは僕にとってきっと幸運だった。
そんなふうに気にかけてくれる人は確かにいるけれど、だからといって僕がこの世界でひとりぼっちなことは変わらない。
『お前はどうして魔法も使えないのに“ここ”に居るんだ?』
『“ここ”に居たって、一人では何も満足にできやしないだろうに』
いつもならはいはいと流せる言葉が、心に深く刺さってなかなか抜けないときがある。今がまさにそうで、最近よくちょっかいをかけてくるディアソムニア寮の同級生の言葉が、刃物のような鋭さをもって僕を刺した。彼の言う“ここ”が、単純にこの学園を指していることは分かっている。「僕のこと心配してくれてるんだ」とか「そんなに僕のことが好きなの?」とか、いつもみたいに言えればよかったけれど。後に続いた、要約すれば「自分なら助けてやれるからもっと自分を頼れ」という意味になる言葉を聞いても、普段通りの軽口は僕の口から出てこなかった。「そうだね」とだけ答えて、引き止める声には応じず夕方の教室を去る。
明日から、生徒が待ちわびたウィンターホリデーが始まる。
心のとげが抜けないまま、ホリデー1日目の夜を迎えた。昨晩からどこか沈んだ様子の僕を気遣って、ゴーストたちがマジカルライフゲームに誘ってくれた。今日くらいは宿題のことなんか忘れて楽しもうという言葉通り、賑やかなホリデーの初日だ。でもどうしても、自室に戻って窓から一つの灯りも見えない外を見遣ると、ひとりぼっちが再び僕に襲い掛かる。
ああ、よくないことだ。思考が深い海に沈んでしまいそうになる前に、寝てしまおう。一つため息を吐いてカーテンを閉めようとした、そのとき。窓枠の中の暗闇に、突如として蛍光グリーンの、いやに眩しい光が飛び込む。緑色に光りながらオンボロ寮の周りを徘徊する知り合いに心当たりはあるが、あの人はこんなにも蛍光色ではなかったはず。それに、今頃は故郷である茨の谷に戻っているはずなのだ。外は雪がちらついているのも忘れて、窓を開けて目を凝らす。
「ツノ太郎、どうしたの!?」
まぎれもなく、知り合いだった。
聞けば、久しぶりに故郷に戻ったツノ太郎は盛大にもてなされ、久しぶりの飲酒ですっかりアルコールが回ってしまい、自分でも分からないままここに戻って来ていたそうだ。
「茨の谷って、ツノ太郎の年でもお酒が飲めるんだね」
「…………そうだな」
ちらちらと雪が降る中、きしむベンチで2人並んで座る。いつもより蛍光っぽく光っていることを指摘すると、これまた無意識だったらしく、すぐにいつも通りの優しい緑色に変わった。
「今日はグリムとゴーストたちと遊んで楽しかったし、ツノ太郎にも会えたし、いい日になったな」
思いがけずツノ太郎と出会えたことで、自分の機嫌が上向きになっているのを感じる。そのことを正直に告げれば、手持ち無沙汰にベンチに乗せていた右手が温かく包まれる。隣に向き直ると、ライムグリーンを瞳をどろりと溶かしたツノ太郎が、じっとこちらを見つめていた。
「僕と会えて嬉しいか」
「うん、嬉しいよ、来てくれてありがとう」
ツノ太郎の意図したところではないだろうが、今日会うことができて本当に良かったのだ、少なくとも僕にとっては。
「僕もお前に出会えて嬉しい」
包まれていた右手が取られて、そのままツノ太郎の口元へ運ばれる。「お前が“ここ”に来てくれてよかった、人の子よ」
よいホリデーを、と親しみを込めたキスを頬に送られて、らしくないツノ太郎にどぎまぎしているうちに目の前からすっかり消えてしまっていた。今日のツノ太郎はどうもおかしかった。やはり、アルコールは人を変えてしまうという通説は本当のことなのだろう。そういうことにしておこう。
出会えてよかったと、告げてくれる人。身元不明の人間を庇護下に置いてくれる大人。心配してくれる友人たち。一緒に暮らす温かいモンスター。孫みたいに可愛がってくれる幽霊たち。確かに自分はひとりぼっちだけれど、壁の染みは壁の染みでも、“ここ”でしばらく生きていくのだからと、世界の一部にしてくれる人たちがいる。
右頬のぬくもりが消えないうちにと、僕はひとりぼっちではないオンボロ寮へこっそりと戻る。楽しいホリデーは、まだ始まったばかりだ。