延命「ただいま帰りましたぁ〜」
と、ごきげんな声が玄関から飛び込んできて、俺はスマートフォンをいじる手を止めた。声の主はそこら中をガタガタドタドタ言わせながら近づいてきて、俺の座るラグに滑り込んでくる。部屋ん中でヘッドスライディングするやつがおるか、アホ。ていうか勝手に俺の膝占領せんでもらえます?
不満を込めた眼差しを気にもとめず、男――隠岐はへらへらと見上げ返してきた。
「ただいまあ」
唇が開かれるなり酒のにおいが溢れ出す。どんだけ飲んでんねんこいつ。呆れながらも目にかかってる前髪をどけてやると、垂れた目尻が緩んだ。
「やさし」
「やろ? ……重たいからはよどいて」
「ねえ先輩、おかえり言うて。おれ、先輩に会いたなって、めっちゃ急いで帰ってきたんですよ?」
「ハイハイ、おかえり。そんでな、重いんやけど」
「ありがとおございます。あー、先輩好きやあ」
「話聞いてくれへん?」
酔っ払いは始末に負えない。ここまで飲ませた出水たちには後日お灸をすえるとして、今はこいつだ。とりあえず水飲ませとけばええか……。
「先輩、なに考えてるんです?」
「隠岐くんのこと」
「ホンマですか? 嬉しいわ〜好き〜」
語尾を甘く伸ばして、隠岐がふにゃふにゃと笑う。
「先輩は? 先輩おれんこと好き?」
「どうやろなあ」
適当に答えながら肩を勢いよく押し出せば、「うわあ」と間抜けな声を上げて隠岐が転がった。あー、重かった。痺れた太ももを労りながら立ち上がると、隠岐が恨みがましげに眉をよせる。
「ひどいわ」
「勝手に伸しかかってきたほうがひどいやろ」
「勝手やなければええですか? 先輩、膝枕して」
「却下」
ふざけた要望を一蹴し、俺はキッチンに向かった。冷蔵庫からペットボトルを取り出して踵を返すと、寝転ぶ隠岐の頬が膨らんでいるのが見える。
「恋人ほっぽって冷蔵庫ですか」
「どんな嫉妬やねん。ほら、飲め」
ペットボトルを手渡せば、上半身を起こした隠岐がおぼつかない手つきで蓋を開けた。そしてごくごくと半分ほど飲んでから、
「飲みましたよ」
なんて、自慢げに言ってみせる。別に偉くないけどな。俺は内心呟きつつ、取りあげたペットボトルをローテーブルに置いた。
……あ、皿洗わな。晩飯を食ってからダラダラしていたので、ペットボトルの横には空の茶碗や皿が置き去りにされている。食器を重ね始めた俺の横で、隠岐が背を床にくっつけた。
「隠岐、寝るならベッド行き」
「おかんみたいなこと言うとる」
先輩はおれの彼氏やけどな。付け足して、隠岐は「ふふ」と幸せそうな笑いをこぼした。
……かわいそうなやつ。
出かけた溜息は飲み込んだ。「酔っ払ってんなあ」と今更の感想を口にしながら立ち上がる。シンクに食器を置いた俺の後ろでは、隠岐がもぞもぞと身じろぐ気配がした。それから、酔いで舌足らずになった声が耳に入り込む。
「先輩、好き~」
「また言うとる」
「なんぼでも言いますよお。おれ、ホンマ先輩んこと好きやから」
「ああそう」
「まあ、先輩はおれんこと好きやないけど」
ぼたっ。
と、スポンジがシンクに落ちた。
「おれを傷つけたら、隊が変なことになるから。先輩、死ぬほど生駒隊好きやもんな……」
スポンジを拾い上げ、無言で蛇口をひねる。水がシンクを打つ豪雨じみた音が響いた。
そういえば隠岐が俺に告った日も雨が降っていた。告白の言葉は「好きになってすいません」、ついでに言えば、同居のお誘いは「ワガママ言うてすいません」だ。謝ってばっか。一周回ってウケるわ。
「おれをかわいそうやと思ってるやろ。……別にええですよ、かわいそうでも何でも」
スポンジでこすった茶碗を洗い流す。水切りカゴに置けば、がちゃんと派手な音がした。俺結構イラついてんな。他人事のように考えながら皿を手に取る。
「イコさんやったら断れたし、海とマリオやったら躱せたでしょ。先輩が『付き合う』選ばなあかんのはおれだけ。それだけで嬉しい」
皿の縁をスポンジで挟んでなぞっていく。泡だらけになった皿を小さな滝に潜らせると、跳ねた水が袖に黒いしみをつくった。
「むしろ、おれのほうこそ先輩に同情しますよ。好きでもない男と付き合って、同棲までして……」
最後の皿を持ち上げる。さっきと同じ動作で洗い終え、俺はスポンジを持つ手を蛇口の真下に置いた。冷えた指先で握りしめれば、泡がにじみ出る。
「人に言えんこともたくさんしましたね。……隊守るために、自分の人生めちゃめちゃにしてどないすんの」
手を握っては緩めるたびにスポンジから泡が出ては流されていく。漉した水が透明になるまで続けて、俺はラックにスポンジを放った。
「ホンマ、かあいそ」
甘ったるい響きと同時に、蛇口を閉めた。
振り返れば、寝っ転がる隠岐の背が視界に入った。
しばらく隠岐は何も言わなかったが、徐々に肩が震え出す。投げ出されていた脚は縮こまり、頭は胸に引き寄せられる。
「……すいません」
案の定、一番最初の言葉は謝罪だった。
「こんなん言うつもりなくて……うそやなくて、ホンマに一生言わんつもりで……」
吐き出された声には嗚咽が混じりつつあった。俺は舌打ちしかけた舌を無理やり引きとめて、口を開く。
「隠岐、お前めっちゃ酔ってんなあ」
「…………」
「深酒はよせ言うたよな? あーあ、どうせ寝て起きたら忘れてるんやろ。こんな迷惑かけたくせに……」
とぼけた調子の言葉に、隠岐も意図を察したのだろう。一度大きく息を吐き出してから、ぎこちなく笑う。
「……そうですね。覚えてても、夢やと思うかも」
「明日こき使ったるからな、文句言うんやないで」
「言いますよ、忘れてますし」
「ムカつくわあ。……今日はもうそこで寝とき」
「はあい」
隠岐が背を丸めたところを見てから、俺は冷蔵庫を開けた。チューハイを一缶取り出しながら「俺もう寝るわ」と声をかける。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
返ってきたのは言葉だけだった。
俺はゆっくりと廊下を歩き、寝室のドアを開けた。ベッドの上で缶を傾けると、アルコールが喉を焼く。
飲まなければ、やってられなかった。