誰がドルイドを殺したの※大学生設定
※ボーダーの幹部養成プログラムの一環で、王子と水上が一年間イギリス留学させられているという前提があります。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンは今日も曇っていた。
トニー・グリフィスは自動車のフロントガラス越しに空を見上げ、客を乗せるまでは降ってくれるなと神に祈る。今日の予約が午後からだったことを幸いに、午前中に洗車したばかりだったのだ。ミニキャブのライセンスステッカーまでも磨きあげ、後部座席のくたびれたクッションは入れ替えた。新車同然となった車に濡れた客が乗ってくることほどいやなことは無い。トニーはもう一度心の中で祈ってから、ブレーキに置いていた足をずらした。信号が青に変わる。トニーはアクセルを踏みこみ、法定速度を遵守した運転でエイヴォン川沿いを走り抜けていった。
ロイヤル・シェイクスピア劇場を通りすぎ、大勢の観光客を横目にバーミンガム・ロードを突き進んでいくと、じきにショッピングモールに辿り着く。マーケットの駐車場に入ると、入り口近くに立っていた男が手を上げた。雨はまだ降っていない。
(今日はツイてる)
神に感謝を呟きながら、トニーは男の前に車を滑らせた。
「こんにちは」
「こんにちは。あなたがトニー・グリフィス?」
男がトニーの名を確かめた。
「ええ、そうです」
運転免許証を見せながら挨拶すると、男は微笑んで、後部座席に乗り込んだ。マッキントッシュのゴム引きコートを脱ぎ、品のあるシャツをさらけだす。コートをたたんだ男はスマートフォンを取り出すと「予約の確認をしても?」とこれまた上品な英語で尋ねた。
「ええ。行き先はオックスフォード駅。料金は――ああ、前払いでいただいてますね」
「はい。よろしくお願いします」
男がスマートフォンをしまい、後部座席に背を預ける。薄い茶髪に緑がかった瞳という色彩はトニーにも馴染みがあるものだが、顔の造形自体はアジア系で、多民族社会の現在を匂わせているような男である。だが、一方でフォーマルな服装といいオックスブリッジの発音といい実にロンドン的で、なんとも洒脱な男であることもまた事実であった。
そんな知的な外見とは裏腹に、男は気さくで話し好きだった。マンチェスター・ユナイテッドの移籍問題、ストラトフォードで起きた強盗殺人事件、それからハリー・ポッターの新作の舞台……。オックスフォードまでの1時間、車内の話題が尽きることはなく、そのためトニーは男について多くの情報を得ることになった。男は日本からの留学生で、ケンブリッジはクレア・カレッジに籍を置いている。観光としてシェイクスピアゆかりの土地を訪れ、帰る前に友人のいるオックスフォードを訪れることにしたらしい。
「オックスブリッジなのに、随分と仲が良いんだね」
「同じ日本人留学生なんだ。日本人のぼくにはオックスブリッジの因縁は理解しづらい面があるけど、彼が同じ大学でなくてよかったと思う。彼は『こちら』より『あちら』の大学――というより『あちら』の町の気風に合っているから。とにかく閉塞的なやつなんだ」
ケンブリッジ風に揶揄した男は、一度大きな伸びをしてから、身を乗り出した。
「トニーはウェールズ系?」
「ああ、そうだよ。もしかして訛ってたかい?」
ウェールズ訛りは聞けばすぐに分かる。矯正したつもりだったが、と口の中で舌をまごつかせたトニーに、男は首を横に振った。
「いいや、訛りは全然分からなかった。ただ、グリフィスはウェールズ系に多い名字だし、きみの気遣いはウェールズ人のそれだ」
「なるほどね。名推理だ」
トニーの声が明るくなる。母国を褒められて悪い気はしなかった。その先に「ぼくはウェールズに興味がある」なんて言葉が続けばなおさらだ。
「ほら、吟遊詩人のお祭り……ええと、なんて言ったかな……」
「アイステッズヴォド?」
「そう、アイステッズヴォド。日本では見たことがないから」
「そりゃあいい。吟遊詩人だの何だの言ってるが、実質はアートフェスみたいなものさ。ギャラリーなんかも作られるしね。気軽に芸術に触れられる良い機会だと思うよ」
優れた詩を決める祭りとして年に数回開催されるアイステッズヴォドは、ウェールズ観光の目玉でもある。トニーがそれとなく宣伝すると、男はにこやかに「ますます行きたくなったよ」と告げた。
「それに、ぼくはアイステッズヴォドの歴史自体にも関心があるんだ。一度は消滅した伝統文化が、ナショナリズムの高揚にあわせて復興する……素晴らしいじゃないか」
「きれいに言えばそうなるね」
「きれいに? なら、きたなく言えば?」
「そのあたりは図書館で論文を読んだほうが早いよ」
イングランドとウェールズの関係について、トニーの口から語るには時間が足りなかった。すでにオックスフォード駅は目と鼻の先にある。
「駅前でいいかな? カレッジまで行きたければ追加で請け負うけど」
「大丈夫。そう遠くないしね」
その言葉に頷いて、トニーは環状交差点から抜け出した。青い柱が特徴的なオックスフォード駅の前には、観光バスやタクシーが列をなして乗客を待ち構えている。それらを避けるように隅に車を停め、トニーは男に感謝を告げた。
「ありがとう、楽しい1時間だったよ」
「こちらこそ」
男がチップを払い、ドアを開ける。片脚を突き出した男は、すんで止まって、トニーを見やった。
「そうだ、最後に一つ」
「なんだい」
「掃除しすぎるのはやめたほうがいい。かえって汚れが目立ってしまうから」
「汚れ?」
「後部座席、ドアの境目」
男はそう言い残して、ドアも閉めずに去っていった。
トニーは車から出て、開け放たれた後部座席へ近寄った。ドアを閉めると、下の方に――それこそ車とドアの境目に、薄い汚れがあるのが見えた。飛び散った汚れは全て洗い落としたはずだが、見落としていたらしい。トニーは、先程の乗客が真実を見抜いていたことに遅まきながら気がついて、去っていった方角を見た。そこには観光バスから降りたばかりの観光客たちが楽しげに駅を撮る姿があるばかりで、あの日本人の姿はどこにも無かった。
もはや男を追う術も、口封じをする術もトニーにはない。思わず車に寄りかかったトニーにクラクションが鳴らされる。見れば、一台の――チェック模様が眩しいBMWが停まるところだった。車から二人の男が降りてくる。彼らはイギリス人なら誰もが知る蛍光イエローのジャンパーを羽織っていた。
「やあ、トニー・グリフィス」
「さっき君の家に行ってきたんだ。服は捨てたほうがよかったな」
「お母さんが泣いて大変だったよ」
口々に話す男たちは、全てを知っているようだった。
「残念なことに今日でミニキャブは廃業だな。こちらへどうぞ」
一体、いつあの男に通報されたのだろう。スマートフォンは乗り込んだとき以外触れていなかった。注意深く観察していたのだから間違いない。
……もしかして、乗り込むときには、すでに気づいていたのか?
今更何を考えても遅かった。うなだれたトニーに手錠がかけられる。
こうしてトニー・グリフィスは逮捕された。ストラトフォードで強盗殺人事件が起きてから、2日後のことだった。
コーンマーケットストリート沿いのカフェが集合場所だった。バロック様式の建物に設けられた重々しい木製の扉を開くと、近代的に改装された室内が目に入る。壁一面に描かれた抽象画に、タッチパネル式のレジスター、北欧スタイルのシンプルな客席。数百年の歴史ある建物からは想像できないフラットな室内は、客にちぐはぐな印象を植え付けるだろう。事実、男――王子も入るなり眉を跳ねさせた一人だった。とは言っても、ちぐはぐさへの不快はすぐに興味に取って変わられたのだが。
レジで紅茶を頼み、カップ片手に店奥へと向かう。目的の人物はソファに座り、スマートフォンを見下ろしていた。しかし、すぐに王子の気配に気がついて顔をしかめる。
「遅いわ」
馴染みのある関西弁に、王子は「ぴったりだよ」と日本語で返し、彼の正面に座った。
「久しぶり、みずかみんぐ」
「水上な」
「ぼくにとってはみずかみんぐだから」
飄々とした返事に、水上が溜息をついた。
「ていうか、礼はどうしたん」
「礼?」
「お前の代わりに通報してやった礼」
「ああ、ありがとう。さすがに車内で電話はできないから、助かったよ」
「軽いな~。このご時世匿名通報がどれだけ大変やと思ってんねん。しかも数十キロ離れた場所の殺人事件の情報提供なんて、下手すらこっちが捕まるわ……」
ぶつくさ言いながらスマートフォンをテーブルの上に置いた水上に、王子は「大変?」と口角を上げる。
「きみにとっては簡単だろう? 実際、数分でやり遂げたじゃないか」
「その数分が大変やったんやけど」
「数分ならいいさ。ぼくは殺人犯と1時間二人きりだよ?」
「分かってて乗りこんだのはお前やろ……」
呆れ混じりに呟き、水上は話を促した。そもそも、王子から呼び出されたのである。
「きみ、長期休暇は暇だよね」
「暇やないです~」
「暇なんだね」
「話聞けや」
まあ、ここで大人しく話を聞いてくれる男ならば水上も苦労はしていない。案の定王子は水上の言葉を無視して、
「ウェールズに行こう」
と、言った。
「……ウェールズ?」
「うん。長期休暇に入ってすぐの頃に、ウェールズの南方で小規模なアイステッズヴォドが開かれるんだ。そもそもアイステッズヴォドは知ってる?」
「少しは。詩人の祭りやろ」
「話が早いね!」
満面の笑みを浮かべた王子に、水上は嫌な予感がした。この胸のざわめきは以前にも感じたことがある。連続殺人事件の調査に駆り出されたとき、薔薇戦争時代の遺物争奪戦に巻き込まれたとき、マナーハウスの幽霊を捕まえることになったとき……とにかく面倒事や厄介事が降りかかってくるときの、予感だ。
今度は何を持ってきやがったのか。戦々恐々とする水上に対し、王子はどこまでも溌剌としていた。
「そこのアイステッズヴォドでは、毎年人が一人いなくなる」
とても面白そうだと思わないかい?
グリーンアイが好奇心で輝いているさまに、水上は天井を仰いだ。この男を止めることができるのは神ぐらいだろう。しかし、神はすでに死んでいるのであった。