「わたしにちゃんと勉強教えてくれたの、今ちゃんが初めて」
と、言われたことがある。
柚宇――そのときは、まだ国近さんと呼んでいた――の机にはあらゆる科目の補修プリントが広げられていて、机の木目なんて一切見えないぐらいだった。プリントの提出期限は来週で、期日までに出さないとボーダー所属の柚宇であっても留年はまぬがれない。そんなわけで、ボーダーの任務を特別に免除された柚宇は、放課後の教室でプリントと向かい合うことになった。私はそのお目付け役だ。
もう無理〜とお手上げ状態の柚宇が広げてしまったプリントを教科別にまとめながら、私は「初めて?」と聞き返した。
「うん。みんなすぐ諦めちゃうから。わたしに教えてもムダだー、って」
「それは……ひどいわね」
「ひどいよね〜」
ゆるく相槌を打った柚宇は、プリントの上で頬杖をついて私を見上げた。
「今ちゃんは、わたしの分からないことちゃんと教えてくれるし、最後まで付き合ってくれるし、もちろん頭もいいし……それからね〜……」
そうやって、柚宇は「今ちゃんがどれだけ賢いか」を並べ立てて、最後にふんわりと笑みを浮かべた。
「そんな今ちゃんが大好き」
私はその言葉にどう返したのだろう。口にした言葉は全く覚えていないけれど、言葉の裏で何を考えていたかだけは、ありありと思い出せる。
――勉強ができてよかった。そのおかげで、あなたに好きと言ってもらえる。
そんなことを、考えていたのだ。
女の子を好きになったのは初めてだった。
今まで好きになったのは全員男の人。幼馴染、消しゴムを拾ってくれたクラスメイト、あと、サッカー部の先輩。全員が全員、当時の私にはとてもかっこよくて、頼れる人に見えていて……うまく言えないけれど、憧れの延長にあるような恋をしていたと思う。
柚宇を好きになった理由はよく分からない。笑顔がかわいかったから。私にはない緩い雰囲気に惹かれたから。ひょっとしたら、「今ちゃん」と呼んでくれることへの独占欲、という可能性もある。正直な話、どんな理由であっても構わない。柚宇に特別な感情を抱いていることには変わらないから。
今までの恋とは全然違う、熱っぽい、苦しいぐらいの痛み。それから世界の色が塗り変わるような衝撃。
ねえ、柚宇。あなたに恋して、今までの恋はうそだったのだと知ってしまった。そして、数千年もある人の歴史で、しばしば恋が舞台に上がり、様々な言葉が残される理由も知った。
この熱は、ともすれば、おそろしい。
「――恋すると、人は変わるって言うよね~」
は、と、意識が浮上する。
横を見れば、ローテーブルに上半身を預けた柚宇が顔だけを私に向けていた。柚宇の部屋で勉強を教えていたのに、彼女が問題を解いている間に呆けてしまっていたらしい。(しまった)と慌ててクッションから背中を浮かせると、タオル地が胸をくすぐった。
柚宇とおそろいの、パステルカラーがかわいらしいルームウェア。彼女の部屋に置かれるようになって半年が経つそれは、週に一度は着ているけれど、何度着ても胸が高鳴ってしかたなかった。だって、好きな人とお揃いよ。落ち着けるわけないじゃない。
「柚宇、プリント終わった?」
「うん。今ちゃんが教えてくれたやつでできた」
だらけた姿勢のまま柚宇が数学のプリントを滑らせてくる。丸文字で埋められた回答欄を辿れば、私が教えたとおりに公式を使っているのが分かる。……うん、問題なさそう。これなら赤点も回避できるだろう。
「めちゃくちゃ疲れた~」
「おつかれさま」
「褒めてもらおうと思ったら、今ちゃんぼーっとしちゃってるんだもん」
「ごめんね、ちょっと眠たくなって」
「ふーん。まあ、褒めてくれるなら許してあげようかな。ほら、褒めてみせよ~」
「頑張ってえらい」
「まあね~」
柚宇は満足そうに頷いたかと思えば、上半身をテーブルからずらした。そのまま私の太ももに頭を乗せて、「ごほうび」なんて笑ってみせる。
「膝枕がごほうび?」
「うん。すべすべで柔らかいから」
「なにそれ」
私はくすくすと笑って、そっと柚宇の肩を押した。――ねえ、やめてよ。こんな風に気安く触れられたら、勘違いしちゃいそうになるし、そんな自分が嫌でたまらなくなるから。
「ほら、寝るならベッド行って」
「え~、このまま寝る」
柚宇がいやいやと首を振るたびに、長い髪が私の太ももをくすぐる。内ももをなぞる髪の毛が、この子の指だったら――ああ、ほら、こんなことを考える。
大丈夫、分かってる。頭の中で言葉を繰り返す。大丈夫、分かってる。あなたが好きなのは「勉強を教えてくれる賢い今ちゃん」。「国近柚宇が好きでどうしようもない今結花」なんて、お呼びじゃない。
「柚宇、起きてったら」
「やだ」
「柚宇ってば……」
私の声に苛立ちが混じる。それを聞いて、柚宇が目を細めた。
「今ちゃん、変わったよね」
「……え」
「去年は、わたしの部屋に泊まってもくれなかったのに。いまは泊まって、おそろいの服着てくれるようになったし……膝枕してても、ちょっと嬉しそう」
「嬉しくはないわよ」
「今ちゃんは自分の顔見えないからね~」
「本当。嬉しくなんて、ないから」
思わず声が震えた。苛立ちではなく、恐れのせいで。
女の子を好きになったのは、初めてだった。
そして、自分を嫌いになったのも、初めてだった。
好いてほしいためだけに勉強に励む欲深さ。新しい恋に夢中になって、今までの恋を「うそ」だと見下す浅はかさ。柚宇の言動を全て都合の良いように捉えようとする卑しさ。どれだけ知識や教養を備えたとしても、私の本質は愚かでさもしい女だということを、この恋は突きつけてくる。
柚宇を好きになればなるほど、柚宇が好きな私とはかけ離れた自分になっていくのが嫌だった。諦めずにとことん勉強を教えてくれる優しい今ちゃんのままでいたいのに、維持しようと努力すればするほど、なぜか正反対の自分が浮き出てはふざけたことを言うのだ。
柚宇の特別でいたい。柚宇に私だけを見てほしい。他の誰も柚宇を助けないでほしい。
――そんな独りよがりの感情で、この子に好かれるはずがないのに。
「肝心なところで分かってくれないよね~。わたしは何でもいいのに」
ま、そういうとこが好きだけど。
私の膝に寝転ぶ柚宇が楽しげに言う。
「ええと……どういうこと……?」
「教えてあげなーい」
そう言うやいなや、柚宇が私に腕を伸ばす。柚宇とは全然違う黒い髪を撫でた手は、そのまま後頭部で組まれたらしい。手のひらで、優しく頭を引き寄せられる。ゆっくりと柚宇の可愛い顔に近づいていく。視界が自分の髪と、柚宇だけで埋め尽くされる。
もしかして、と、また勘違いしそうになる。柚宇のきれいな色のくちびるに自然と目が行く。この前一緒に出かけたときに買った限定カラーのティントリップ。「似合う」と言ったら、すぐ「これ買います!」と宣言してたの、かわいかったな……。
現実逃避じみた思考をしている間に、柚宇との距離は十センチもないほどまで近づいていた。これ、本当に勘違いなのかしら。そんな、さらなる勘違いが生まれそうになる。
「柚宇――」
「今ちゃん」
どうしたの。問いかける前に名前を呼ばれる。
「なあに」
「好きだよ」
「……え、」
目を見開くと同時に、強く引きよせられた。
ふに。
柔らかな感触が、した。
息がとまる。汗がにじむ。何をしているのかを理解にするにつれ、頭の中が混乱で侵される。
あ、まって、うそ、こんなのって、うそ。柚宇は私のこと友達だと思ってて、私よりも素敵な物事に目を向けていて、私なんてその気になれば置いていけちゃうぐらい自由で、だから、だから、私のことを好きになるはずないのに。私のことを好きにならない柚宇が、辛くて、苦しくて、だけど、好きで、好きでたまらなかったのに。
勘違いで、あってほしかったのに。
涙がこぼれそうになって、私はまぶたを下ろした。何を言ったところで、全く抵抗しない体が、すべての証明であり、糾弾だった。