六月のパン食い競争 その7 翌日。水上は、春巻きパンをめぐる近頃の振るまいについて反省の弁を述べた。
「ま、そういうこともあるだろ」
穂刈が発した言葉はそれだけだった。それどころか、自分はいいから影浦の方へいけとアドバイスされる。なんでも、水上の愚痴と食レポに毎度つきあわされ、影浦は食傷気味とのことである。実のところ、ここ最近の水上の昼休みの食事相手──すなわちその世話役は、影浦1人に任せきりの状態だった。
昼休み、穂刈はもっぱら自隊のミーティングで席を外していたのだ。荒船隊は、史上初・前代未聞のスナイパー3人体制でこのたび新たなスタートを切った。ポジションを変更したばかりの荒船は、追いつけ追い越せで訓練場にこもる日々を送っていた。
彼の通う進学校では、本校に先んじて期末試験がおこなわれる。月末に向けそろそろ勉強に集中したい頃ではあるが、ランク戦は学生の都合などお構いなしに開催される。多忙を極める荒船は、やむを得ず昼休みに隊員と電話をつなぎ、ランク戦の対策を練っていたのであった。
そんなわけで、穂刈が昼に留守がちなのは仕方のないことだったが、影浦にかかる負担を彼なりに気に掛けているのだった。
件の影浦には、「ワケわかんねーこと言ってねーで課題うつさせろ」と流された。実家がお好み焼き屋の彼からすれば、死んだ顔で飯を食う水上の姿は、到底受け入れがたいものだったに違いない。今日まで大して怒りもせずよく来てくれたものだと、水上は内心感謝する(実際には怒られたことがあったが、水上はものまねが似てなかったことを怒られたと勘違いしているためノーカンである)。
寛容な態度でいてくれたことに礼を言いたかったが、終わった話をむし返すことを影浦は好まない。だがそんな思いの変遷すらサイドエフェクトの前では筒抜けで、「言いたいことがあんならハッキリ言え」と促されてしまう。いま一度礼を述べた水上は、今後しばらく影浦の課題を積極的に見ることを約束、しれっと話に混ざってきた穂刈にも、同様の協力をする運びとなったのだった。
最後に村上にも謝罪したところ、逆に"ここ最近の非礼"をわびられた。なんでも、1週間ほど前に水上に隠れて春巻きパンを食べてしまったのだという。そんな些細な出来事が彼を苦しめていたと知り、水上はあらためて申し訳なく思う。
そもそも村上は、『金的事件』の翌日から「購買」と聞くだけで笑いが止まらない症状に見舞われていた。無論、誰かのように大笑いするわけではない。「購買」というフレーズを耳にした瞬間、無言で口角を上げたまま彼の時だけが止まってしまう。いわば気遣いの塊のような笑い方であった。
ここ数日は、水上と顔を合わせるなり「あの、俺、そのっ……」と何かを言いかけ、「……すまない! 本当に俺は、俺は……どうしようもないやつなんだっ……!」と立ち去る、そんな言動が加わっていた。いつの間にか、村上だけ別の場所で昼を食べるのが当たり前になっていた。
少女漫画とも思しき謎のやり取りに、村上の説明を受けようやく合点がいった水上である。客を迎えるホテルマンばりのお辞儀を連発され、本当に村上という男は隠し事のできないイイやつなのだと知った。この件に関しては水上もなんだか肩の荷が下りた気がして、自分がまいた種ではあるが、謝ってよかったと心の底から思えたのだった。
◆
昼休み。水上は移動教室の帰りがけに2年A組に立ち寄ると、おつかい業務の終了を告げた。
「これでおれもお役御免ですか、意外と早かったなあ」
ゆるやかな笑みまじりにつぶやいた隠岐は、水上にこのたびの成果を尋ねる。
「先輩、あれからちょっとは春巻きパン食べられました? おれがおつかい行った時は、1個も買えませんでしたけど……」
「まあ、0勝7敗1分けってところやな」
1分けって、どういうことやろ。隠岐は疑問に思ったが、面倒な気配がしたので聞かなかった。事実、1分けとは「漆間に春巻きパンをゆずられ買わなかったこと」なので、聞かなくて正解だったかもしれない。
「にしても、先輩結構たまごパン食べたんちゃいます? ほら、おれが2回連続でたまごパン3つ買ってったこと、あるやないですか」
3つどころか4つ食べたこともあったが、水上は言わなかった。本日この後も昼の争奪戦がひかえており、極力話題を長引かせたくなかったのだ。
結局のところ、影浦は水上の愚痴にキレることはあれ、パンの買い方に苦言を呈することはなかった。その結果、「春巻きパンがなければたまごパンを買い占める」という愚行は、後輩2人を巻き込み粛々と続けられてきた。海に頼んだ分と自分で買った分も合わせれば、水上は8日間で計13個もたまごパンを食べていた。
漆間は既にパンを買い終えているかもしれない──そんな懸念がチラつきつつも、それはそれとして、念には念を入れて、たまごパンを買いあさる日々を送っていたのだった。
「でも良かったですわ。 これでおれも、先輩に気兼ねなく春巻きパン買えますし」
ちっともそう思ってなさそうな顔で隠岐が言う。
「なんでやねん」
ふっと笑って水上は、なかば条件反射的に腕をふり上げた。しかしそのツッコむための右腕は、行き場を失ったかのようにななめ45度の角度で不自然に止まる。隠岐の背後の教室から、どうにも熱い視線を感じたのだ。見れば隠岐のクラスメートと思われる女子3人組が、こちらの様子を伺いながら、何やらヒソヒソ話している。その表情は一様に険しい。
「はは……ドーモ」
水上は愛想笑いをうかべ、ツッコミ代わりに隠岐の肩にひじを乗せる。ついでもう片方の手をひらひらと振り、"後輩に暴力をふるう意思はない"ことをアピールして見せた。おかしなうわさがこれ以上広まるのはごめんだった。
「先輩どうしたんです? いきなり手ぇなんか振って。……ああ、マリオかあ」
水上の動作が細井に向けられたものと勘違いした隠岐は、観衆の後方にすわる自隊のオペレーターに笑顔で手をふった。なんとなく室内がソワソワした雰囲気に変わったが、よくあることなので細井も水上も気にしない。ひかえめに手を上げてみせた彼女の顔には、「用が済んだならはよ帰り」と書いてある。クールな対応の中に、多少の気はずかしさも混ざっているのだと知っている。水上は、去り際に本当に細井に手をふると教室を後にした。
それにしても──階段を下りながら水上は考える。同級生には一世一代の詫びを軽く流された。パシったはずの後輩は、小言の一つも言わずに任務終了を受け入れた。ボーダーの連中ときたら、どいつもこいつも大人なやつばかりだ。穂刈や影浦が己に対して若干の後ろめたさを抱えているとは露知らず、他郷で仲間にめぐまれた幸運を、じんわりとかみしめるのであった。
◆
水上が階段を下りきると、ちょうど目の前の廊下を2年生の行列が通っていく。体育終わりとみられる集団の中には若村と三浦もいて、目があった水上に「お疲れ様です」と会釈する。後輩たちは元気があり余っているらしい。その姿が見えなくなってなお、弾んだ声が聞こえてくる。
「ろっくん、お昼は購買行くの?」
「ああ」
「いいなあ。おれは今日も弁当だよ」
「……でもなあ、ここんところ、たまごパンが売りきれ続きで買えねえんだよ。なんでだろ」
身に覚えがあり過ぎる水上は、若村のぼやきは聞こえなかったことにした。
気がつけば2年男子の列は途絶えつつあった。廊下に出ようと思った矢先、水上の目があの男の姿をとらえる。男子集団の最後尾と、これまた体育終わりと思われる女子集団との間にはぽっかり空間が空いていた。制服に身をつつみ1人で道をいく漆間の姿が、やけに浮いて見える。
(──そうか。あいつ、一緒に行動するやつがおらんのか)
水上はここにきてようやく理解した。漆間が自分より先に購買につくのは、常に単独行動だからだ。水上は委員会がない時だって、友人と授業の感想をいいあったり、みんなからパンの注文をとったりしていた。その点漆間は、授業が終わればすぐに教室を出て、一目散に購買に向かうことができる。教室を出るまえに時間を消費している水上と人付き合いに縛られない漆間とでは、そもそも昼休みのスタートが違ったのだ。
女子生徒たちが歩く様をぼんやりと見つめていた水上は、今日も春巻きパンを食べられなかった。