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    yomoya_32

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    壮年月鯉

    #月鯉
    Tsukishima/Koito

    穏やかに燃える ちゃぷん──と、盥にはられた湯が波うつ音がした。褥のうえで。
     いつも履いている軍靴の半分ほどを湯に浸し、鯉登音之進陸軍少将は寝そべっている。
     その足元には別の男がひざまずき、甲斐甲斐しく足浴の世話を焼いていた。この男、月島基も元は屈強な兵士であった。が、現在は軍を離れて久しい。鯉登が新任であったころに補佐をつとめていた者なのだという。
     
     鯉登閣下は、よく焼けた褐色の肌に立派な髭を蓄えた精悍な男で、齢五十を超えているはずなのに、血気に逸るという言葉がしっくりくるような、歳のわりにどこか瑞々しい輝きをまとう人であった。
    「気持ちいい。ありがとう月島」
     満足そうに目をほそめ、湯気をたてる足元に声を投げかける。
     は……と溜息を漏らす口元は、美しく整えられた口髭に彩られ、それがなんとも艶びて見えた。

     対する月島は平べったく地味な顔つきをした、静かな男だ。
     先ほどの礼に対しても『そうですか』と返事をしたきり、黙々と手を動かしている。
     筋肉質の脹脛からスラリとした足先まで。湯を含ませた手ぬぐいで肌を温めてはその肉をほぐす。表情はかたく殆ど変わらない。けれども手つきはひどく丁寧で、彼の後ろ姿からはどこか必死さに似た真心が滲んでいるようだった。

    「……怒っているか?」
     しばらく黙ったのち、鯉登は眉尻をわずかに下げ、こう聞いた。
    「はい。いいえ」
     月島は短く答えた。彼がこの返事をすると、鯉登はいつも『お前のそれは英国語のようだな』と笑う。イエス&ノー。いいえという意味ではなく、はいでもいいえでもあるということだろうか。ともかく閣下は今日も同じように鼻で微笑い、静かに息を吐いた。
    「──誰も死んでないし、首謀者一団も一網打尽にしたぞ」
    「はい。ご立派です」
    「二日も寝れば治る」
    「はい」
     月島の胸中は、表情からは窺い知れそうにない。

     鯉登が寝ているのは、脚を撃たれたからだ。
     昨日のこと、薄暮の兵営で狙撃されそうになった上官を庇ったのだという。
     ことの顛末を聞いた月島は、流石ですと鯉登を誉めた。あなたの機転がなければ大変な惨状になっていたでしょう。お見事です──と。
     弾丸は左脚を貫通した。当たりどころが良かったのは、不幸中の幸いである。
     むっすりと押し黙っていた月島は『ですが……』と言いかけてまた、口をつぐんだ。
     そのまま引きあげた足を乾いた布で包み、盥を褥からおろす。ほかほかと水気を纏った足から残らず水滴を拭い、左も同じように。すっかりきれいに拭きあげた後、仕上げとばかりに瑞々しい足の甲に恭しく口づけを落とした。そして
    「キェ……」
     足の親指を、その口に含んだ。

     先ほどの湯温に比べると、幾分かなまぬるい。だがそれより密着感のある湿り気に包まれて、閣下と呼ばれるようになってからはとんとあげる事もなくなった奇声を発し、もう片方の足で月島の膝を思い切り蹴った。
    「やめんか、汚い!」
     遠慮なく蹴りつけるも足は難なく捕らえられ、膝を使って褥に押さえつけられてしまう。
    「つ、月島」
     月島は、べろん……と母趾から指の腹をこするように、平たくした舌を這わせた。
    「汚くないですよ」
     吸い付いては離し、尖らせた舌でつま先の皮膚と爪の間を擽る。快感と紙一重のこそばゆさに鯉登は総身を震わせた。
    「あなたは、おみ足まで綺麗ですから」
    「──……」
     眉一つ動かさずにこう言って、一つ一つの指を濡らしてゆく。
     人が見ると、その表情は常日頃と変わらないように見えるのかもしれない。が、鯉登にはそう映っていなかった。たしかに月島は楽しそうに、心からそうしたくて、自分の足に口をつけているように見える。
     第一関節に歯が当てられる。鯉登の艶やかで形の良い唇が震えた。
    「月島の……」
     青みがかった黒髪をがしがしとかき混ぜ、一呼吸おいてから口を開くと、伏せていた黒い森色の瞳が鯉登を伺う。なんです? という具合に。
    「いや、月島は変わらんな。久しぶりにあの夜を思い出して、嬉しくなった」
     あの夜? と、考えるような素振りをみせて月島もすぐ『あぁ』と、頷いてみせた。
    「初めての日も、こうされた」
    「……そうでしたね」
     鯉登は、忘れもしない初めての夜に思いを馳せた。

    『鯉登少尉殿……』
     今より堅く、つねに何かを圧し殺しているかのような声だった。
    『ん……』
     頬に当てられた無骨な手をとって、そっと口付ける。手甲に浮いた青筋に唇を添わせると、中の管がぷるん、と滑った。
     指のあわいにそっと四指をさし入れる。大きくて厚い手のひらは親指の根っこが殊更ふっくらとして、温かかった。

     ──小樽で療養していた時に、インカラマッからいろいろな話を聞いていた。
    『鯉登ニシパ、結婚するなら親指の下のここが厚い人がいいですよ。優しい人の手です。あら、鯉登ニシパも分厚いですね』
     彼女の言葉でまっさきに思い出したのは、父の手のひら。それからこっそりと確認したのは……月島の手。
     そんな所を見なくとも知っていたが、確認して、やはり私の軍曹は優しい男なのだと誇らしく思い、同時に胸が擦り切れるような切なさを味わった。
     あの夜、いいんですか? とはもう聞かれなかった。かわりに『丁寧にします』と宣言されて、喉に渇きを覚えた。
     それから月島は、今日のように足の甲に口づけを落とし、親指から一つずつ、私の恥じらいを取り払っていったのだった。

    『そ……んなところを舐めるな。汚いっ、恥ずかしい』
    『舐めます。少尉殿の事が、愛おしいので』
    『いっ……』

     頬だけでなく、首も耳も──肌がいっぺんに赤くなった。
     こんな、物語でしか聞けぬような直接的なセリフを真顔で言う男だったとは知らなかった。
     好きだと告げたのは鯉登から。月島になら構わないと、抱かれる側を選んだのも鯉登だ。

    『──少尉殿、鯉登少尉殿、お慕いしています』
    『……うぅ』

     実はこの時まで、月島が求めに応じたのは上官命令の一環のようなものかもしれぬと考えては少し傷ついて、それでも良いと無理矢理に納得していた。だから、彼の言動には言葉も出ず……その愛撫にただただ翻弄され続けた。
    『お慕いしています』などとサラリと言ってのけおって。いままでそんな素振りの一つも見せず、何かの間違いです。一時的なものです。いずれ熱も覚めるでしょう。などと冷たく返していたのは何だったのだ。そんなふうに想っていたのならもっと早く言えばいいものを! となじりたくもなった。けれど実際は。

    『少尉殿……、俺の、少尉殿』
    『あぁ、綺麗ですね。本当に、あなたは綺麗だ』
    『少尉殿、口を吸ってもいいですか』

     爪先から髪にまでくまなく触れながらささやかれる睦言に、いつの間にか涙がぽろり、と目の端からこぼれてゆくのみであった。
    『鯉登少尉殿……?』
     涙を見つけて慌てた月島には、わからないが感激しているからだ、と答えた。


     ──あれから、あっという間に三十年も経ってしまったのか。
     月島が何を思ったか知らないが、同じように足を愛撫されて鯉登の胸にはつぎつぎと、当時の、宝物のような記憶がよみがえっていった。

    『初めての時な』と呼びかけると、月島の唇は音を立てながら足から離れた。
    「そんなに私の事をすきだったのなら、隠してないで早く言って欲しかったと思っていた」
    「──またその話ですか? 私だっていろいろ考えていたんですよ」
    「じゃあどうして、こたえてくれたんだ?」
     にやにやと笑いながら訊く。月島は『それもまた言わせるんですか?』と面倒くさそうに眉間にしわをよせた。
    「独占欲に負けたんです。俺をすきだと言ってくれていたあなたが、そのうち他の誰かのものになるというのは、何度想像しても耐え難く……」
     すみません、身の程知らずに。とヤケを起こしたように付け足される。鯉登はクツクツと笑って、彼を呼んだ。
    「基……」
     月島は一瞬ふいをつかれたような顔をして、手招きされるままに枕元へとやってきた。
    「私は、お前以外の誰のものにもならない。月島だけだ」
     月島からだけでなく自分も、あの時伝えた言葉を繰り返してやる。そうして手を伸ばし、幾分か柔らかくなった、だが変わらずゴツゴツとした手をぎゅっと握りしめた。
    「うふふ……私は本当に一途だろう?」
     三十年経っても一筋気に変わっていない心中が誇らしくて胸を張る。思わず笑みが溢れた。
     月島は瞬きもせずにその笑顔を見つめ、静かに息を吸い込んだ。
    「一途……、だったら……」
    「ん?」
     ささやきのような小声に顔を向けると、胸元に月島の顔がおりてきた。
    「鯉登閣下……音之進さん、だったら、生きて、俺のもとに帰ってきてください。一緒に生きることを選んだので、離れることは考えられません」
    「月島」
     震える手で口を覆い、月島の肩を抱く。
    「いいですか?」
     くぐもった声が念を押した。鯉登は唇を引き結び、宥めるような声でそれにこたえた。
    「──あい、わかった」

     空が高く感じられるようになった、初秋のことだった。




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