[へし燭]おとない 長谷部の下宿は親族の持つ家の片隅にある離れで、さほど多くはない学校の友人たちもよく酒や肴を手に押し掛けてきては、ささやかな宴と洒落こんだ。
そのなかでも一際足繁く訪れるのが、光忠だった。
学部も違う光忠と知り合った経緯はすっかり覚えていないが、今や親友といってもよいほどだった。
皆で賑やかに宴を催すのも言うほど嫌いではなかったが、彼と二人で語り明かす夜は格別だ。長谷部が学んだばかりの事柄や興味を引かれた出来事を語ると、相槌を打っては楽しそうに聞いている。それを見ると、不思議と胸がぎゅうっとなるようだった。
ある日、郷里から幼馴染みがやってきた。
寺の次男坊で、仲が良いとは言えない男だが、家の使いで出てきたから泊めろという。
しぶしぶ駅まで迎えに行き、下宿の戸をくぐったとたん、彼はこう言った。
「あなた、もののけに取り憑かれていますよ」
眉を潜めていうことには、長谷部の部屋には、その“もののけ”の気配が満ち満ちているらしい。
「特に心当たりもないし、憑かれている気はせんが」
「相手がまだ取り殺そうとしていないだけでしょう。あちらのものは気紛れだ、いつなんどきその気になるか知れたものじゃない」
取り殺されてはさすがに困る、と言うと、寺の次男坊らしく札を取りだし、離れの四隅に埋めて回った。
「夜中に訪れたものに戸を開けてくれと頼まれても、自分から開けてはなりませんよ。人でないものは開けられないから」
そうして幼馴染みは翌日には使いを果たして、慌ただしく郷里へ帰っていった。
長谷部はあまり信じてはいなかったが、わざわざ掘り返すのも面倒で、札はそのままにしておいた。その後も友人たちが訪れて宴は催されたし、戸を開けられないものもいなかった。
札のことを忘れかけていたある夜更け、戸を叩くものがあった。
「長谷部くん、こんばんわ」
近頃足の遠退いていた光忠の声だった。
そろそろ床につこうかと布団を広げかけていた長谷部は、来客が光忠と知ると気安さから「勝手にはいれ」と答えたのだが、戸は開かない。
「……いや、開けてくれないか。主に無断で上がれないよ」
いつもは好きに上がってくるのに、おかしなことだと戸口へ向かうが、ふと幼馴染みの声が耳元でよみがえる。
──人でないものは開けられないから。
背筋をかけ上がるなにかを感じながら、努めて普段通りに返事をする。
「いいや、俺は今手が離せなくてな。どうか上がってきてくれ」
すると、かり、という小さな音がした。
何の音だろう、と長谷部が戸板に手を触れ耳を寄せると、再び。
かりり。
戸板を何かが掻く音だ。
「──長谷部くん、角の小料理屋で肴を包んでもらってきたよ」
かり……かり……。
「そうか。なら早く上がってこい、光忠」
「皿を持っているからね。手が塞がっているんだ」
外にいるのは一体誰なのだろうか。親友とさえ思っていたはずなのに、急に得体の知れない何かになってしまった。
――そうだ、俺はあいつといつどこで知り合ったんだ。ようく思いかえしてみれば、この離れ以外で会ったことがあるだろうか。なぜそれを、不思議にも思わなかったのだろうか。
かり、かり、と掻く音が。
「──君がこの戸を開けておくれよ」
フーッ、フーッという息遣いが。
離れの四方から聞こえてくる。
幼馴染みはこうも言っていた。
耳なし芳一ですよ、と。札であちらのものは入り口が見つけられなくなる。けれど、綻びがあれば、そこからあなたを見つけ出すでしょう。
……戸を開けなければ、開けさえしなければ。
長谷部が黙りこんで、自分の心臓がどくどくいう音に耳を傾けていると、にわかに戸を掻く音がやみ、静かな声が聞こえてきた。
「──歌仙くんがね」
歌仙とはこの離れを訪れる級友の一人である。何を言い出したんだ、こいつは。長谷部は虚をつかれた。
「課題に使った図書室の本を返すの、君が忘れてやしないかと言っていたよ。きっと彼も忘れているだろうけど、次は歌仙くんが使うはずだから返した方がいい」
「……ああ、うん」
「返すといえば、こないだ母屋から拝借した湯呑みも返したかい」
「……返しておく」
声は、君は勉強のこと以外はすぐ忘れるからなぁ、と笑った。
それから、つらつらと、まるでこの離れで二人で杯を傾けているのとおんなじに、語らいは続いた。
長谷部はそのうちなんだか楽しくなってしまって、時折声をあげて笑いすらした。
「……ああ、長々と話しこんでしまった」
戸の外の誰かとは、誰だ。
「じき夜が明けそうだね」
これは俺の一番の友達ではないのか。
怪談噺のおしまいは、どうだったろう。
長谷部は、いつかの月夜にこんな風に語り合った男の顔を思い出した。柔らかい笑みを浮かべて、こちらを眺めていた美しい顔。
──俺は、それさえあれば他になにもいらないとさえ思ったのじゃなかっただろうか。
ほとんど衝動的に、戸板についた手に力を込めていた。
「みつただ、ッ」
ぎい、と音をたててぴっちり閉じていた戸に、ほんのひとすじの隙間ができたとたん。
「ああ残念」
長谷部の耳元に、ひんやりと凍るような風が――いいや吐息が触れた。
「…………よるは、もうあけてしまったよ」
外へまろび出た長谷部の目に、遠く空の向こうから陽の光が差すのが見えた。
景色の中に見覚えのある黒い手だけがぼんやりと浮かんでいたが、長谷部の手が届くよりも早く、やがてうっすらと消えていった。
そうして、夜だけの友人のおとないはそれきり途絶えた。
終わり。