弁シェリオメガバ 3話目attention
弁護ぴ α /シェリー Ω
・現在、シェリーにごぴじゃない番がいます。
1話目2話目に書いたとおり、ごぴが非っっっっ常に常識人です。かなり大人しい&冷めてる。サイコみは0です。むしろ、マイナス…。テンション激低です。まだそれほどシェリくんにも優しくない。が、今回ちょっとだけ進んだ。まだ自覚未満だけども。
そういうわけでサイコごぴ好きな方には向かない一品になっております。
繰り返しますがほんとに、弁護士ってのと喋り方くらいしか名残はない。確実にダレオマ状態。
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3話目 【シェリくん定期検診編】
「一松くん、これも頼む」
デスク端に積み上げた使い終わった資料を指先で叩き、手伝い要員の名前を呼ぶとハンディワイパーを手にしたままでトテトテこちらに歩み寄ってきた。
「…ん。あったとこに戻しとけばいいんだよね。これ全部…?」
分類場所を精査するためかこちらの手元を覗き込んだあと囁くようにして返された問いかけに、書類に目を通す傍らで一度首肯する。
そして不意に思い出した、明日の昼頃までに必要な仕事を振るため返事ついでに顔を上げた。
「ああ。それと明日なんだが…」
「…や、明日は無理っつったじゃん。あのさぁ、センセ…前もって何回か言っておきましたよねぇ、おれ…」
しかし、見やった相手の顔が思いの外不機嫌そうに歪んだため出しかけた言葉を途中で止める。が、呆れたようなため息とともに告げられた内容に心当たりがなさ過ぎて眉根を寄せる。
「ンン??…そうだったか?」
ここ数日の会話を振り返ってみるが、ほとんど意味のない雑談だったように思う。
「…ンで、スッパリ忘れてんだよ。定期検診だってば。それで半日以上潰れるから、そのあと買い物したりで手伝いには来れないからね。って確かに言ったと思いますけど。…覚えとけよ」
それでも、普段それほど自分の意見を押し通そうとはしない一松くんがここまで強く主張している上、その声にまで潜む剣呑さを耳にして先に折れた方が得策だろうと適当な相槌を返した。
「そ……ういえば、言われた気がしないでもないな」
その途端、呆れたようなため息と共に閉じ気味の瞼がさらに下がって、低く囁く声のあとに小さな舌打ちが落ちる。
「……そんなうっすい認識なわけ…??おれだって、…いつでもここにこれるほど、暇じゃないんでね」
「基本暇だろ」
少なくとも自分よりはよほど自由に使える時間があるはずの相手の言い分を鼻で笑って一蹴すると、
「は??…家事ナメんなよ?!結構重労働なうえかなり忙しいんですけど?!」
勢い込んで事務机に片手をついた彼のせいで書きかけていた字が歪んだ。仕方なくそれを脇に退け、その顎先に指を突きつけて口を開く。
「君が来てから一日減らしはしたが、週に2日家事代行が入ってたはずだが」
すると、嫌そうに細められた目がこちらを見下ろし、手に持ったハンディワイパーを怠そうに己の肩に打ち付けていた一松くんが小さく小さく不満を漏らした。
「……あー、最初の頃…マジで気まずくて死ぬかと思ったわ…」
「向こうも仕事でしかないのに、それほど気を使う必要もないだろ」
「いやぁ〜…、人を働かせながらのんびりできるほど…おれ、そこまで図太くないんスよねぇ…」
当てつけがましい言葉を耳にして多少はムッとしたが、ここで声を荒げるのも大人気ない気がしてペン先を打ち付け口端を下げる。
「人を無神経の代表みたいに言うな」
「…あのさ、先生。あんた、そこそこ無神経だからね…?今までのもまさかの無自覚かよ」
それに一瞬面食らったような顔を向けられたものの、すぐに普段の冷めた表情に戻った一松くんがどこか諦めたように短く息を吐いた。
「……まあさ、とにかく明日は無理なんで。明後日でいいなら用件聞きますけど」
「急ぎじゃないから、あとでいい」
無言で頷くこともできたが、それこそ大人気ない対応に思えて出した声はあまりにも面白くなさそうで、かえって大人気なかったと後悔したのは言うまでもない。
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珍しく自分よりも早く家を出る一松くんを見送るついでに当初の約束通り診療・薬代に足りる紙幣を手渡すと、驚いたようにそれを凝視していた彼にすげなく手ごと突き返された。
曰く、「自分で払える」らしいが必要はないと判断していた相手の意見を押し退けて無理に飲ませた抑制剤分を未だ支払ってもいないのもどうなんだと思えて、簡単に引き下がることもできずにそう告げる。そのあと再び手を差し向けると、渋々受け取った彼が居心地悪そうに口籠もりながら礼を述べた。
彼を拾わざるを得なかった日と比べてかなり血色が良くなり、少し丸みを帯びた頰を見下ろしてそんなに悪い診断結果は出そうもないなと楽観視していたその時点では、まさか顔色を失った一松くんが駆け込んでくる事態になるとは予想もしていなかった。
調停を白紙に戻したクライアントと今後の方針について打ち合わせている最中、応接スペースを間仕切るパーティションの外側で。普段、施錠してある事務所の入り口の方から音が聞こえたため、一言断り席を立つ。
どことなく焦っているような忙しない音がモニターを確認するまでもなく止み、次いで身体を滑り込ませるようにして入ってきた一松くんのかなり青褪めた顔を唖然としたまま見下ろした。
仕事の都合上、鍵は渡してあるとはいえ今までここまで手荒い使い方をされたことはない。
「…あの…仕事中、ほんとすみません…」
おどおどと落ち着きなく揺れる眼が床、左右、そして自分の順に動き、小さく震える唇が申し訳なさそうに音を紡ぐ。その様子からも思いがけないアクシデントがあったであろうことは確実だったが、今聞き取れた言葉からは何一つ状況が伝わってこなかった。
凭れるようにドアに背中を貼り付けている相手をそこから剥がして一先ず鍵を掛け直す。
「…なにがあった?」
その間も荒い息を吐くだけでなにも言わない相手に焦れて問いかけた。
ようやくしっかりとかち合った目が焦点を結び、一松くんが安堵したように大きく嘆息する。
「さっき…病院の帰りに、偶然……あの、会って…。家より、あんたの事務所の方が近かったから…ごめん」
誰とは言わなかったものの容易く見当がついた相手だけに、未だ細かく震えている背に手を添わせ小さく舌を打つ。
「…すまん。君に怒ってるわけじゃない」
大丈夫だろうとタカを括っていた自分の落ち度に腹が立っただけだったが、目の前で怯えるように跳ねた肩を軽く叩いて宥めた。
「ここに入ったのは?見られていると思うか?」
外で待ち伏せでもされたら厄介だな。とは思ったが、その場合は警察を呼ぶ手もある。
そんなことを考えながらも、ここからは見えない事務所下。大通りの方へとわずかに目をやると、すぐさま正面の頭がゆるゆると振られた。
「や……大丈夫だと思う。とにかく路地裏突っ切って、全力で逃げてきたから」
「そうか。なにか危害を加えられたりとかは?」
一度フルリと背筋を慄かせた彼が、打ち沈んだ顔色のまままた首を振る。
「…ん。特に…」
「早めに接近禁止命令をとっておくべきだったな。ただ、君の意思に反するかもしれないが申立てにはどうしても被害届が必要になる。それでもかまわないか?」
形だけという面がなきにしもあらずとはいえ、αからΩを守る手段がないわけでもない。
深刻化する事例が多いせいか、一般的な夫婦や恋人間でのDV・ストーキング事案よりも簡単に、さらに短期間で保護命令が発令されるため『取ろうと思えばいつでも取れる』と先延ばしにしていた結果がこれだ。被害届を出すのを躊躇っていた一松くんに無理強いするわけにもいかない、というのを口実にしていた自分の二度目の落ち度を反省しついでに歯噛みした。
「今日中に手続きをとるから、今度またこういうことがあったら報告してくれ」
返事がないことを肯定と見なし、拒否する言葉が聞こえてくる前に会話を打ち切る。
この状態で一人で帰せるはずもなく、居心地悪そうにしている目の前の相手の背を押した。
「あの……おれ…」
「落ち着くまで、……奥の資料室にでもいてくれるか?あとで様子を見に行く」
かなり戸惑っているのがわかる視線を向けられ、それに対して顎をしゃくる。
少し手狭だが唯一内鍵のかかる部屋をそうやって示すと、一度小さく頷いたあとでノロノロ歩いて行った彼の丸まり気味の背中がドアの向こうに消えていった。
それを見届けてから眉間を指先で押して息を吐く。
接近禁止命令の効力は6ヶ月。再度の申立てもできるとはいえ、可能ならその間に落とし所を見つけられるのが一番いい。ただ、今まで当事者である一松くんから聴き取っていた内容から類推するにあたって、すぐそこにいるクライアントと同じく調停不成立で終わる確率が高い気がしてならなかった。
※※※※※※※※※※※
申立て書など必要書類の作成と被害者である一松くん当人からの聴き取りなどで、普段よりも遅い時刻に帰路を辿る。その途中で「逃げるのに必死で買い物してない…」とボソリと呟いた相手に半ば引き摺られるようにして何軒かの店を経由し、ようやく辿り着いて一息ついた自宅にて。
食卓を前にして覚えた違和感と落ち着かなさから、眼下に並べられたそれを無表情で見つめた。
「…なんだよ。自分で選んだくせに、嫌いなものでもあった…?」
先に席についていた一松くんから怪訝な表情で問いかけられて、曖昧に濁して椅子を引く。
1ヶ月と少し。2ヶ月までは経ってないはずだが、いつ以来か。時間も時間だしと言われて買ってきた、出来合いの惣菜の類を見て抱くには不似合いな感情を持て余して、置いてある箸に手を伸ばした。
「で?検診の結果は?」
揚げ物8割の中に点在する申し訳程度のお浸しや煮物をつまみながら話を振る。
ちょうど湯呑みを手にした彼がそれを傾けたあとで口を開いた。
「ん…変わらず。…だったけど、なんか……めちゃくちゃ体重増えてた…」
なんでだよ…と違わず訴えかけているような表情を浮かべただけに、聞くのもどうかと思ったが…恐る恐る尋ねる。
「……アフターピル。間違いなく飲んだんだよな?確か…」
「妊娠じゃねぇわっ…怖いこと言うんじゃねぇよクソ弁護士が…。じゃなくて、単純に……食いすぎて太ってた」
こちらの問いに一瞬で目を見開いた相手が一声喚き、だんだんと言いにくそうに口籠もっていった。
「ああ、なるほど。一日三食どころか午前と午後と深夜にもしっかり間食してるもんな」
聞こえてきた内容を耳にして知らず詰めていた息を吐き出し、ついでに鼻で笑う。
すると今度は驚愕したように動きを止めた一松くんが、忙しなく室内を見回し始めた。
「え……なんで知って………まさか、監視カメラとか…??」
「つけるならペットカメラだろ。あと、そうだな。君はなかなか詰めが甘い」
前々から気づいてはいたもののまた倒れられるよりはマシだと放置をきめこんでいただけに、笑いを堪えて相手に指を差し向ける。純粋な関心事として、あの量がどこに消えてるのか本気で不思議に思っていたこともあり、呆気に取られているらしい彼の顔を見やった。
「食費としてまとめた数字を計上するでもなくレシートをそのまま渡してくるからな。それに分別してキッチンのトラッシュボックスに捨てているようだが、俺も使わないわけじゃない。それにプラスして、あれは……一度二度の間食で食べ切れる量じゃないだろ。むしろどこに収まってるんだ?」
「……うちにいた時より動いてるから、腹減るんだってば…」
「で、その分しっかり身についたってわけだな」
事実として検診で言い渡されたことを蒸し返してやると顔を顰めたのに足されて舌打ちまでされたが、次第にモゴモゴ居心地悪そうに口元を動かし始めた一松くんが言い訳がましく呟く。
「…や、だってさ…あんたなに出しても全然文句言わないから自分の好きなの食べれるし…そのせいもあるっていうか…」
「問題なく食えるなら別になにが出されようとどうでもいい」
淡々と出した言葉に彼がわずかに眉をひそめるのが視界の端に映り込んだ。そのまま心の底から興味なさそうに箸でつまみ上げた惣菜を口に放り込んで咀嚼する。
どうでもいいと嘯きながらも食べ足りなさではなく、物足りなさから胃が落ち着かない。なんてことは言う気もない。
「……楽っちゃ楽なんだけど、死ぬほど張り合いねぇわ…」
「あれがマズい、これが嫌い。一々面倒くさいこと言われるよりマシだろ」
冷めた目でこちらを見つめる彼に呆れられつつ言葉を返しながらも、考えていたのは別のことで。
「なあ、一松くん」
昨夜遅くにキッチンにこもってなにかを作ってた当人の名前を呼ぶと、その声かけが唐突だったためか警戒の滲む口調で「…なに」と問われた。
「昨日の夜、なにか作ってたよな」
「…あ?…あー、まあ。期限切れになりそうな挽肉と使いかけの野菜があったから、カレーそぼろ……え。まさか、あんたまだ食う気…?」
少しの間考え込んでから寄越された返事に次いで、若干引き気味に尋ねられたがそれにはっきり頷き返す。
「えー…。ご飯炊いてないから、冷凍になりますけど…」
あんたの方こそどこに収まってんだよ…とのボヤキは聞き流すことにした。
器の半分ほどに減った白米を見下ろして、どうせなら一松くんが夜食によく作ってる猫にぎりにしてもらうんだったか。と多少の後悔を抱きつつ、しかしそれより優先するべき懸念事項を耳にして器と箸を置く。
「出会い頭に、『探してた』と言われたのか?」
本人が濁そうとしているような物言いだっただけに、簡潔にまとめてみたが…。伝わってくる熱量がそもそも違う。おそらく『探してた』なんて生易しいものではなく、他に聞き及んだ相手の様子から『あの日からずっと』『寝食も忘れて』探すことに没頭していた。に近い切実さを感じた。
「変わったように見えた点は、相手の外見くらいか?」
「……まあ。スーツ着てて仕事中っぽかったし、前見た時よりやつれてるな。くらいしか思わなかった…よね…」
仕事中なら、普通に仕事に行けるくらいな状態なんじゃねぇの?
おれに聞くなよ…と言わんばかりの投げやりな態度で呟いたのち、急に挙動不審になってこちらをチラチラと窺う。
「や…あのさ。そもそも、噛まれた時含めて3・4回くらいしか会ってないからね…ほとんど知らない人だし」
そう告げたと同時に上げられた手が、噛み跡が残っているであろう首の後ろを撫でていた。
当時を思い出したのか、不愉快そうにグッと寄せられた短い眉を眺めて頬杖をつく。
「しかしな、…話を聞くにつけ思うんだが。相手の、その…君への執着が過多…、というか。少々、異常さを感じさせるレベルなんじゃないのか?」
俺の気のせいか?と思わなくもないが、番を持ったことのない自分の感覚が正しいのかもわからない。
「…執着、…つーか。単に、まだ…一応、番だからじゃないの…?」
だからといってΩの気持ちがわかるのかと言われれば、なおさら推しはかり難いだけに当事者に聞くしかなく。それでもこの当事者は、無理矢理とはいえ噛まれた直後から番った相手に背を向け続けているわけであって…。
正直にいってしまえば、理解し難い。表面的なことは本や論文を読めば学べるがそれが全てではない上に、αだΩだ番だと言われる煩わしさから意識的に深く探るのを避けていた分野だったため今になって頭を抱える羽目になっている。
今、彼が口にした言い分もわからなくもない。
「そうはいうが…。どちらかといえばΩからαへの執着の方が強いものなんじゃないのか?一般的にはそうなってるだろ」
わからなくもないんだが、常識のように語られていることと目の前の人物の様子がかけ離れていて、考えついでに椅子の背にもたれて腕を組んだ。
「…おれに聞かれても」
戸惑っているのが手に取るようにわかる表情を浮かべて口を閉ざした一松くんに、一拍間を置いてから話しかける。
「うちにきてどれくらい経った。1ヶ月と少しくらいか?」
「あー…?…多分、そんくらいじゃない?家主なら妙なモン拾った日くらい覚えとけよ…」
面倒くさそうに首を傾げた相手が最後には下唇を突き出して不満げに言った。
「自分で『妙』とかいうな。それなら拾われた日くらい覚えておいてくれ。…いや、そういう話じゃなく。君の方はまったく変わりないように見えるんだが。もしかして、こちらに言い出せずに裏で無理してたりするのか?」
話がズレそうになったため軌道修正を促し、今更だが全く気遣ってこなかった自分自身に呆れる。
皮肉屋で卑屈なくせに、変なところで遠慮がちになって一歩引く性格であることをここ1ヶ月の共同生活で知っていたため、途端に心配になって尋ねると、
「……や、別に……そんなことないけど…」
むしろ居心地悪そうな声が返ってきた。それにとりあえずは安堵して息を吐く。
「まあ、そうだろうな。食欲が落ちるどころか体重が増えたくらいだもんな。…でも、だ」
正面から発せられたうっせぇよ。との苦々しいクレームはこの際無視する。
「普通、番から引き離されたΩは精神的にも肉体的にも摩耗すると話には聞いていたんだが…あれは、個人差があるのか?」
マジマジと見ても、出会った頃より血色が良くなっている相手の姿に首を捻った。
「…だからさ、おれに聞かれてもわかんねぇって…」
「君に聞くしかないだろう。本人なんだし」
困惑の最中にボソボソ落ちたその声に、こちらも困って頭を掻く。
「………じゃあ、個人差があるんじゃないですかね…。なんともないし…」
「個人差、なぁ…?」
今はなんともないかもしれないがこの先、一松くん自身が相手のαのような状態になる可能性もないわけじゃない。
そうなる前に手続きを踏んで解除にまで漕ぎつければいいが、生命に危険が及ぶほどになれば目下医療機関に頼るしか手はなくなる。もしくは、諦めて相手のαの元へ行くことになるか。
「この際、個人差でもなんでもいいが君はともかくとして、相手の状態は少し気にかかる」
今現在でさえ危うさを感じさせるほどなのに、精神的に追い詰められた時どんな行動に打って出てくるか全く予想がつかない。
それに、そこまでの執着を感じさせる行動を取られると先日聞かされた話も相まって、どうにもうまく解消できない疑惑が湧いてくる。
一松くんが言っていたように、もしその相手が彼にとっての唯一無二の番だとしたらその病的なまでの執心も説明がつくんじゃないか?
もし、そうならば。
…捨てられるのが怖いと言わんばかりだった彼の言い分からして、その不安が払拭されたのなら…一切迷うことなく相手のもとに戻れるわけだ。
それならそれで、いいはずだった。収まるべきところに、話し合いだけで問題なく収まれるならそれが一番ベストな解決法のはず…なんだが。
解決に向けて後押しをするべき今になって、重く閉ざされたままの口を片手で覆い隠す。
なんと言ってやればいいのか、適当な言葉を探すがまとまりのない思考がふさわしい単語さえ絞り出せないでいるうちに、
「…あ」
向かいから一言。思わず口をついたとでもいうようなボンヤリとした声が聞こえてきた。
一瞬窺うように視線を寄越されたものの、まだ口を開くのが億劫で見つめ返して話の先を促す。
「や、そういえば…。今日、病院で似たようなこと聞かれたわ」
「…似たようなこと?」
直近の『相手の状態について』かと思ったが、決めつけるよりは大人しく内容を聞いた方が早い。
「…ん。体調とかでおかしいとこはないかってのから始まったんだけど、おれ…ほんとなんともないんですよね…」
「それで?」
「あー…、それで。…っと、強い不安感に襲われたり、急に情緒が乱れて涙が出てくることはないかって…聞かれたけど、ないって答えたら…じゃあ、身近に誰かαはいるかって言われて…」
言いにくい話なのか、途切れ途切れで進んでいた一松くんの話し声がそこでプツリと断たれて申し訳なさそうな瞳がこちらを見上げてきた。
「…あの、名前とか出してないけど…一時的に世話になってる人がそうだって答えたら…なんか妙な顔された」
自分の名前云々はともかくとして、医師がしたという『妙な顔』の詳細を問うため、無事話し終えたとでも言いたげに呑気にお茶を啜り始めた相手に目を向ける。
「理由は」
「医者が言わないのに聞けるわけないでしょ…」
コクリと喉が上下したあと、嫌そうに顔を歪めてみせた彼の出した答えがあまりにも彼らしくて項垂れついでに眉間を指で揉み込んだ。
「なんのための検診だ」
苦い呟きを漏らすと、なにがおかしいのか「ふひっ…」なんてどこか機嫌の良さそうな声が降ってくる。
「…まあ、そういうわけだから。問題はないので、また3ヶ月後にきてください…で、終わり。…診察代余ったし、あとでお釣り返す」
「それは生活費に入れといてくれればいい」
言葉を返しながらも、ふと湧いた疑問に顔を上げて相手にジッと目を向けた。
デリケートな問題だけに、触れていいものかと迷ったもののやはり気になり鈍りそうな口をゆっくりと開く。
「……ほんとに咬まれたのか?」
疑いが滲む自分の問いかけを受けてほんの僅かに目を瞠った一松くんの瞼がいつも以上に瞳を隠し、まるで笑むような表情を浮かべて首の後ろを指差した。
「……………見る?歯型…」
「いや、そこまでは……いい」
嘘偽りもなさそうなその物言いに、それ以上は踏み込めなくて首を振る。
自分の出した不用意な質問のせいでしかないが、その場を占める張り詰めた空気を誤魔化すように空咳を落とした。
「…そもそもな?なんでネックガードをしてなかったんだ。無理やり剥ぎ取られでもしたんだったらそれはそれで問題だぞ」
ある一定の安全・耐久性を求められるものだけに、理由によってはメーカーの責任問題にまで発展しかねない。
実際の状況がどうだったかについては自分には知りようがなく、本人の口から語られる言葉を待っているとその本人が戸惑った様子で両手の平をこちらに向かって広げてみせる。
「……や、あのさ。言い訳みたいに聞こえるかもだけど……。アレって、マジで蒸れて皮膚やられるんだよね…。あの日は…死ぬほど痒くて、まだ……くる予定じゃなかったし…猫の様子見に行くくらいの少しの時間だし……って、油断してただけ…です」
別の意味で死ぬほど畏まって、彼のいうところの『言い訳』を語り終えた一松くんが気まずそうに背を丸めた。
そういえば、初めて会った日に鬱陶しそうに首を掻いてたななんてことを思い出す。
「そうか」
それ以外で言いようもなく、置いていた箸を取り上げた。器に手をかけたところで、
「……そうなんですよねぇ…」
投げやりでもなく、悲観的でもなく、どちらかというと少し楽しそうにも感じられる相槌が返ってきたためその心中をはかり兼ね、目を眇めて相手の顔を見た。
「まさか、楽しんでるのか?」
「え。……なにを」
「この状況を、だ」
無意識の呟きだったのか、訝しげな表情を浮かべた相手にかける語調が知らずキツくなる。
「は?先生、あんたなに言ってんの…楽しいわけねぇじゃん。無理矢理噛まれて番にされるとか、…最悪でしかないだろ」
じゃあ、さっきのはなんだったんだと問い質そうと口を開きかけた矢先に。
またしても楽しそうな笑い声が正面から聞こえ、
「…まあ、でも。それ以外なら、楽しい部類に入るんじゃないですかね…。別に、あんた悪い人じゃないし…」
「……むしろ、こっちが余計な手間と迷惑を増やされてる気がするんだが」
告げられたセリフに毒気を抜かれて、うまい言葉が出てこないまま咄嗟に皮肉じみたものを返す。
「ハッ、…くっそムカつく…」
言いながらも口元を弛ませた一松くんが自分の湯呑みと空いたフードパックを持って席を立ち、上からこちらを見下ろして猫のように目を細めた。
「…先生さぁ、仕事以外だとあんまり嘘つけない人だよね……ひひっ」
一声独特な笑い声を漏らしてキッチンへと歩いていくその後ろ姿を見やってから片手で顔を覆う。
どこが。とまでは明言されなかったが、おそらく相手が本音を読み取れるほどのわかりやすい表情を浮かべていたであろう自分に嘆息しつつ…。彼のいう『楽しい』に関連する相手が誰を指すかを考えるにつけジワジワ湧き上がってくる感情を直視できず、とりあえずは持て余してしまう前に無理矢理抑えつけた。
※※※※※※※※※※※※
別に、あれからなにかが変わるわけでもなく。
色々と面倒な事情が重なって普通とは多少異なるものの、弁護士とクライアントという立ち位置を変えるつもりもないだけに適度な距離感を保っているつもりでいた。
それでも、『居て当たり前』のようになりつつある感覚があまりに据わりが悪く、何度か意識的に生活時間をずらしてみたり仕事という大義名分のもと事務所に泊まり込んで過ごしてみたものの、馴染んだ気配から切り離される方が落ち着かないという結論が出ただけだった。
PCに向かっている最中、事務机の傍らに一松くんが抱えて持ってきたファイルが置かれる。
「…残り、今持ってくるんで…」
頼んだ量が量だけに一度では持ってこれなかったらしい相手が、初対面から変わることのないボソボソとした話し方でそう告げた。
返事をするまでもない内容だっただけに普段どおり無言を押し通すつもりが、
「……なあ、一松くん…」
彼の名を口にした自分こそが、部屋の空気を震わせたその声に驚く。
ほとんど無意識で声をかけてから、なにを言う気だったんだ?と内心首を傾げていると、
「…なに。他に用でもあった?」
まあ、そうだよな。と思うようなことが聞こえてきて、こめかみを押しつつフッと息を吐き出した。
1ヶ月以上経っても、めぼしいバイト先が見つからないらしい一松くんなら申し訳なさそうにしながらも受け入れてくれそうな気もするが。
いいバイト先が見つからないのなら、このままここに残って働かないか。とか、他に選択肢のない状態でそんな話を振っていいのかという躊躇いもある。
彼がきてから仕事を覚えるまでの間はそこそこ余計な時間を取られたが、今となってはいてくれた方が助かるというか、いない時の方が進捗に支障が出るというか。今まで自分でしていた細々した雑務を請け負ってくれているだけに突然いなくなられた場合、色んな意味で困ることになりそうだった。
だからといって…彼が今、仕方なくここにいることなんかわかりすぎるほどにわかっているだけに下手なことは言えず断られるに決まってる誘い文句をグッと飲み込む。
「…あー…その。コーヒー…頼んでもいいか?」
ちょうど一口分、底の方に残っていたコーヒーを飲み干してカップを相手の手にのせた。
なにを思ったのか、一瞬目を丸くした一松くんが楽しそうに唇の端を引き上げこもった笑い声をもらす。
「…ひひっ、どんな気まぐれだよ。いつもそんなこと言わないのに…」
意外な言葉を耳にしたとでも言いたげに、笑いながら小さく肩を揺らす相手のどことなく緩んだ表情を見上げた。
「……そうだったか?」
「…ん。どっちかっていえば、コーヒー。その一言だけだったわ…しかも、こっち見やしねぇし…」
あんたマジで感じ悪かったからな…??
猫背のせいかこちらを覗き込むような格好のまま、ところどころで人を貶しながらしつこく笑っている一松くんを見つめて目を細める。
「そうだったかもな」
その返答に相手の口からこぼれる笑い声が途切れた。
「……あの、さ…もしかして、風邪でも……いや、…てか、普段のあんたなら、絶対なんか言い返してくるとこだと思うんだけど…」
どうも、不調を疑われるほどのらしくなさのようで、顔をわずかに歪めた彼が口籠もりながらも必死になって訴えかけてくる文言を聞き取り終わってから鷹揚に首を傾げてみせる。
「言い返した方がいいか?」
そっちの方がいいならいくらでも付き合うが、先程までの楽しげな表情が消えたのが少しだけ口惜しい。
示される態度の違いに刹那、薄気味悪そうな目を向けてきた一松くんが根負けしたように視線を外した。
「…どっちでも好きにすれば…。ですけど、…単にちょっと…」
気持ち悪ぃ…。
最後、音になり切らなかった言葉まで簡単に察することができて『嘘をつけないのはどっちだ』と内心独り言ち、噛み殺せなかった笑いに肩を揺らす。
「…え、マジで怖いんですけど…大丈夫なわけ…?」
するとすぐそこで『頭は大丈夫か』までは言われなかったものの、本気が滲む呟きが落ちた。
3話目 シェリくん定期検診編おわり
4話目 シェリくん、番と対峙する編へ続く
また足してくけど、実はポツポツネタとして書いてきたのほとんど今回で書ききりまして、すぐ話に起こせるの次話の途中までだったりする。起こる大まかな出来事&経過と終わりまではぼんやり筋道として見えるんですけどね。いつもが大体そんな見切り発車。さてどうなるやら。しかしおそらくあと3、4話書けば終わるであろう。